感謝
「ちょっと散歩行ってくるね」
朝食の洗い物を手伝いながらそう言うと、祖母はどこからか麦わら帽子を持ってきて「これ被ってきなさい」と渡してくれた。
「じいちゃんが入院してる時に買っておいた奴だけど、使ってもらえんかったから」
祖父は俺が小学校に上がった頃に大きな病気に
すぐに入院して手術まで受けたのだが、結局退院することすら出来ずに亡くなってしまった。
つばの広いそれは”昭和の夏”といった趣を感じ即座に気に入った。
「おばあちゃん、ありがとう」
玄関を一歩出た途端、夏本番を迎えたばかりの日差しが容赦なく照りつけ、思わず「アッツ!」と心の声が漏れてしまう。
「今日も暑いですね~」
「気温とかもわかるんだ?」
「わかりますよ。もしかして万里くんはわからないんですか?」
「……普通にわかるけど」
そう言ってむっとした表情を作って見せる。
「冗談ですよ」
俺は以前から幽霊を信じてはいなかったのだが、たった二日でその存在を肯定するしかなくなったどころか、よもやこうして冗談まで言われようとは、人生というのは本当に何が起こるかわからない、
俺とその幽霊の千尋ちゃんが向かっているのはここから歩いて五分程のところにある隣の集落の叔父と叔母の家、つまりは彼女の実家である。
昨晩に彼女が言っていた『見えない壁みたいなのがあって入れなかった』ことを再検証することが目的なのだが、当の本人は何故だかとても楽しそうな足取りであった。
先ほどから手を後ろに組みながら、まるで仔犬のように俺の周りをくるくると回っている。
「千尋ちゃん、やけに楽しそうだね」
「え? わかりますか?」
わかりますかも何も、小首をかしげたその顔が
「今から遠足にでも行く小学生みたいに見えるよ」
「昨夜、夢の中でお父さんとお母さんとお喋り出来たんです」
「へえ……。で、どんな話をしたの?」
「はい。ちゃんと今までのお礼、言えました! これであと四個です!」
四個というのは、昨夜彼女が言っていた『これからやりたいこと』のことだろう。
残りのそれがどんな内容なのかはわからないが、セオリーからすればそれを全てをやり終えたその時、彼女はあちらの世界へと旅立つことが出来るのかもしれない。
「残りの四個はどんなのなの?」
「ナイショです。でも、最後のひとつ以外はハードルを低めに設定してあるから、きっと大丈夫です」
「……そっか」
そうこうしているうちに、この辺りでは珍しい五階建てのマンションが遠くに見えてくる。
それの一室が彼女の実家だそうだ。
「千尋ちゃん、何階?」
「一番上の一番奥です」
階段脇のエレベーターに乗り込み五階のボタンを押下すると、俺達を乗せた鉄の箱は小さなモーター音を伴って上へと動き出した。
「私、エレベーターって大好きなんです」
「あ、俺も。なんか匂いがよくない?」
「えっ。へんなニオイじゃないですか?」
「新車の車みたいで良いと思うんだけどなぁ。千尋ちゃんはエレベーターの何が好きなの?」
「ボタンがいっぱい付いているところです!」
「わかるようなわからないような」
エレベーターはすぐに五階へと到着し、ゆっくりと開かれた扉から共用部分の廊下へと歩み出る。
建物に取り付けられたドアの数からするとワンフロアーあたりに四世帯の住居があるなので、一番奥は多分504号室になるのだろう。
地上から僅か十数メートルの高さに来ただけだったが、廊下を吹き抜ける風は随分と涼しく、数百メートル南にある海の匂いが混ざっていた。
「ここです」
彼女が指差すドアの脇に掲げられたネームプレートには『勾坂』の文字があり、叔父と叔母、そして彼女の名前が書かれていた。
「じゃあ、インターホン押すよ」
「はい。お願いします」
彼女は少しだけ緊張した面持ちでスカートの裾を直す。
『はい……あ、万里ちゃん。いらっしゃい』
インターホンのスピーカーから聞こえてきた叔母の声は、昨日までのそれに比べると随分と明るいような気がした。
すぐにガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえ、開いたドアの奥から叔母が顔を出す。
その顔色はやはり予想していたよりも遥かに良いものだった。
「叔母さん、こんにちは。急にすいません。あっちに戻る前にもう一度千尋ちゃんに手を合わせさせて貰いたくって」
「ありがとう、万里ちゃん。おじさんはちょっと出掛けているけど、どうぞ上がって」
叔母はそう言うとシューズボックスから取り出したスリッパを足元に置いた。
「お邪魔します」
玄関で靴を脱ぎながら振り返ると、千尋ちゃんが顔の前で手をクロスさせて大きくバッテンを作っている。
やはり彼女はこの家に入ることが出来ないようだが、その表情は母親と同じで不思議とあまり暗さを感じなかった。
叔母に案内されリビングの隣にある和室に通される。
千尋ちゃんの遺影が置かれた祭壇の前に座り線香に火を着けて静かに手を合わせていると、俺は何をしているのだろうという本来浮かぶはずのない疑問が、胸のあたりを一気に通過して喉元まで込み上げてくる。
何せ俺の場合、ここで彼女の冥福を祈るよりも、玄関まで戻って本人にその旨を伝えたほうがてっとり早いのだから。
「万里ちゃん」
背後から掛けられた声に座ったままに振り向くと、叔母が真剣な顔をしながら膝を寄せてきた。
「――どうしたの?」
「おばさん、ちょっとへんなこと言うけど。いいかしら?」
「……うん」
「昨夜ね、娘が夢で会いに来てくれたの」
「……へえ」
「あの子、私とおじさんに『今まで育ててくれてありがとう。短い間だったけどすごく幸せだった』って、そう言ってくれて……」
叔母は瞳に涙を浮かべていたが、その表情はと言えば笑顔といっても良いような明るいものだった。
「それで、目が覚めておじさんに話したら『俺も同じ夢を見た』って」
どうやら本当にめっちゃ伝わってたみたいだった。
「あと、もう一つだけ言っていて『お母さんからも万里くんにお礼を言っておいて』って」
それこそ直接言ってくれればいいのにと、思わず玄関のドアの方を見てしまう。
「ありがとう、万里ちゃん。あの子きっと、あなたのことが好きだったのよ」
「……うん」
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