接触

 千尋ちゃんの小さな身体を半ば抱きかかえるような勢いで”旅館 賽の河原”から遠ざかると、程なくしてロープウェイ乗り場へと到着した。

 ここもこことて待ち時間なしで、ほいほいとゴンドラに詰め込まれた俺達はすぐに空中に放り出される。


 広大な汽水湖の上を滑るように移動するそれは、対岸の山の天辺にあるオルゴール館を目指していた。

「私、ロープウェイも初めてなんです」

「そうなんだ。高いところは……平気か」

 振り返ればすぐそこに見えるであろう、白いレールの乗り物を思い出す。

「はい。万里くんは?」

「俺もまあ大丈夫なほうかな。うちのお父さんは苦手みたいだけど」

「私のところもお父さんはダメみたいです。男の人のほうが苦手なのかもですね」

「俺も男なんだけどね」


 僅かに波が立った湖面に反射する太陽の光が、オレンジ色の光をユラユラと輝かせながらゴンドラの白い壁を照らしつける。

「なんだか壁が水面みたいできれいです」

「ほんとだね。水鳥にでもなったみたいな気分だ」

「『白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ』って歌、知ってしますか?」

「牧水だっけ?」

「はい。私、好きなんです。この短歌」

 国語はあまり得意ではなかったが、この歌の意味は”海の青にも空の青にも染まることが出来ずにいる孤独な水鳥の悲哀”で合っているだろうか。

 だとすればそれはまるで、この世に居ながら俺以外の誰とも関わることの出来ない千尋ちゃんのことのようで、やはりそれはとても悲しいことのように思う。

「千尋ちゃん」

「はい?」

「もしも、もしもだけどさ。このままずっと――」

 彼女の瞳に映る自分を見つめながら、数日前から考えていたことを口に出そうとした、その時だった。

「きゃっ!」

「うわっ……と?」

 そこそこの速度で空中を進んでいたゴンドラが、突然にその動きを止める。

 よろけて転倒しそうになった彼女の身体を咄嗟に伸ばした腕でしっかりと掴まえ、そのまま胸の中に抱え込む。

「なんだなんだ? どうした?」

 振り子のように揺れるゴンドラの中で辺りを見回すも、見えるものはといえば美しい風景だけで、そこにこの事態を推し量るようなヒントは一つもなかった。

「……万里くん」

「大丈夫。落ちることは絶対にないから。でも、本当に何だろうね?」

 僅かな沈黙のあとゴンドラのドア付近から『お客様申し訳ございません! お怪我等はございませんか?』と女性の声が聞こえてきた。

 そちらの方に目を向けると壁の一部に無数の穴が開いているのが見て取れた。

 恐らくそこにスピーカーが設置されているのだろう。

「はい。大丈夫ですけど……どうしたんです?」

『たった今、園内全体で電源の供給が停止してしまったようでして、只今より早急に復旧活動を行わせて頂きます。本当に申し訳ございませんが、今しばらくそのままお待ちいただけますでしょうか?』

 ”お待ちいただけますでしょうか”と言われても、俺と千尋ちゃんにそれ以外の選択肢があるわけもない以上「わかりました」と答える他なかった。

『安全は確保されておりますので。本当に申し訳ございません。前方と後方に一面ずつ緊急時用に窓が開放出来るようになっておりますので、そちらを開けて頂いて風が通るようにして頂けますでしょうか?』


 急停止したことで発生したゴンドラの揺れはやがて収まり、それに少し遅れて幾許いくばくかではあったが安堵が訪れた。

 遅かれ早かれ復旧はするだろうからその点の不安はないのだが、もし懸念があるとすれば、それまでに俺がトイレに行きたくならないかどうかだった。

 係の人に言われた通り窓を開けると、心地の良い風がゴンドラ内の空気を一気に入れ替えてくれる。

「待つしかないみたいだね」

 ゴンドラ内の音声がモニターされている可能性を考慮し、少しだけ小声で彼女の耳元に声を掛ける。

「はい。でも大事じゃなくてよかったです」

 丁度頭ひとつ分だけ下にいる彼女は顔を上げながらにっこりと微笑むと、再び俺の胸に小さな頭を埋めた。

「千尋ちゃん。もう離れても大丈夫だよ」

 腕の中にある小さな頭が左右に揺れる。

「このままがいいです」

「……わかった」



「……メッチャ夜だね」

「めっちゃ……夜ですね」

 あれから一時間が経っていた。

 すっかりと夜の帳が下りきった湖の空中にぶら下がるゴンドラ内は、恐らくは緊急時のバッテリーから供給されているのであろう電源により、かろうじて自分の手足が判別出来る程度の仄暗い照明が灯されていた。

 トラブルが起きてからしばらくの間は数分置きに係員の女性から安否を気遣う連絡が入っていたのだが、それも二十分前からは滞っており、こちらから呼び掛けても返答はなかった。

 まさか忘れ去られたということはないだろうが、それでもやはり不安は募ってくる。

 眼下にある広大な園内も真っ暗闇で、時折懐中電灯だったり車のヘッドライトが行き来しているのが見えるだけだった。


「万里くん、重くないですか?」

「全然」

 俺と彼女はしばらく立ったままでいたのだが、復旧が遅れていることを察した三十分程前からは床の上にあぐらをかいて座り込み、膝の上に彼女を横向きに乗せていた。

 何故このような不自然な格好でいるかといえば、座席というものが装備されていないこのゴンドラで、床の上に腰を下ろした俺が『千尋ちゃんも座れば?』と言ったところ『……お邪魔します』と言いつつ彼女が膝の上に腰掛けてきたからで、それを冗談と捉えた俺が『どうぞ』と言ったことが発端であり、その全容でもある。


 これだけ密着していても体温が伝わってこないという不思議な感覚は、ここ数日の同棲生活ですっかり慣れてしまっていた。

 今までの人生で然程女性と触れ合うことのなかった俺の中では、むしろこれが当たり前なことのようにすら思えていた。

「もしこのまま朝まで動かなかったらどうしますか?」

「どうするもなにも、どうしようもないからなぁ……」

 幸い俺にも彼女にも門限というものは存在しておらず、また、帰宅が遅くなったところで誰が心配するということもない。

「千尋ちゃんがよければ、このまま寝ればいいよ」

「……それはちょっと」

「眠れなさそう?」

「……ドキドキしすぎです」

「いつも一緒に寝てるのに?」

「……それとは別にです」

 確かにこのシチュエーションは、ちょっとあれかもしれない。


 更に三十分後。

 気は長い方だと自負する俺も、この状況下での放置プレイには流石に少しいらついてきた。

 先方が多忙を極めているであろうということは想像に易かったが、もうすぐ何とかなるとか、まだ時間が掛かりそうとか、そういった報告くらいはして欲しい。

(仕方ない。こっちから打って出るか)

 彼女を膝の上に乗せたまま、ズボンのポケットの中からスマホを取り出そうと身体を捻る。

 その時――どんな理由からかはわからないが――全く同じタイミングで彼女も俺の方に顔を向けた。

 だからそれは本当に偶然だったし、言ってしまえば事故のようなものだった。

 膝の上に乗った彼女と俺の顔の高さは丁度一致しており、互いの動作を意識せずに同時に動いたことで、顔と顔とが軽く接触してしまった。

 ただ、その場所というのが唇と唇だったというだけだ。

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