田舎の町
忘却
やがて夜の帳が完全に下りると、本来そうであったように祖母の家はただの古民家へとその姿を戻した。
俺は今夜もう一晩だけここに泊まらせて貰い、明日の昼には帰路に就く予定でいる。
「万里。ちょっと悪いだけど留守番頼んでいいかね」
「え、いいけど。こんな時間からどこか出掛けるの?」
「晩御飯のことすっかり忘れてたもんで。そこのコンビニ屋さんで何か見てくるから」
祖母は『そこの』と言ったが、最寄りのコンビニは二キロも離れた場所にしかないはずだった。
「おばあちゃん自転車貸して。俺、行ってくるよ」
「でもあんた、場所がわからんら?」
「大体はわかるしアプリで案内してもらうから大丈夫だよ」
ポケットからスマホを取り出して音声で経路を設定する。
祖母は驚いた顔で俺とスマホを交互に見てから「今はそんなことも出来るだねぇ」としみじみと呟いた。
「お弁当でいい?」
「それじゃあ悪いけど頼もうかね。私は何でもいいで万里の好きなもの買っといで」
まだ日が暮れたばかりだということもあり、地面のアスファルトからは日中に蓄えに蓄えられた熱が放射され続けていた。
ただ、南に数百メートル行ったところに太平洋の海原が広がるこの町の暑気風情は、俺の住んでいる内陸の都市とは比ぶべくもない。
片側一車線の県道はまるで戒厳令でも敷かれているかのように車通りがなく、疎らに点在する民家の明かりにかろうじて人の営みを感じることが出来る程度であったが、それでも不思議と寂しい雰囲気は感じなかった。
知らない町の風景を楽しみながら自転車を漕いでいると、やがて暗闇の中に煌々と光を放つコンビニの看板が見えてくる。
閑散とした店内で弁当をふたつと二個入りのぼたもちを購入してすぐにコンビニを後にすると、往路よりも少しだけ急いで自転車を漕ぐと家路に就く。
祖母の自転車はチェーンの油が切れているのか、漕ぐたびにキコキコと壊れかけのロボットのような音がした。
明日の朝にでも物置に油がないか探してみよう。
こっちにいるうちに俺に出来ることがあればしてあげたいと思った。
なにせ祖母の孫はもう、俺ひとりきりなのだから。
「ただいま」
靴を脱ぎながら廊下の奥に声を掛けるとすぐに返事が返ってくる。
「万里くんおかえりなさい」
「うん。ただいま」
セーラー服の少女の出迎えに微動だとしなかったのは、きっと心のどこかでこうなる予感がしていたからなのだと思う。
「ひとつ聞いていい?」
「あ、おばあちゃんが待ってるみたいだからあとで話します」
「……了解」
俺も彼女もいつの間にかこの手のやり取りに慣れてしまっていた。
「万里あんた、玄関で誰かと喋ってなかった?」
怪訝な顔でそう聞いてきた祖母に「友達から電話が掛かってきて」とそれらしいことを言いながら、座卓の上にコンビニで買ってきたものを出していく。
「おばあちゃんは幕の内弁当でいいよね」
「ありがとう。じゃあいただこうかね」
俺のすぐ横では千尋ちゃんが手持ち無沙汰といった様子で制服のスカーフをイジっており、たまにチラチラと目配せをしてくる。
構ってあげたいのは山々なのだが祖母の前でそうすることなど出来るはずもなかったので、代わりにテレビを点けると適当なバラエティ番組にチャンネルを合わせた。
「私、この番組毎週見てたんです。ありがとうございます」
食事が終わると祖母に促され一番風呂に入る。
三十分程の入浴ですっかりとリフレッシュした俺は、頭を濡らせたまま二階の部屋へと戻った。
「違うんです!」
既に椅子に座って待ち構えていた彼女は、俺が入室したのと同時に立ち上がるとそう叫んだ。
そのセリフはまるで不貞の現場を目撃された時のそれのようでもあり、中学生の女の子の口から発せられたと思うと少しだけ面白かった。
俺もセリフじみた口調で返す。
「それじゃあ話を聞こうか」
「なんでかはわからないんですけど、私だけ家に入れなくて……」
「入れない?」
「はい。玄関に見えない壁みたいなのがあるみたいで……」
幽霊というのはもっとこう、自由気ままな存在だとばかり思っていた。
例えば、壁だってすり抜けることが出来るし、ワープのような方法で空間を
だがこの二日間彼女を観察していた限りだと、ドアをすり抜けるようなこともなければそれを自分で開けることすら出来ないという、生きていた頃よりも逆に制約を受けているように見えた。
「わかったよ。明日の朝にもう一度だけ試してみようよ。俺もついてくから。それで駄目そうなら次の法要までここに居させて貰えばいいし」
「万里くんは……帰っちゃうんですよね?」
「うん。明日の昼くらいには」
「……」
彼女はしょんぼりと下を向くと、ピッタリと切りそろえられた前髪を細い指でクネクネと触り出した。
その悲しげな表情と仕草に胸が締め付けられる。
嫌な沈黙が空間を支配しようとしていた。
それを打破しようと思ったわけではないのだが、彼女にどうしても聞いておきたいことがあったことを思い出し、一旦佇まいを直したあとに正面に向き直り問い掛ける。
「ねえ、千尋ちゃん。ちょっとヘンなこと聞いてもいい?」
「はい?」
「さっき君のお父さんとおばあちゃんに聞いたんだけどさ」
「なんでしょうか?」
「その、さ。昔、ここで俺と君って一緒に遊んだりしたんだっけ?」
「え? 万里くんは覚えてないんですか?」
「……ごめん。なんか俺、九歳くらいまでの記憶が曖昧で」
全く何も覚えていないというわけではなかったが、俺は他の人よりも幼い頃の記憶が希薄だった。
それには不明確ながらも理由はあったのだが、中学の頃にはスクールカウンセラーに相談したこともあった。
『今からの人生の長さに比べれば、少年時代なんて一瞬なんだから気にしなくていいのよ。楽しいのはこれからなんだから』と、カウンセラーらしからぬ有り難いお言葉を頂戴した俺は、それが慰めなのだとばかり思っていた。
もっとも十六歳になった今、そのアドバイスはあながち間違ってはいなかったのではとも思い始めていたのだが。
「ちょっとだけショックです」
タコのように口をとがらせてしょぼくれた彼女は、また前髪をクルクルと触りだしてしまう。
「ごめん」
「……万里くん。もう一日だけこっちにいれないですか?」
「え?」
「一緒に遊んだ場所、万里くんと行ってみたいです」
「じゃあ……うん。そうしよっか」
どうせ家に帰ってもただ暇を持て余すだけだし、少しでも彼女の為に何か出来るのであれば、という思いがあった。
「よかった! それじゃ、今日は早めに寝ます!」
「え、
「はい。昨夜はお母さんのお布団のすみっこで寝ました」
彼女という存在のお陰で俺の中の幽霊知識がどんどん増えていく。
明日もう一日彼女と一緒にいれば、きっと俺はその業界――そんな界隈があるのかは知らないが――の第一人者まで登り詰めていることだろう。
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