消失

 アラームの音と同時に目を覚ます。

 すぐに板張りの天井が目に入り、瞬時に自分が今どこにいて何をする為にここに来たのかを思い出すことが出来た。

 それと同時に昨夜のあのあり得ない体験が走馬灯のように再生され、まるでコメツキムシのような勢いで布団から跳ね起きてしまった。


 制服に着替えてから階段を降りる。

 居間の方から話し声が聞こえてきたが、俺はそちらへは足を向けずに一旦洗面所へ身支度を整えに向かった。

 歯磨きと洗顔を済ませてから改めて居間に足を踏み入れる。

 そこには叔父と祖母が座卓に向かい合って座っており、どうやら本日の式の最終的な段取りを確認しているようだった。

「おじさんおばあちゃん、おはよう。おばさんは?」

 俺の声に手を止め顔を上げた叔父の顔は、昨夜ほどではないにせよ疲労の色が濃く見て取れた。

「おはよう。恵美は千尋のところだよ」

 ということは祭壇の和室だろう。

 叔母に用事があるのかといえばそういうわけではなく、居間でその姿を見つけられなかった千尋ちゃんの動向が気になっていた俺は、叔父に礼を言って和室へと足を向ける。


 開け放たれたままになっていた和室の敷居をまたぎ中に入ると、千尋ちゃんの棺にもたれ掛かるようにして背を向けている叔母の姿が目に入った。

「おばさん、おはよう」

「……万里ちゃん」

 彼女は振り返ると同時に悲しい笑みを浮かべ、またすぐに棺の方に向き直って顔を伏せてしまった。

 そのあまりに痛々しい姿を部屋の入り口でしばらく黙って眺めていたのだが、俺がここに来た目的は別にあったことを思い出す。

 和室には掃き出し窓から夏の朝の風が柔らかに吹き込み、それには幾らかの潮の匂いが混じっていた。

 そういえばここから海までは歩いて行けるような距離であったことを思い出し、自然と視線が窓の外に向けられた。

 そこには夏の日差しを受けた木々が青々と茂るばかりで、俺の探し求める少女の姿を見つけることは出来なかった。


 用事は終えたが居間へと戻る気にもなれず、靴を履いて玄関から外へと出ると背伸びをしながら空を仰ぐ。

 雲ひとつない空がレイリー散乱の深い青さを湛えて視界いっぱいに広がっており、それが逆に沈みに沈んだこの家の悲哀をより色濃くしているように感じる。

 そして、そこでもやはり千尋ちゃんを見つけることは出来なかった。

 もしかしたら。

 彼女は昨夜の通夜で自身の死を受け入れたことで、ようやくあちらの世界に旅立つことが出来たのかもしれない。

 或いは元々死者がこの世に留まることの出来る時間というものが設定されていたという可能性もある。

 だとすれば彼女は晴れて天国へと旅立ったのだろう。

 何れにせよ、幽霊という存在が世間一般で言われているように、此の世に未練を残して亡くなった者が化けて出るのだとすれば、彼女にはこちら世界から去ったことは叔父や叔母、そして彼女自身にとっても幸せなことなのだと思う。

(でも、可愛い子だったな。俺にもあんな妹がいれば)

 いや。

 仮に彼女のような妹がいたとして、それがなんだというのだろう。

 俺には少しだけ頼りないが優しい父と、とてつもなく頼りないがそれこそ妹のような存在の幼馴染の少女がいるではないか。


 俺の中では何時しか彼女の逝去を悼む気持ちよりも、その旅立ちを祝う気持ちが膨れ上がっていた。

 式が始まるまでにはまだ数時間の猶予がある。

 その時間の幾らかを使って、千尋ちゃんというがどんな少女だったのかを叔父に聞こう思った俺は、再び玄関から家の中に入ると長い廊下を進んで居間へと向かった。

 叔父は先程に引き続き、座卓の上に広げられた数枚の紙に目を通したり、それに何かを記入している最中だった。

「って、居るじゃん!」

「ん? おばさんは千尋のところに居たかい?」

「あ……うん……」

「そうか」

 彼はそれだけ言うと視線を再び下に落として作業に戻る。

 俺は部屋の隅に居たに小さく手招きをしてから二階の自室へと戻った。


「なんでまだいるの?」

「え? なんでって……なにがですか?」

「ああ、ごめん。どこにも姿が見当たらなかったから。もうてっきり天国に行ったんだと思ってたんだけど……」

「昨日、言ったじゃないですか。もう少しだけ考えたいって」

「ああ。そうだった……」

「それに」

「うん? それに?」

「天国って……どこにあるんですか?」

「……ごめん」


 正午から執り行われた葬儀もまた、昨夜の通夜に続いて非常に重々しい空気に支配されていた。

「おじさんおばさん、ちょっとごめん。少し体調が悪いから後ろの方に座らせてもらうよ」

「大丈夫か? 本当に駄目だったら居間かどこかで横になっててくれていいからな」

「うん、ありがとう。大丈夫だから」

 勿論これは嘘であり、本当は参列者の後ろで居場所を見つけられずに俯いている彼女のところへ行きたかったからだ。


「千尋ちゃんこっち。俺の横座りなよ」

 まるで班分けであぶれているクラスメイトを呼ぶように彼女の横を通り過ぎ様に声を掛けてから、掃き出し窓に程近いところに置かれた座布団の上に腰を下ろしてあぐらをかく。

「万里くん……ありがとう」

 俺の意図に気づいた彼女はそう言うとすぐ隣で女の子座りをし、その大きな瞳に不安の色を灯らせながらこちらを見上げ再び口を開いた。

「あの。今日、ずっと一緒にいてもらえますか?」

「おじさんとおばさんのところに行ってあげたら?」

「……私のせいで悲しい顔をしているお父さんとお母さんのこと、見ていたくないんです」

「別に千尋ちゃんのせいじゃないよ」

「そうかもしれないですけど、でも……」

「でもじゃないよ。君は悪くない。それは俺が保証する」

「……ありがとうございます」

 彼女はそう言うと少しだけ恥ずかしそうにしながら微笑んで見せてくれた。

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