約束
祖母の家で過ごす最後の夜は昨日や一昨日と特段変わることもなく、夏の夜の虫達の声をバックグラウンドミュージックにして静かに過ぎていった。
風呂から戻ると部屋の中央に敷かれた布団の上で彼女は既に寝息を立てていた。
その姿はといえば相変わらずの無防備さで、男物のワイシャツの胸元から覗く慎ましやかな膨らみに自然と目が行ってしまう。
もし彼女が幽霊ではなくただの女の子であったなら、俺はこの状況で変な気を起こすことをしなかっただろうか?
俺と彼女は従妹とはいっても血の繋がりはなく、あくまで形式上の肩書であるわけだし、それに先方の両親からは――俺は覚えていなかったが――何年も前にケッコンのお墨付きまで頂いている。
(……だから何なんだ? 馬鹿なのか俺は)
馬鹿なのだろう、俺は。
湯から上がってから
6インチの液晶画面には十数分前に五件の新着メッセージがあった旨が表示されており、その全てはもう一人の幼馴染からのものだった。
『万里のバカ』
『万里なんてきらい』
『もうヤダ』
『本文なし』
『わたし馬鹿みたい』
以前理亜とケンカになってしまった時も、これとほとんど同じ内容のメッセージが連続で送られてきたことがあった。
ひとり暗い部屋のベッドの上で体育座りをしながら、チコチコと文字を入力している彼女の姿が脳裏に浮かぶ。
俺と彼女の関係というのは仲の良い兄妹のそれと近しかったのだが、十六という年齢を考えた時、これからもそのままでというのは無理がきているのかもしれない。
もしそうだとしたら今後は互いに距離を置くか、それとも更に近づくか。
多分、選択肢はその二つしか残されていない。
それを決めるのが彼女ではなく俺だとしたら。
「すいません、寝ちゃってたみたいです……」
熟考の最中に背後から突然声を掛けられ思わず椅子から飛び上がってしまった。
「……大丈夫ですか?」
「ああ、ごめん。ちょっと考え事をしてたから……」
「それって、私のことですか?」
「え? いや……。明日のバスと電車の時間を擦り合わせてたんだ」
「あ、そっか。明日はもう帰る日でしたね」
彼女は小さな口を目いっぱい開いて欠伸をすると、目尻に涙を溜めながら布団の上にちょこんと腰を下ろした。
「昨日と今日、万里くんと色々なところにお出かけ出来て、すごく楽しかったです」
「うん、俺もだよ。案内してくれてありがとうね」
「あっちに行ったら、今後は万里くんが楽しいところに案内してくださいね」
「それはもちろん……って言っても、こことは違ってつまらないところだけどね」
「じゃあ、つまらないところでもいいです」
「それでもいいなら、うん」
「ふふっ」
「え? なに?」
「あ、ごめんなさい。えっと、すごく楽しみで」
「楽しみ?」
「はい。万里くんと一緒に、すっごくつまらないところに遊びに行くのが」
「ええ……。あんまりハードル上げないでよ」
「期待してます」
そう言うと彼女は再び小さく笑った。
「それじゃ、そろそろ寝ようか。電気消すね」
「はい」
彼女が布団の上に横たわったのを確認してから電灯の紐を三回引っ張ると、自身も半分開けられた布団の右側に身体を滑り込ませる。
カーテンを閉め忘れていた窓からは月明かりが優しく差し込み、海からやってきた風速二メートルの風が心地よく吹き込んでくる。
「千尋ちゃん。ひとつだけ聞いてもいい?」
「はい?」
「今朝、バス停でハシモトさんのおばあちゃんに会ったんだ」
「え? あの……
「そう。そのハシモトさん」
「何かお話とかしたんですか?」
「うん。何かまでは聞かなかったんだけど、ハシモトさんはこっちで気になることがあるからまだあっちに行かないって。そう言ってた」
「……はい」
「でも、その気になればいつでも行けるって」
「……」
「千尋ちゃんは……どうなの?」
「私は……やっぱりよくわかんないです」
「そっか、うん。ごめんねヘンなこと聞いて」
「万里くんはもし私が――」
「明日ちょっと早く起きたいからもう寝るよ。おやすみ」
「……はい。おやすみなさい」
その夜、俺は夢を見た。
八歳の俺と六歳の千尋ちゃんは祖母に貰った百円玉を大事にポケットに入れて、近所にある雑貨店を目指していた。
彼女は俺よりも頭ひとつ分くらい背が低くその分歩く速度も遅くって、真夏の太陽の下を小走りでついてきている。
『あっ!』
後ろから聞こえた声に慌てて振り向くと、石か何かに
『ごめんねちいちゃん。ゆっくり行こうか?』
『……うん』
互いの手を固く握ると再び歩き出す。
『……ばんりくん』
『うん? なに?』
『大きくなったらわたし、ばんりくんのおよめさんになってもいい?』
『えっと……おじさんとおばさんがいいって言ってくれるかな?』
『いっしょにおねがいすれば、きっとだいじょうぶだよ!』
『じゃあ、うん。大きくなったらケッコンしよう』
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