花火
「ただいま」
「おかえりなさい!」
「暑かった……。ご飯の前にちょっとお風呂行ってくるね。あ、あとこれ」
手にしていたビニール袋を彼女に託し、そのまま脱衣所へと足を進めた。
「――あっ! 花火だ!」
背後から上がった歓喜の声に、振り返らずに「暗くなったらやろっか」と声を掛けると「はい!」と自衛官のように良い返事が返ってくる。
シャワーを浴びてから駅地下で入手した弁当を電子レンジで温めて夕食にありつく。
眼の前では彼女が俺の食事風景をじっと眺めていて、正直に言えば少し食べにくかった。
「千尋ちゃんも食べたり飲んだり出来ればいいんだけどね」
「この前こっそり試してみたんですけど、やっぱりダメみたいです」
「駄目って、胃が受け付けないみたいな感じ?」
「そうじゃなくてですね――」
彼女はそう言うと俺の弁当に添えられていたポテトサラダに指を突っ込む。
彼女の指は一見ポテトサラダの山を
「ほら、触れないんです」
「……ホントだ」
「それで気づいたんですけど。多分ですけど私、必要な場合とかどうしても触れたい物にしか触れないんじゃないのかなって」
ああ、それでドアが開けられたり開けられなかったりしたのか。
「でもじゃあさ、お父さんとお母さんを触れなかったのは……なんでなんだろう?」
それに、俺だけが彼女を見たり触れられたり出来るのは何故なのか。
「……わかんないです」
彼女はポテサラを見つめたまま悲しげな表情を浮かべ口を
「――花火しよっか花火。急いで食べちゃうからもう少しだけ待ってて」
残り僅かだった弁当を口の中に掻き込むと咀嚼をしたまま席を立つ。
お母さんの仏壇からロウソクとライターを拝借し、花火の入った袋を手に持つと玄関から外へと出た。
午後七時の夏の空は西の地平線に微かに茜を残していたが、それもあと十分かそこらで夜の藍に塗り潰されてしまうのだろう。
日中に比べれば幾分か暑さも和らいではいたが、今朝まで海沿いの町にいた身としてはそこに心地の良さを見出すことは出来なかった。
庭先の物置からバケツを持ち出し手に提げ、玄関の前でスタンバイしていた彼女に声を掛ける。
「千尋ちゃん。あそこに橋があるじゃん?」
「あ、はい。赤い橋ですよね?」
「そうそう。そこのすぐ下が河川敷の駐車場になってるんだけど。花火大会はそこで開催したいと思います」
「了解です!」
「じゃあ――現地集合!」
「えっ? あっ万里くんズルい! 待ってください!」
「はぁ……はぁ……」
「万里くん、遅かったですね」
フライングスタートをした上に、堤防の草地をショートカットまでしたというのにこのザマなのだから、返す言葉など一切見つけられなかった。
「千尋ちゃんって部活――」
「陸上部。短距離です」
言われてみればこの夏の間何度となく目にした彼女の御御足は、ただ細いだけではなくよく引き締まったアスリートのそれを思わせる逸品だった――ような気がする。
「それを先に知っていれば……ぐぬぬぬ」
「そんなことより! はやくやりましょう、花火!」
ここの河川敷は休日ともなれば親水公園を訪れる親子連れであったり、サッカーや野球を目的とした青少年で賑わっているのだが、今日のような平日の夜はといえば、ジョギングをする人か犬の散歩をしている人がたまに通りかかる程度で、実際のところ視界の範囲内には人っ子ひとり見つけることが出来ない。
水道の水をバケツに溜めロウソクに火を点けると、溶け出した蝋を垂らしてロウソクを地面に立てる。
「準備完了。お好きなものからどうぞ。千尋ちゃん、花火は持てそう?」
「あ、大丈夫みたいです。ほら」
そう言って彼女は花火セットの中から一番大きな手持ちのそれを取り出した。
「千尋ちゃんって、ご飯の時に一番好きなオカズから食べるタイプでしょ?」
「えっ、なんで知ってるんですか?」
「……いや、なんとなく。じゃあ俺はこれにしようかな」
一番スタンダードな花火を一本手に取ると、ロウソクの上にかざして火に近づける。
炎はすぐに火薬に引火し、ややオレンジ掛かった白い光を放ちながら周囲を明るく照らし出す。
「万里くん、火ください!」
「そこのロウソクからどうぞ」
「ううん! 万里くんの花火から欲しいです!」
「別にいいけど」
彼女は花火の根本を両手で持ちながら、俺の花火へとそっと近づけてくる。
「ごめん横から来てもらっていい? 正面からだと火が点いた瞬間に俺が燃える気がするんだけど」
「あっ! すいません! そういえば昔、それでお父さんのこと燃やしちゃったことがあったんでした……」
過去の叔父さん、どうぞお大事に。
彼女の花火はその巨大さに見合っただけの激しい音と光を発しながら、炎色反応で色を何度も変えて駐車場のアスファルトをカラフルに照らす。
「見てください!」
そう言って駆け出した彼女は、少しだけ離れた場所で花火を大きく振り回した。
「わかりました?」
「え?」
「字、書いたんですけど!」
「ごめん。ただはしゃいでるだけかと思ってよく見てなかった」
「じゃあ、もう一回」
彼女は先程よりも一回り小さな花火を使って、再び夜の闇をキャンパスに何かを描こうとする。
「――
「そんな画数のは無理ですって! ヒントいります?」
「お願い」
「私の好きなものです!」
話しているうちに彼女の花火は終焉を迎え、直様三本目に火が点けられた。
「二文字ですよ? はい! い~ち! に~い!」
「――牛丼?」
「ぜんっぜん違います……もう、いいです!」
頬を膨らませてイジケた
「万里くんもやってみてください。”尋”っていう字はちょっと画数多いですけど、男の子だからきっと大丈夫です」
ああ、やはりさっきのあれは”万里”だったのか。
「じゃあ、いくよ? おりゃ!」
第九の指揮を取るマエストロの激しさで空中に光を描く。
そういえば俺も子供の頃、こうやって花火を振り回してお母さんに怒られたことがあったっけ。
「
「あたり。”尋”はちょっと無理っていうか、ごめん。そもそもその漢字書けないから」
「千里って、なんか。ふたりの子供の名前みたいですね」
「ぶっ!」
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