安寧
気がつくと俺は海にいた。
もっとも気を失う前にも海にいたのだから、当然といえば当然なのだが。
砂の上から起き上がり、顔中に付いた砂を両手で払いながら辺りを見回す。
(ああ、やっぱりか)
やっぱり俺は、死んでしまったのだろう。
ここの風景は確かに祖母の住むあの田舎の町にある海で間違いなのだが、同時に明らかにそことは異なる場所であると断言出来る。
何故ならばここには色と、そして音がなかった。
先程までいた
ただそれでもここと比べれば、どれ程に色と音に満ち満ちた世界であったのかが、今になってみればよくわかる。
白と黒。
本当にたったそれだけで描かれた、とてもつまらなく、寂しい絵画の中のような世界。
急に思い立ち、声を上げてみる。
「おーい!」
……。
いくら待っても返事などあるはずもないのだが、それも試す前からわかっていたことだったので驚きは全く以てなかった。
ここから逃げ出すことは出来ない。
それもわかっていた。
色がない。
音もない。
月もない。
雲もない。
風もない。
波もない。
そんな世界に俺はたったひとりで砂の上に座り、ただ海を見つめていた。
あれから。
あれから何時間が経っただろうか。
或いは何日か。
それとも何ヶ月か。
もしかしたら何年かもしれない。
死後の世界というのはもっとこう、色とりどりの花が咲き乱れ、その向こうに綺麗な小川が流れていて――とにかく安寧を得られる場所だと思っていた。
それらは全て生きている人間が生み出した幻想に過ぎないということは、今更過ぎて本当にどうでもいい知見だった。
俺は再び海を眺める。
そういえば。
そういえば、何年か前にだったか。
死後の世界に安寧などなかったと言ってしまったが、それは完全に間違いだった。
この世界には何もない。
だから、何も考えなくていい。
嫌なことも。
辛いことも。
悲しいことも。
そして、楽しいことや嬉しいことも。
ここにあるのは空と海と砂浜と、あとは俺だけだ。
俺はもう、この世界の一部でしかなくなっていた。
俺はもう、何も悲しまなくていい。
俺はもう、何も喜びを覚えることもない。
俺にはもう、何も……。
ああ。
ああ、そうだった。
なぜ忘れてしまっていたのだろうか。
俺にはひとつだけ、たったひとつだけ、とてもとても大切なものがあった。
長い黒髪を風になびかせて、仔犬や仔猫のように人懐こくて、事ある毎に万里くん万里くんと俺の名前を呼んで頼ってくれて、そんな彼女のことが俺は大好きで、ずっと一緒にいたいと思って、それで――それで俺は、この海に来たのだった。
自らの足で立ち上がるという行為を覚えていた自分を褒めてやりたかった。
肺が破裂する程に深く空気を吸い込み、口を上下に裂けてしまいそうな程に大きく開く。
「千尋ちゃーん!」
意外なことに初っ端から声が出た。
自分の喉から出た大好きな少女の名前を耳にし、白と黒とに塗り上げられていた心が大きく弾む。
「千尋ちゃーん! 俺はここにいるよ!」
「千尋ちゃーん! ちいちゃん!」
「ちいちゃん! ちいちゃーん!」
何千回。
いや、何万回その名前を叫んだだろう。
『――ばんりくん!』
やっと。
やっと、届いてくれた。
『ばんりくん! わたしはここにいるよ!』
「……ちいちゃん……ちいちゃん!」
『ばんりくん! 万里くん!』
「千尋ちゃん!」
俺は砂を蹴って走り出した。
彼女の声がした、その場所に向かって。
どれだけ走っただろうか。
いつの間にか東の空が色づき始めていた。
それはいつ振りに目にした色だろうか。
そのあまりに鮮やか過ぎる色彩に自然と涙が溢れてくる。
それでも俺は涙を拭きもせずに走り続ける。
彼女の――大好きだった彼女の声が聞こえたほうに向かって。
そして。
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