初恋

「ただいまー」

「おかえり万里。遅かったね」

「ごめん。ちょっと散歩してた」

「そうかね。こっちのほうはなんにも無かったら?」

「うん、何もなくてすごく楽しかった」

「……あんた、変わった子だねぇ」


 千尋ちゃんと一緒に一旦部屋に戻ると「お風呂行ってくるね」とだけ言い残して下階に下りる。

 脱衣所で服を脱いでいると、先程彼女が口にした言葉が頭の中でリフレインした。

(あの頃の俺は、彼女のことをどう思っていたんだろう……)

 そもそも俺の記憶では、彼女とは殆ど口を聞いたこともなかったはずなのだが、どうやらそれは完全な間違いだったらしい。

 ここに滞在して僅か三日であったが、蘇ってきたいくつもの幼き日の記憶がそれを証明していた。

 二日前、家を出る前に向こう三日分の宿題を済ませていた俺だが、ここに来て昼間の理亜の問題と千尋ちゃんの件と、自由課題を二つも増やす羽目になってしまった。


 風呂からあがり麦茶を一杯飲んでから二階の部屋へと戻ると、先程までそこに居たはずの彼女の姿が見当たらない。

 お手洗い――なわけはないし、が苦手な彼女がこんな時間から一人で外出するとも思えない。

 だとしたら家のどこかにいるのは間違いないだろうが、もしかしたら一人になりたかったのかもしれないし、探しに行くことはせずに戻ってくるのを待つことにして、机の上のスマホを手に取ると課題の一つに手を付ける。


『申し訳ございませんが、お掛けになった電話番号への通話は、お客さまのご希望により――』

 メッセージを最後まで聞かずに通話終了ボタンをタップすると、部屋の隅に畳んで積まれた布団の上に倒れ込んだ。

(今日はもう、心のバッテリー切れだ……)


「……んぁ?」

 本来俺は枕が変わっただけでも寝付けないような性格なのだが、この家では初日から普通に眠ることが出来ていたし、なんらな布団すら敷かず行き倒れたような姿勢で落ちた今ですら、身体を大きく揺さぶられあまつさえ裏返しにされるまで目を覚ますことをしなかった。

「万里くん起きて下さい。風邪ひいちゃいますよ」

 すっかり聞き慣れた声にゆっくりと目を開けると、眼前二〇センチの距離に幼馴染で二歳年下の従妹の顔があった。

 女子であれば誰もが羨むような長い睫毛の生えた大きな瞳が、俺のことを真っ直ぐに見下ろしている。

「ちいちゃん……」

 不意に口をいて出たその呼び名に驚いたのは、他ならぬ俺自身だった。

「なんですか?」

「……おはよう」

「おはようございます。夜ですけどね」


 腹筋の要領で上半身を起こすと、いつの間にか寝巻き――というか俺のワイシャツ――に着替えた彼女も同じタイミングで立ち上がる。

「寝るならお布団で寝ましょう。ちょっとどいてください」

 言われた通りに少し横にずれると、彼女が小さな体を布団の前で大きくかがませるのを寝ぼけ眼で眺めていた。

 夏物のワイシャツの短い裾から見え隠れする丸く柔らかそうな臀部には、本来あって然るべき布が存在しておらず――詳しくは語るまい。

「ちょっと千尋ちゃん! パンツ昼間洗ってあげたでしょうに!」

 動揺のあまり思わずおばちゃんのような物言いになってしまう。

「え――っきゃあ!」

 似たようなやり取りを過去に二度した覚えがあった。

 俺も彼女も学習能力が少し足りないのかもしれない。

「万里くんのえっち!」

(たぶん俺は何も悪くないはずなのに……)


 部屋の隅っこで耳の先まで真っ赤にして体育座りをしている彼女に代わり、結局俺が布団を敷くことになった。

「年頃の女の子がそんなんじゃ駄目でしょ?」

 うっかりとまたおばちゃんになってしまった。

「だって、下着一枚しか持っていないから。ずっと履いてるのがイヤで……」

「それはまあわからなくもないけど」

「それにこのワイシャツおっきいから、大丈夫かなって……」

「大丈夫じゃないからああいうことになったんだよね?」

「――あの」

「ん?」

「その……どこまで見えました?」

「どこまでって……全体的に」

「全……」

 彼女は敷いたばかりの布団の上に倒れ込むと、蕎麦殻の枕を抱えてばたばたと足を動かした。

 その不用意な行動によって、悲劇はまた繰り返されたのだった。

 過去の過ちによって学ぶことの出来る人とそうでない人がいるということを思い知らされる。


「それじゃ俺そろそろ寝るから」

「あ、はい。おやすみなさい」

 電灯の紐を三回引っ張り部屋を後にしようとすると、すぐに後ろから彼女がついてくる。

「ん? 千尋ちゃん、あっちの部屋の方がいい? こっちのが涼しいよ?」

「え? じゃあこっちで寝ましょうよ」

「ん?」

「え?」

「……え、今日も?」

「……え、だめですか?」

「駄目っていうか、ねえ?」

「……お化け、本当に恐いんです」

『お化けなんていないから大丈夫!』と言えない自分の立場がもどかしい。

「……今日の午前中。ハシモトさんのところに行ったじゃないですか」

「ああ、うん。やってなかったけどね」

「あそこのおばあちゃん。二年前に亡くなって、それでお店を閉めたんです」

「そういうことか。確かに定休日って雰囲気ではなかったもんね。まあ今の時代、あの形態の店だと家族が継いでも食べていけないだろうからね」

「……万里くんとお話してた、あのおばあちゃんのことです」

「ん? 何が?」

「亡くなったのが」

「……」

「……」

「千尋ちゃん。布団、ちょっとだけそっちに詰めてもらっていい?」

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