雨音

 そこはかとない違和感を感じて目を覚ます。

 僅かな時間の後に、それがカーテンの向こうで起きている出来事の所為せいだということに気がついた。

 隣で幸せそうな顔で眠る千尋ちゃんを起こさないようにそっと布団から出るで遮光カーテンを静かに開ける。

 果たして窓ガラスの向こうには灰色を基調としたコントラストの低い世界が広がっており、そういえば寝る前に見たテレビの天気予報で、頭の良さそうな天気予報士が天候が崩れるようなことを言っていたのを思い出した。


 雨天であれば罪悪感を伴わずに洗濯物を乾燥機に掛けることが出来るので、二度寝をする時間は十分にあった。

 しかし、ほんの数十秒前まで俺の寝床であったシングルベッドの半分は、同衾どうきんしていた既に少女による侵攻を受けており、そこに俺の領土を見出すことは出来なくなっていた。

(……それにしても)

 夏用の羽毛布団から半分以上飛び出し、まるで見てくれと言わんばかりの彼女の下半身に自然と目が行く。

 若木のように細くしなやかそうな両足の付け根を覆うピンク色の布は、その面積の殆どがレースで出来ており、女の子の大切な部分を守る気があるのかないのかイマイチ分からない代物だった。

 そして、その布切れは腰の左右で結ばれた紐によって始めて下着の形状を形成する――詰まるところ、所謂いわゆる”紐パン”という奴だ。

(理亜といい千尋ちゃんといい、なぜ俺の幼馴染は下着を見せたい人種ばかりなのだろうか?)

 蠱惑こわく的なその部位に布団を掛けてから部屋を出ると、雨で薄暗い階段を降りてダイニングへと向かった。

 彼女が目を覚ます前に朝食を取ってしまおう。


 朝食と身支度を終えて部屋に戻ると、未だ目覚める気配のない彼女を捨て置いて机に向かう。

 俺は決して勤勉なほうではなかった。

 だが、神経質且つ生真面目な性格であるという自覚はあった。

 今年は親戚かのじょの不幸というイレギュラーな出来事によって多少予定は狂っていたが、今こうしているように毎日決まった時間だけは必ず机に向かい、勉強なり宿題なりを自分で決めた分だけこなすことを苦としていなかった。

 以前、父に「お前は公務員とか向いてるんじゃないか?」と言われたことがったが、その分析は多分合っていると思う。



 三時間も机に向かっていただろうか。

 時計を見るともう昼に近い時間になっており、自身の集中力に少しだけ呆れてしまった。

 彼女が起きてくるまで宿題をやるつもりだったのだがその気配は一向に感じられず、代わりに階下からは乾燥運転の終了を報せる洗濯機のブザーが聞こえてくる。

「千尋ちゃ……って、いっか。用事があるわけでもないし」


 乾燥まで終わった洗濯物を脱衣所で手早く畳んでいると、今度はリビングから来客を報せるテレビドアホンのチャイムが鳴り響いた。

 一旦リビングに戻ってスピーカー越しに話すよりは、直接玄関に行った方が早いだろう。

 畳み掛けだったTシャツをその場に置くと、廊下を駆け抜けて玄関のドアを開ける。

 ドアの開度に比例して大きくなる雨音に紛れ、よく聞き慣れた声が耳に届いた。

「……おはよう」


「麦茶とオレンジジュース、どっちがいい?」

「オレンジジュース」

 以前、彼女が自宅から持ち込んでいたグラスにオレンジジュースを注いでテーブルの上に置くと、その向かいに腰を下ろして幼馴染の顔を正面から見つめた。

「もう二度と来ないと思ってたよ」

 すぐに言葉のチョイスを誤ったことに気づく。

 これでは彼女が浮気でもしたかのようではないか。

 実際はその逆――のようなもの――なのに。

「私も……そのつもりだった」

 幼馴染の沈んだ声に胸が締め付けられる。

「じゃあ、なんで――」

「私」

 彼女の瞳に決意の明かりが灯ったのが見て取れた。

「昨日の夜、このまま二日三日って時間が経ったら、もう二度と万里と今までみたいに仲良く出来ないって、そんな気がして」

「……」

「私は……。もし私が一番じゃなくっても、これからも万里とお喋りしたいし、万里に好きな人が出来たのなら応援だってしたいの」


 誰かが悲しみの淵に沈み込んでいれば、まるで自分のことのように一緒に涙を流し、誰かが喜びに胸を踊らせていれば、その手を取って笑顔を咲かせる。

 理亜という女の子は、昔からそういう子だった。


「ありがとう、理亜」

「……じゃあ、仲直りしてくれる?」

「うん。これからもよろしく」

「うんっ!」

 いつも通りの笑顔を見せた彼女は、大きく息を吐いてから「勇気を出して来てよかった!」と言ってくれた。

「あ、理亜。ジュース飲んじゃいなよ。氷溶けてる」

「ほんとだ! それじゃいただきます」

 すっかり薄くなってしまっていたであろうオレンジジュースを一息で飲み干した彼女は、グラスをテーブルの上に置くと一緒にソファーから立ち上がった。

「急に来てごめんね。今日はもう帰るね」

「あ、うん」

「ね? いっこだけ聞いてもいい?」

「なに?」

「その従妹の子って、何歳の子?」

「……ふたつ年下」

「万里ってロリコンだったんだ……」

「えっ? 二個下だよ? ギリセーフじゃない?」

「ギリアウト」

「うそ……。俺、ロリコンだったのか」

「うん。でもあと一年経てばたぶんセーフかな?」

 世間一般ではそういう基準なのか、それとも理亜判定なのだろうか?

「それまではしないように我慢しなね?」

「……」

「万里、顔真っ赤っかだよ」

「……ほっといてください」


 理亜を見送ってからリビングに戻り、空になったグラスを片付けながら先程の彼女とのやり取りを思い出した。

『私は……もし私が一番じゃなくっても、これからも万里とお喋りしたいし、万里に好きな人が出来たのなら、応援だってしたいの』

 自分のことを一番に想ってくれていた女性にあんなことを言わせるなんて、俺は男として最低なのかもしれない。

(理亜、本当にごめん。でも一番とか二番とか、そういうのとはちょっと違うんだ)

 忸怩じくじたる思いに打ちひしがれる脳裏に、彼女の口からその後に放たれた言葉が去来した。

『万里ってロリコンだったんだ』

 ある意味こっちのほうがキツい気がする。

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