常識
参列者で賑わう玄関を避け縁側の掃き出し窓から直接、祭壇のある和室に上がる。
親戚の大人達から少しだけ離れたところに置かれた座布団の上に正座で座る。
すぐ隣では千尋ちゃんがやはり正座でちょこんと腰を下ろした。
ここに来たとて俺の仕事はといえば、目の前を参列者が通る度に軽く頭を下げるだけなのだが、すぐ傍らに心霊を従えている身としては明るいこの場所の方が遥かに気持ちが安らいだ。
伸びをするフリをしながら小声で尋ねる。
「千尋ちゃん、何してるの?」
「足がしびれました……」
「……マジで?」
「普段、あんまり正座とかしないんで」
それ以前の問題なような気がする。
彼女はキョロキョロと辺りを見回してから「アタタタタ」と呟きながら、正座から女の子座りへと
そして少しだけ恥ずかしそうな顔をすると「万里くんも足、崩したほうがいいですよ」と忠告までしてくれた。
「……そうする」
十六年の歳月を掛けて築き上げてきた自分の中の常識が、ガラガラと音を立てながら崩れ去っていくのがわかった。
予定されていた通夜の時間を少しだけ過ぎた頃。
最後の弔問客が暗がりの通りを歩き去って行くと、顔と名前が一致しない親戚達も明日の予定を確認してから各々の家へと帰っていく。
皆が去っていったあとも叔父夫婦と祖母は和室から動こうとしなかった。
そんな中で唯一動きを見せたのは、当式の中心人物たる千尋ちゃんその人だった。
彼女はフラフラと――まだ足が痺れていたのだろう――立ち上がると叔父と叔母の前まで行き、二人の前に腰を下ろしておもむろに口を開く。
「お父さん、お母さん」
当然二人からは何の反応もない。
「お父さんお母さん、ごめんね。でも、私……ここにいるよ」
彼女の表情や口調は先程までのそれとは大きく異なって見えた。
それはとても穏やかであり、同時に傍観者である俺までもが心を打たれる程に悲しげだった。
しばらくしてから祖母が腰を上げてゆっくりと口を開く。
「晩ごはんにしようか。正と恵美さんはもう少しだけ千尋の近くに居てあげな。万里は手伝ってくれるかね」
俺に気を使ってくれたのであろう祖母の後に続き、千尋ちゃんと同様に少し痺れていた足を庇いながら台所へと向う。
千尋ちゃんはといえば両親のすぐ正面に座り、決して届くことのない言葉をそれでもひたすらに紡ぎ続けていた。
夕食は助六寿司とインスタントの味噌汁だったので、湯を沸かせて座布団を用意だけであっという間に準備が終わった。
「万里。おじさんとおばさんを呼んできてもらっていいかね」
「うん」
台所から長い廊下を通り、祭壇のある和室の入り口から声を掛ける。
「おじさん、おばさん、千尋ちゃん。ご飯の準備ができ――あ」
やらかしてしまった!
千尋ちゃんが自身の境遇を受け入れたのと同じように、俺も気づかないうちに彼女の存在を受け入れていたのかもしれない。
もう居はしない娘の名前を呼んだ俺に、叔父と叔母は目と口を最大限に見開いて顔を向ける。
そして次の瞬間、叔母が
叔父はといえば叔母の背中を擦りながら、やはり目から大粒の涙を畳の上に落とす。
その真正面では千尋ちゃんまでもが再び涙を浮かべているではないか。
(完全に不味った……)
「万里」
叔父が顔を上げながら口を開く。
「あの……ごめんなさい……」
まじで。
まじで本当にごめんなさい。
「……ありがとう万里。ほら恵美、千尋。あっちに行こう」
叔父は叔母の腕を引っ張り立ち上がらせる。
俺の横を通り過ぎる時、叔母が小さな声で「万里ちゃん、本当にありがとう。明日の式が終わるまでは千尋と一緒にいてあげてね」と弱々しい笑顔を見せる。
その後ろに続いていた千尋ちゃんも「万里くん、ありがとう」と顔をグシャグシャにしながら頭を下げた。
よくわからないが、どうやら俺は助かったようだった。
居間の座卓の上には五人分の助六寿司が用意されている。
叔父と叔母の席の間に置かれた余剰なその一つは、言うまでもなく千尋ちゃんのものなのだろう。
余剰とは言ったが、その前には千尋ちゃんがお行儀よく正座で座って助六寿司を眺めていた。
「万里くん。これ、食べてもいいのかな?」
いや、不味いだろう。
それに俺に聞かれてもこの状況下で返事など出来るわけがない。
俺は大人達に気づかれないように、口を『あ・と・で・ね』と動かして彼女に伝える。
「……だよね。別にお腹は減ってないんだけど、みんなと一緒にご飯、食べたかったの」
そう言うと顔を下に向けてしょんぼりとしてしまう。
本当に可哀想には思うが、でもやはり仕方がないことなのだった。
重々しい空気の夕食のあとはお風呂に入り、すぐに出ると二階に用意された自室へと戻った。
大方の予想通りにすぐ後ろを彼女がついてきていたが、どうやら俺は本当にその存在に慣れきってしまっていたようだった。
それは彼女が幽霊にして生きている人間との区別が付かない程に
部屋の隅に置かれた椅子を中央に敷かれたままにしてあった布団の方に向けてから腰を下ろして顔を上げると、彼女は既に布団の上で足を崩して寛いでいた。
「千尋ちゃん。質問してもいい?」
「あ、はい」
「その……これからって、どうするの?」
「……わかんないです。あの……もう少しだけ考えてもいいですか?」
「そうだよね。その、突然だったんだもんね」
「はい……でも。自分が死んじゃったっていうことは、もうちゃんとわかってます」
「そっか……」
「……はい」
俺に出来ることがあれば何でもしてあげたいのだが。
「なんか、俺に出来ることってある?」
「……お喋りしてください。人がいない時だけでいいので」
「うん、わかった。でも今日はちょっと俺も憑か……疲れたから」
「色々とすいませんでした。じゃあ、私もお父さんとお母さんのところに戻ります」
「うん。それじゃおやすみ」
「はい。おやすみなさい」
彼女は布団の上で小さく頭を下げてから立ち上がり、ドアの方へと歩いて行ったのだが、そこでピタリと足を止めて振り返った。
「ん? どした?」
「あの、ごめんなさい。ドア、開けてもらってもいいですか?」
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