罪過

「ただいま」

「おじゃまします」

 昔から不思議に思う。

 旅行などで少し家を空けるとする、この他所のお宅の玄関のような嗅ぎなれない匂いは何なのだろう?

 とりあえず窓という窓を全て開け放って空気を入れ替えながら、リビングボードの上に置かれた小さな仏壇の中にいる母の写真に帰宅を報告する。

 彼女とハシモトさんのことがあったので、今の俺であればもしかしたらお母さんの姿も――と、少しだけ期待していたのだが、どうやらそれは叶わなかった。

 

 買ってきた食材を冷蔵庫とパントリーに振り分けて入れていると、視界の隅に所在なさげに立ち尽くしている少女の姿が映る。

「あ、ごめん。リビングのソファーにでも座ってて。誰かいるわけでもないし自分ちと思ってくれればいいからさ」

「あ、はい」

 本来はゲストに茶でも出すべきなのだろうが、彼女に対してはそれが出来ない分どうやってもてなしていいのかよく分からない。


 一通りの作業を終えてからリビングに行くと、彼女は俺に言われた通り大人しく三人掛けのソファーの隅っこにちょこんと座っていた。

 自分の家に理亜以外の若い女性がいることなどまずなかっただけに、そこはかとない気まずさのようなものを覚える。

 俺にしても彼女にしても、まずはこの環境に慣れるのが最優先事項だろう。

「えっと、千尋ちゃん。部屋に案内するからおいで」


 二階には六帖の部屋が三つある。

 俺の部屋と父の仕事部屋、そしてもう一つは物置のように使われている空き部屋なのだが、殆どの荷物は中二階の収納に収められているので特段片付けなどをする必要もなかった。

「万里くんち、すっごくおっきいですね」

「ああ、うん。なんかうちのお父さんとお母さん、子供は三人欲しかったみたい。それで大きな家にしたらしいんだけど。でもお母さんが早くに亡くなっちゃったから。結局、俺は一人っ子なんだけどね」

「うちのお父さんとお母さんと同じで……二人家族ですね」

「ん。感覚的には今でもお父さんとお母さんと三人みたいなところがあるけどね。お母さんの写真に毎日挨拶するし。……おじさんとおばさんもきっと、同じなんじゃないかな?」

「そうだったら……嬉しいです」

「っと。ここの部屋を自由に使ってくれていいから。って言ってもテレビとソファーくらいしかないけど」

「ありがとうございます。でも、テレビは万里くんと一緒に見たいです。寝る時もやっぱり、一人だと恐いので……」

「……じゃあまあ、うん。着替えとかする部屋にでも使ってよ。これ、さっき買った奴」

 ファンシーとセクシーが入り混じった袋をソファーの上に置く。

「で、いきなりでごめん。ちょっと用事があるから夕方まで家を空けるけどいいかな? 暇だったらリビングにパソコンがあるからネットか何かやっててくれていいから」

「あ、はい。わかりました。いってらっしゃい」

「なるべく早く戻るよ。いってきます」

「ふふっ」

「ん? なに?」

「今の会話、なんだか新婚さんみたいじゃなかったですか?」

「言われてみれば」


 玄関を出て僅か三十秒で目的である隣家の前へと到着する。

 そこはもうひとりの幼馴染である理亜の家であり、俺が急いでこちらに戻ってきたのもここに来るためだといっても過言ではなかった。

 門柱に埋め込まれたテレビドアホンのボタンを押すと、僅かに時間を置いてスピーカーから『は~い』と非常に軽快な返事が聞こえてくる。

『って、あら? 万里ちゃんじゃない』

「おばさんこんちには。あの、理亜はいますか?」

『さっき部活から帰ってきたから部屋にいるとは思うんだけど……。ねえ、万里ちゃん』

「はい?」

『うちの子と何かあった?』

「……えっと」

『やっぱりね。じゃあ勝手に上がってくれていいから』

「あ、はい」

 おばさんは何かを察してくれたらしい。


 夏休みの前まで何度も訪れたことのある部屋の前に立つと、一度大きく息を吸ってから三回ノックをした。

「理亜、万里だけど」

「……」

 返事はなかったが、部屋の中から僅かに人の気配を感じる。

 ここ数日気配の希薄な従妹と一緒に居たせいか、のそれはとてもわかりやすかった。

「理亜、入るよ」

 無作法なのは承知の上でドアを開けると案の定部屋の隅に置かれたベッドの上に、パジャマを着て体育座りをしている彼女の姿を発見する。

「ただいま」

「……おかえり」


 彼女と対面するように椅子に腰掛けると、佇まいを整えてから話を切り出した。

「理亜。電話の件だけど、ごめん」

「……」

「ごめん」

「……誰なの?」

「従妹」

「……え? いとこの子のお葬式に行ったんじゃなかったの?」

「えっと……その子とは別の子で……」

 流石に『まさにその亡くなった従妹で合ってるよ』とは言えるわけはなかった。

「じゃあそう言ってくれればよかったのに!」

「いや。電話掛け直したら拒否られてたから」

「あっ……ごめんなさい……」

 彼女はベッドの上に正座で座り直すと、こちらをじっと見つめて再び口を開いた。

「聞いてもいい?」

 何を聞かれるかはわかりきっていたので事前に腹は括っていたつもりだったのだが、思わず生唾を飲み込んでしまう。

「……うん、どうぞ」

「万里はその子のこと……好きなの?」

「……」

 今度は俺が黙って下を向く番だった。

 沈黙を肯定と捉えたのか、彼女が小さく溜息をついたのが目を向けずともわかった。

「私……いつか万里と、そういう関係になりたいって思ってた。小さい頃からずっと……」

「……俺も――」

「言わないで!」

 叫び声に驚いて顔をあげると、幼馴染の少女は唇を噛み締めこちらを睨んでいた。

「ごめん」

「……謝らないでよ」


 それ以外の言葉を見つけることが出来ず、三度目の謝罪を口にしたあと、俺は椅子から立ち上がると部屋を出ていこうとした。

「万里。ちょっと待って」

 思いもかけなかった呼び止めに、上半身だけを後ろに向けて彼女の方を見る。

 彼女は表情こそ険しいと言ってもいいものだったが、ベッドの上で足をピーンと伸ばした姿には、先程の緊張は感じられなくなっていた。

「それ、おみやげ?」

「あ、忘れてた。えっと、理亜の好きなチョコブラウニーだったんだけど……」

「それは置いてって」

「あ、はい」


 おずおずと理亜の家を後にする。

 いつの間にか辺りはすっかりと夏の夕映えに染まっていた。

 燃えるような赤だけで構成された通りを、下を向きながらトボトボと最寄りのホームセンターへと歩く。

 店頭でお目当ての品を見つけてレジへと向かっていると、やっと自分の仕出かしたことの重大さが実感として込み上げてきた。

 もちろん俺にだって悪意があったわけではない。

 ただ、それでも二人の幼馴染を天秤に掛け、そのうち一人を裏切ったのだ。

(もし俺が今死んだとしたら。きっとあっちの世界で千尋ちゃんやお母さんには会えないんだろうな……)

 それとて身勝手な想像なのだということは、自分も痛いほどよくわかっていた。

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