絶叫
この夏三回目の二人でのお出掛けを週末に決めた俺と彼女は、世界中の人達が生活の質を向上させる為に絶え間なく努力している今の時代にして、特に何もなく、これといって何もしないという贅沢な日々を過ごした。
買い物をしにスーパーマーケットに出掛け、そのあとは一緒に台所に立ち、ソファーに肩を並べてテレビを見て笑い、小さなベッドで身を寄せ合って一緒に寝る。
それらは傍目には同棲を始めたばかりの蜜月の恋人同士のように映るかもしれないが、当事者たる俺と彼女からすれば互いに手を手を取り合いながら海を目指した、あの夏の日の二人に戻っていただけのことなのだと思う。
そして、待ちに待った遊園地デート当日。
数日前に発生し近づきつつある台風が唯一の懸念だったが、その影響はまだ出ておらず、空の割合は青色八割に対して白色がニ割と、まさに理想的な夏晴れの様相であった。
朝からそわそわと落ち着きを失くしていた千尋ちゃんと手をつなぎ家を出たのは、太陽が真上を少しだけ通り過ぎた昼下がりの時間帯だった。
十分間歩いて最寄り駅まで行き、電車で四駅分移動した後そこからバスで三十分掛けると、ようやく目的地へと到着したのだった。
広大な汽水湖の湖畔に位置する遊園地は湖の上を渡ってくる風速三メートル程の風のお陰で、夏の盛りだというのに申し訳ないくらいに気持ちが良かった。
入り口のゲートで理亜から貰い受けた入場券を一枚だけ消費し、夏休みのこの期間だけ発行されているトワイライトパスポートなる乗り放題のチケットをオプション購入する。
これで閉園時間の二十一時までは園内の全ての乗り物に乗り放題で、ついでに湖上を渡るロープウェイにも
「よし。それじゃどれからやっつけよっか?」
「あれがいいです!」
俺の問いにノータイムで腕を真っ直ぐに伸ばし彼女が指し示した方向にあったのは、この遊園地の花形たる巨大なジェットコースターだった。
「いいよ。全然いいよ」
「万里くん声、震えてますけど。もしかして苦手ですか?」
「違うよ。全然違うよ」
「じゃあゴーで!」
彼女に腕を引っ張られてジェットコースターの入場口に到達すると、鉄製のタラップを上って係員のお姉さんにパスポートを見せる。
「お一人様ですね。お好きな座席にどうぞ」
本当は一人ではなく、むしろ俺は同伴しているようなものだったのだが、それをお姉さんに説明するわけにもいかず、言われた通りに先頭車両の最前列の席に腰を下ろした。
ニ点式のシートベルトを腰に回し更にその上に安全バーを下ろすと、それらがしっかりと機能しているかをお姉さんが確認に来る。
「あの、大丈夫ですよね?」
「はい多分!」
……おい。
「それでは行ってらっしゃい!」
非常ベルを思わせる禍々しいベルの音がほぼ無人の空間に鳴り響く。
二人だけの乗客を乗せたジェットコースターのゴンドラは、ガタガタと前後に細かく振動しながら動き始める。
まるでぜんまい仕掛けの人形のネジを巻き上げる時のような、カチカチと妙に小気味良いチェーンの駆動音が逆に不安を煽ってくる。
「万里くん万里くん!」
「え? 何? 大事な話? 急ぎ? 今じゃなきゃだめ?」
「最初の急降下で手、あげてみません?」
「え? なんでそんなこと言うの? それって俺に何のメリットがあるの?」
「楽しいですよ!」
「え、千尋ちゃんてドM――」
いつの間にかこの園で観覧車の次に空に近い場所まで昇り詰めたゴンドラが、乗客たる俺になんの断りもなく急降下に転じた。
彼女に対する疑惑を口にしかけていた俺は、その突然の挙動に危うく舌を噛みちぎってしまうところだった。
「きゃあああ!」
「どひいいいい!」
鋼鉄製の安全バーを握り潰さんばかりに掴んでいる俺の横で、彼女は両の腕を天空にかざしてゼロG体験を楽しんでいた。
ゴンドラは直滑降の位置エネルギーを利用し即座に三連ループに突入する。
先程までは頭上にあったはずの空が地面に落ちると同時に、俺の意識もどこかへと落ちて行きそうになる。
死。
たった今、脳裏に良からぬナニカが浮かんだ気がした。
が、もはやそれがなんなのかを理解することすら出来なかった。
――。
……。
「万里くん、大丈夫ですか?」
「――はっ! ここは?」
「遊園地のベンチですけど。あそこから自分で歩いてここまで来たの、覚えてないんですか?」
彼女の目線を辿ると、そこには白いレールが中空をのたくっている。
(ダメだダメだ見ただけで気持ち悪くなってくる)
「……覚えてない」
「苦手ならそう言ってくれればよかったのに」
「……ごめん。ちょっとカッコつけたくて」
気合を入れれば何とかなると思っていた十分前の俺にメールか何かで『根性論は通用しませんでした』と教えてやりたかった。
更に五分の休憩を貰い何とか動ける程度に回復した俺は、彼女に支えられながら園の奥へと歩みを進めた。
時刻は四時を少し回り、空の西半分には少しだけ夕焼けの成分が含まれてきている。
園内の地面の至るところに生えている、ちょっとメルヘンチックな意匠の街灯にもオレンジ色の灯りが灯り始めていた。
しかし、平日とはいえ夏休み期間中の今日に於いてこの客足の無さはどういったことだろう。
他人事ながらに心配になってくる。
もっとも、そのお陰でこうやって誰の目を気にするでもなく彼女と話しながら園内をそぞろ歩くことが出来ているのだから、園の経営に関わっていない俺にしてみればメリットでしかないわけだが。
「あ」
極短い声を漏らして立ち止まった彼女の視線を辿る。
そこにはメルヘンチックな園内にはおよそ不釣り合いな和風の建物が鎮座していた。
その外観は田舎の道の駅といった風で、入り口横に掲げられた看板には『旅館 賽の河原』とあった。
園の只中に旅館があるわけもなく、そもそも名前が不穏過ぎる。
こいつは恐らくホラーハウスの一種だろう。
「千尋ちゃん。お化け屋敷みたいだから他の――」
「入ります!」
「え? やめときなよ。苦手なんでしょ? ……幽霊」
「そうなんですけど。でも、せっかくの遊園地デートなんですから、おばけ屋敷は絶対に外せないです」
(ああ、なるほど)
俺もこの手のアトラクションは得意ではなかったが、そういう理由ならば喜んで同行させて貰おう。
お盆休み直前で人影の疎らな園内にしてこの場所は敷地の隅に位置していることもあり、来るものを拒むような禍々しい雰囲気が漂っていた。
外観が普通の旅館っぽいことが逆にその不穏さを助長しているのかもしれない。
「こんにちは! お二人様ですね! では足元にお気をつけになってどうぞ、いってらっしゃい!」
幽霊屋敷の係員としては不適切に思える陽気なおじさんに促され屋敷の中へと足を踏み入れた途端、真横から「きゃあああああああああ」と大悲鳴が聞こえ驚いてそちらに顔を向ける。
「え、どうしたの? まだオバケのオの字も見当たらないけど」
厳密に言えば真横にいるこの子がそれなのだが。
「ごめんなさい……。足元になにかあると思ったら、自分のつま先でした……」
『床に置かれたキュウリに驚いて飛び上がる子猫のおもしろ動画かよ!』とツッコミを入れたかったが、長い上に通じないと嫌なのでやめておいた。
こんな状態の彼女をエスコートし、果たして無事にここまで戻って来ることが出来るのだろうか?
少しだけ不安になってきたのだが、当の本人がやる気満々なので付き合うしかあるまい。
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