希求

 口にとてつもなく柔らかいものが触れる。

 それが彼女の唇だと気づいた瞬間、漫画や小説などでよく目にする『心臓を鷲掴みにされたように』という表現が、どれほど適切だったのかを思い知った。

 これが意図的なキスであれば互いに瞳を閉じるのがセオリーなのだろうが、全く予期せぬ出来事でしかない今、それとは真逆に俺も彼女も目を大きく見開いていた。


 起ってしまった事態は即座に理解した俺だったが、それに思考が追いつくまでに数秒の時間を要してしまった。

「ご、ごめんっ!」

 謝罪の言葉を発しながら頭を後ろに大きく仰け反らせる。

 背後に壁でもあって後頭部でもしたたかにぶつけでもすれば今し方の出来事から互いの気を逸らすことも出来たのだが、残念なことに俺の頭部が向かった先には何もない空間があるだけだった。

 まるで幽霊でも見てしまったかのように驚愕の表情を浮かべているであろう俺に対して、もう一人の張本人たる彼女はといえば視線すら定まらずに、ただぽかんと口を開いて動作を停止してしまっていた。

「……千尋ちゃん?」

「――っ」

 ようやく耳に声が届いたのか、彼女は自動人形オートマトンのようなぎこちない動きでそっと自分の唇を触れると、同じような動作で回した首をこちらへと向ける。

「あの……千尋ちゃん?」

 俺は俺で壊れかけの蓄音機と成り果て、幾度となく彼女の名を繰り返す。

「……四つ目です」

「……え? よっつ?」

「はい。前に言った”叶えたかったこと”です」

 それは確か、彼女があちらの世界に旅立つまでの目標のようなもので、数日前には六つ決めたうちの三つまでもを叶えたと言っていたあれだろう。

「四つ目って、千尋ちゃんはその……キスを……したかったってこと?」

「はい。です」

「へ? 俺と?」

「私が死んだ時のこと、お話してもいいですか?」

「……うん」


 俺の横に移動し体育座りをした彼女は、湖の遥か対岸に見える街の明かりの方に目を向けながら口を開いた。

「あの日は夏休みに入ったばかりで、私は陸上部の練習がお昼前に終わったから、同じ方向に家があるお友達と一緒に帰っていたんです」


 ――その友達と途中で別れた彼女は、あと数百メートルで自宅という交差点で、信号を無視して曲がってきたトラックの車輪に巻き込まれた。

 次の瞬間、道路の血溜まりの中で息絶えている自分の”身体だったもの”をすぐ近くから見ていたそうだ。

 そこで気を失った彼女は、とても不思議な夢を見たという。


 気がつくと彼女は家の近くにある海岸にいた。

 景色こそよく知った場所だったのだが、そこには色というものが存在しておらず、黒い海と白い空、そしてやはり白い砂浜が目の前に広がっており、自分は何故か幼い子供の頃の姿をしていた。

 何かとんでもないことが起きていることだけはわかった彼女は、その場を動くことすら出来ずにしゃがみ込むと、その姿に見合った泣き方で大粒の涙を零しながら父と母を大声で呼んだ。

 しかし、その世界は色だけではなく音までも存在していなかった。

 彼女がいくら泣き叫ぼうと、誰の耳にも――自分の耳にすら――その声は届かなかった。


 やがて泣きつかれた彼女は自分の膝に顔を付けると、この恐ろしい夢が覚めるのをひたすら待った。

 それはとてもとても長い時間だったそうだ。

 彼女は色も音もない世界でたった一人きり、ずっと夜明けを待っていた。


(わたし、もうダメなのかな……)

 彼女がそう思ったのは、それから何時間か、それとも何週間か、もしかしたら何年も経ってからだったかもしれない。

 彼女は最後の力を振り絞り、小さな体から思い切り声を張り上げようとした。

「だれか! だれかいませんか!」

 声が出た。

 それだけでも心臓が止まる程驚いた彼女だったが、すぐにもっと驚くことが起きた。

「――おーい!」

 声が聞こえた方に全力で顔を向ける。

「ちいちゃーん!」

「……ばんりくん?」

 声はすれども姿は見えなかったそうだが、それは確かに俺の声だったという。

「ちいちゃーん! どこー!」

「ばんりくーん!」

 懐かしい声の聞こえる方向へと彼女は懸命に走った。


 次に気がついた時、今度はよく知った顔ぶれの人混みの中にいた。

 それは中学の同級生達で、彼女はようやく安堵の溜息をつくことが出来た。

 ただ、それも束の間であった。

 仲の良かった友達も、いじわるなことばかり言ってくるちょっと苦手な男の子も、誰一人として彼女の問い掛けに答えないどころか、目を合わせてくれようともしなかった。

 彼ら彼女らがいたのは学校の校門の前で、やがてやって来たバスに次々と乗り込んでいく。

 彼女も急いでバスに飛び乗り、到着したのが祖母の家だった。

 そしてそこで、自分が本当に死んでしまったことを知ることになった――。



「だから万里くんは私の恩人なんです。五個目の願い事は万里くんにその時のお礼を言いたかった。だから残りはあと一つだけになっちゃいました」

「……恩人って、俺は何も」

「ううん。もし万里くんが私のことを呼んでくれなかったら。私は今もきっとまだ、あの色も音もない恐ろしく寂しい世界で、たったひとりきりで泣き続けていたと思います」

「……」

「小さかった頃。満天の星空を一緒に見て、私はあなたのことを好きになりました」

「事故に遭ったあの日の夜。私のことを助け出してくれたあなたを、もっと好きになりました」

「そして今日までの数日間は、もし私が百歳まで生きていたとしても得られなかったと思えるような、本当に大切な宝物のような日々でした」

「……千尋ちゃん?」

「万里くん」

「うん? なに?」

「お願いがあります」

「なに? 俺に出来ることなら」

「もう一度……。今度はちゃんと、キスをして欲しいです」

「……こっち向いて」


 向き直った彼女の肩に手を置きゆっくり顔を近づける。

 彼女の大きな瞳が静かに閉じられたのを確認すると、桃色の小さな唇に、自分のそれをそっと重ねた。

 身体の一部を僅か数センチ接触させるだけの行為ではあったが、それはまごうこと無く聖なる瞬間だった。

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