少しだけ後日談
それから
リハビリと称して更に五日ばかりの入院生活を経て、ようやく我が家へと帰ってきた俺だったが、玄関で靴を脱いでいる最中にとんでもないことを思いつき、靴紐に手を掛けたまま暫くの間固まってしまった。
(……この世界って、もともと俺がいたのと同じ世界なんだろうか?)
急いで家に上がると階段を駆け上り、見慣れた自分の部屋のドアを開ける。
体感的には数年振りに足を踏み入れた自室は記憶の中にあるままで、ここまで来てようやく胸をなでおろすことが出来た。
退院してから一週間が過ぎた日の朝。
再び地球の裏側へと旅立っていった父親を玄関で見送ってから庭先を少しだけ掃除し、今日の分の宿題をやるためにリビングへ戻ろうとした、その時だった。
ほんの三十秒前に閉められたばかりの玄関ドアが勢いよく開く。
何事かと振り返った俺の目に映ったのは、水色のワンピースを身に纏い、体の半分ほどもありそうな大きさのバッグを両手に携えた従妹の少女だった。
「万里くん!」
彼女は俺の名を呼ぶや否やバッグをその場にドスンと落とすと、ビーチに立てられたフラッグに飛びつくような勢いで身を投じてくる。
慌てて広げた両手でその小さな体を受け止める。
「え? 千尋ちゃん? どうしてここに?」
「はい。会いに来ました」
「会いにって」
「おじさんがまた海外に行くって、お父さんから聞いて。それで、お父さんとお母さんにお願いしたんです。万里くんのお家に行ってお手伝いをしたいって」
彼女曰く、叔父叔母ともにさして強く反対すること無く娘の要求を飲んでくれたそうだが、それにはそれ相応の理由があったのだという。
「お父さんとお母さんの夢の中に、ハシモトさんが出てきたみたいなんです」
「ハシモトのおばあちゃんが?」
「はい。詳しいことは聞いていないですけど、お父さんもお母さんも『千尋が今ここにいるのは万里のお陰なんだな』って。そう言って涙ぐんでました」
その話から察するに、ハシモトさんはかなり核心の部分まで千尋ちゃんの両親に話したのだろう。
「なので、夏休みが終わるまで――っていうのはちょっとムリですけど、来週のお盆までは一緒にいられます」
「そっか……うん。いらっしゃい、千尋ちゃん」
「はい! お世話になります!」
俺と彼女は――以前もそうしたように――スーパーで食材を買い込み、家の前の河川敷で二人だけの花火大会をやり、夜はひとつのベッドで眠りに落ちるまで語らい合うという日々を送った。
お盆初日の十三日を翌日に控えた夜。
いつものように彼女の手料理を腹一杯平らげたあと、気持ちよく風呂に入っていた時のことだった。
「万里くん。お湯加減はどうですか?」
半透明のアクリルパネルを隔てた向こう側から彼女にそう問われる。
「まるで極楽のようだって、生きててよかったって。ちょうど今そう思ってたとこだよ」
「ならよかったです」
それきり声を掛けられることがなかったので、彼女はてっきりリビングに戻ったものだとばかり思っていた。
浴室のライトが突然消えた。
停電か、それともブレーカーが落ちたのか。
何れにせよ電気の供給が止まったことには間違いないだろう。
暗闇を恐れる節があった彼女の悲鳴が聞こえてくるかもしれないと耳を澄ます。
ゴトゴトゴト――
聞こえてきたのは悲鳴ではなく、風呂場のドアの戸車が転がる小さな音だった。
「え?」
背を向けた方向にあるそれを確認しようと湯船に肩まで浸かったまま振り向く。
「お邪魔します」
果たしてそこには従妹の少女の
停電だと思っていたそれは、恐らくは彼女が意図的に発生されたものだった。
その証拠に、よく見ると給湯器のリモコンはLCDのパネルにバックライトを灯しており、その仄かな明かりで彼女が一糸まとわぬ姿であることがわかった。
「千尋ちゃん……。どういうつもりだろう?」
「お背中お流しします。お風呂から出てください」
「いや……」
「じゃあいいです」
彼女は機械音声のような無機質さでそう言うと、薄明かりのなかでシャワーを操作し自らの体を洗い流す。
その背中と腰部はかつて遠い世界で見たそれと一切同じで、俺はやはりあの時と同様に心臓が飛び出てしまわないように慌てて手で口を押さえた。
そうこうしているうちにシャワーを終えた彼女がおもむろに立ち上がる。
そして、くるりと音を立ててこちらに向き直ると、バスタブを跨ぎ俺の正面に腰を下ろした。
ちゃぷんちゃぷんという水音だけが薄暗な浴室に響き渡る。
「万里くん」
「……はい」
「私のこと、見えてますか?」
「……はい」
そう返事をし、そこで初めて自分が彼女を凝視し続けていたことに気がつく。
慌てて視線を下に向けたのだが、言うまでもなくそれは余計に余計で余計なことであった。
いつの間にか暗順応が進んだ俺の目は、水面の下にゆらゆらと映る少女の肌色をありありと捉えてしまう。
今更顔を上げたところで視線の行く先に困るだけなので、仕方なく目を閉じることで自身の視界と煩悩を封じ込める。
彼女と一緒に風呂に入ったのはこれで二度目のことだったが、一方でこれが初めてのことでもあった。
灯りのついていない浴室の狭いバスタブに向かい合って座り、互いに体育座りをしているその姿の滑稽さたるや。
そもそも彼女は何をどうしたくて風呂に入ってきたのだろうか?
その疑問を口に出し問おうとした矢先だった。
「万里くん」
正面から呼びかけられる。
「……はい」
先ほどから俺は『はい』としか言っていない気がする。
「こっちに来る前に、お母さんにひとつだけ言われたことがあるんです」
「……なんて?」
「はい。『赤ちゃんだけはまだ早いからね』って。そう言ってました」
でしょうね。
「でも私、万里くんと私の赤ちゃんが欲しいです」
「ええっ?」
「将来的には」
心のなかで盛大にずっこける。
「でも、今は別のものが欲しいんです」
「別のもの?」
「はい。きずなです」
「絆?」
そんなものは幼い頃の約束であったり、あの不思議な夏の体験で十分に結べていたはずだ。
が、どうやら彼女もそんなことはわかっての発言のようだった。
「私がこの家にお世話になってから今日で一週間にもなるのに万里君、キスもしてくれないです」
「それは……」
それは単純に不味いと思ったからだ。
なぜなら今の彼女は
もっとも、それも俺次第だということなどわかっていたし、逆に言えばそれ故の自重であった。
そういった複雑な事情を説明して納得してもらうよりは、詭弁を用いてでも煙に巻いたほうがいいように思った。
「千尋ちゃんのお父さんとお母さんは
我ながら雑だと思いつつも、真剣な顔を作るとそう言い切った。
「それは私だってよくわかってます。でも、お母さんは『赤ちゃんはまだ早い』って言ってただけです。私がいくらお子様だからって、キスをしたくらいで赤ちゃんが出来ないのは知ってます。それに、もし万里くんが……だったら、いつも連れて行ってくれるスーパーに薬局だって――」
「ストッッップ! わかった!」
わかったから、そんな長文を用いてまで皆まで言おうとしないでくれ。
「……じゃあ、うん。千尋ちゃん、こっちきて」
膝と膝とがぶつからぬように体育座りを解いて胡座をかくと、湯の中から右手をちょこっと出して手招きをする。
この状態であれば互いに顔を突き出しさえすれば、口と口くらいならば重ねることも出来るだろう。
そう思っての行動だったのだが、どうやら彼女は大きな勘違いをしたようだった。
わずかばかりの逡巡を経てから彼女はおもむろに立ち上がる。
いくら薄暗いとはいえ、その瞬間に現れた少女の美しさに目を奪われる。
そして、次の瞬間その肌色が目前まで迫ると「うんしょ!」という掛け声が頭上から聞こえ、さらに次の瞬間には胡座をかいた俺の股の上に柔らかな感触が感じられた。
その状態を強いて説明するのであれば、所謂ところの『駅弁スタイル』である。
「きました」
「……うん」
眼前十センチ足らずの距離にある顔からそのような報告があがり、同時に桃の花のような香りの彼女の吐息が顔に掛かる。
体の前面の二箇所には得も言われぬ柔らかさが密着しており、自ずとそれが何であるのかを直感し硬直した。
「次はどうすればいいですか?」
二つも年下の少女にそう急かされ我に返る。
「……目、つむって」
一時間も湯に浸かっていたせいで、手と足がすっかりふやけてシワシワになってしまった。
そのお年寄りのような手で彼女の髪を乾かしてあげていると、ふいに「万里くん」と名前を呼ばれる。
「今度はなに?」
「大好きです」
「……うん。俺も」
そして、翌朝。
「千尋ちゃん、忘れ物はない?」
うちに来た時と同じ水色のワンピースを着た少女が、バッグのファスナーを閉めながら返事をする。
「はい。たぶん大丈夫だと思います」
結局のところ彼女の帰路に俺も同行することになった。
それはこの一週間で以前とほとんど変わらない体力を取り戻せたことと、俺たちの大恩人であるハシモトのおばあちゃんの墓参りにどうしても行きたかったからだ。
「じゃあ、そろそろ行こうか。それじゃ行ってきます、お母さん」
「はい! お義母さん、行ってきます!」
電車とバスを乗り継いでやってきた母の故郷は、実質的にこの夏二度目の来訪であったが、それでもやはり全てが懐かしく思えた。
バス停まで迎えに来てくれていた祖母とともに千尋ちゃんを自宅のマンションに送り届ける。
明日の朝一番で再び彼女と合流したら、山の上にあるハシモトさんの菩提寺に墓参りをし、そのあとは海に行く約束をしていた。
そこでまた二人でシーグラスを探して贈り合い、太平洋の淵に沈む太陽を見送ったあと、夜は――父を除いた――親戚が一同に介してする酒盛りが予定されている。
そう。
俺と彼女の本当の夏はまだ、ほんのさっき始まったばかりなのだ。
終わり
南の風 時折、凪 青空野光 @aozorano
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