支度

 記憶のサルベージを諦めたのはいいが再び机に向かう気にもなれず、少しだけ早かったが夕食を取ることにした。

 昼間の残りのカレーを冷蔵庫から取り出してレンジで温めていると、ズボンのポケットに入れてあったスマホから僅かな振動が伝わってくる。

 果たしてそれは父からのメールで、先程言っていた通りに香典の金額であったり不祝儀袋の種類や書き方、それに式の日程と場所などが仔細に書かれていた。

 葬儀は祖母の家で執り行われるようだった。

 確かに叔父夫婦のマンションから祖母の家までは歩いて行けるような距離にあった。

 昔ながらの田舎の屋敷といった佇まいのあそこであれば、少し離れた市街地のセレモニーホールよりは参列者の負担も遥かに軽くなるだろう。

 明日の夜の通夜とその翌日の葬儀で、明日明後日の二日間祖母の家に泊めてもらい、明々後日にはこちらに戻ってくるような日程が父のメールにより指示されていた。

 今日が七月二十八日なので三十一日までは家を空けることになる。

 そのあいだ理亜のセカンドハウスは閉鎖されることになるので、あとでその旨を彼女に伝えておこう。


 母の田舎は同じ県内ではあるのだが、移動距離にして凡そ二〇〇キロとそれなりの遠方に位置している。

 そこは良くいえば多くの日本人が思い抱くであろう最大公約数的な故郷の風景が広がる長閑な場所であり、悪くいえば海と山以外は何もない『ど田舎』だった。

 鉄道の駅こそあるが、祖母の家はそこから更に五キロ程の距離と山を二つも越えなければ到達出来ない。

 何はともあれ予定が立った以上、今のうちに支度をしておくべきだろう。


 メールで指示された通り、父の机の引き出しから不祝儀袋を見つけ出し、薄墨の筆ペンで氏名と住所を書く。

 それが自分よりも年下の従妹に向けられているという事実に、えも言われぬ感慨が湧き筆を動かす手が止まりそうになる。

 それが終わると部屋に戻り、クローゼットの中からクリーニングのビニールが掛けられた制服と、二日分の着替えやスマホの充電ケーブルなどを小型のキャリーバッグに詰め込んだ。

 このキャリーバッグは母がまだ元気だった頃、家族旅行で熱海に行くことが決まった時に、父におねだりして買ってもらったものだった。

 当時の俺は、自分の背丈と大差のないサイズのそれを手に入れたことで、まるで自分が大人の仲間入りを果たしたように浮かれ、用事もないのに服や持ち物出し入れして喜んでいたことを思い出す。

(あの旅行のあとすぐにお母さんが亡くなって……結局、一度しか使わなかったんだったな)

 そんなキャリーバッグを再び使う機会が従妹を弔うための旅だというのだから、物言わぬバッグに対して申し訳ないような気持ちになってしまった。


 十数分前に仕事を終えたまま放置されていたレンジからカレーを取り出し食べる。

 スプーンを口に運びながらリモコンでテレビを点けてチャンネルを適当に変え、一番どうでもよさそうな内容のバラエティ番組を見つけてそこでリモコンを置いた。

 画面の中では最近売れ始めたお笑い芸人がバスを乗り継いで旅をするだけという、全く以て毒にも薬にもならないような企画が行われていたのだが、見知らぬ風景が好きな俺はなんだかんだで見入ってしまった。


 食事を終えると風呂をシャワーだけで済ませ、部屋に戻って向こう三日分の夏休みの宿題を消化する。

 一時間ほどしてノルマを達成すると、少しだけ早いが寝てしまうことにした。

 その前に一旦リビングに向かい、サイドボードの上に置かれた小さな仏壇に対面する。

 「久しぶりに千尋ちゃんに会ってくるよ。明日から二日家を空けるから留守番よろしくね」

 母は――六年前からずっとそうであったように――薄桃色の額縁フレームの中で少しだけ小首を傾げながら優しく微笑んでいた。

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