切望
心臓と横っ腹を押さえながらという情けない状態ではあったが、何とか足を止めずに海まで辿り着くことが出来た。
満月に照らし出された海は完全に凪いでいた。
波も風も、そして月明かり以外に光のないそこは、音も色もない悲しい世界だった。
真っ黒な海を奥に控えた真っ白な砂浜の上に立つと、今日の昼から感じていた彼女の気配がより一層濃くなったことがわかった。
彼女は間違いなく、ここにいる。
「千尋ちゃん!」
「俺だよ! 万里だよ!」
「どこにいるの! 出てきてよ!」
「お願いだ! 君を迎えに来たんだ!」
全力疾走で乾ききっていた喉から出した声は、叫んだその場から無限に広がる暗闇に吸い込まれて消えていく。
それでも俺は叫び続けた。
一時間かニ時間か。
とにかく長い時間、叫び続けていた。
「……千尋ちゃん……返事をしてよ……」
自分の中では大声を張り上げているつもりだったのだが、その声量はといえばもはや図書館でひそひそ話をする学生のそれと同じかそれ以下だった。
そして遂に、俺は声そのものを出すことが出来なくなってしまった。
声帯が壊れてしまったのか、それとも彼女を見つけることが出来ないことで心が完全に折れてしまったのか。
何れにせよもう、叫ぶことは出来ない。
明日の朝一番にまたここに来て、声が出なくなるまで彼女の名前を呼び続けよう。
そしてまた声が出なくなったら明後日来ればいい。
明後日も駄目なら明々後日、それでも駄目なら……。
駄目だ。
彼女は今日、今この時、絶対に連れて帰る。
俺は元来、諦めは良い方だったと思う。
でもこれだけは、千尋ちゃんのことだけは何があっても諦めることなど出来るはずがなかった。
肺が許容する限界まで大きく息を吸い込む。
神様。
神様。
神様。
もしいるのであればお願いします。
どうか俺の声を彼女の耳に届けて下さい。
もしその願いを叶えてくれるのであれば俺の持っているモノ――未来でも命でも、何でも取り上げてくれていいです。
「っ千尋ちゃん!」
声が出た。
「千尋ちゃん! ちいちゃん!」
「ちいちゃーん! 俺はここにいるよ!」
『――ばんりくん!』
その時、俺は確かに彼女の声を聞いた。
それは幼かった夏の日に、互いに手を取り合って海を目指した時に聞いた、あの日の彼女の声だった。
「ちい……ちゃ……」
胸が、心臓が――刃物で滅多刺しにされたかのように痛んだ。
なんとまあ律儀な神様が居たものだろうか。
願いが叶った瞬間に、か。
いや……それは違うかもしれない。
ここ数日、殆ど睡眠を取らず、食べるものも食べずに四六時中走り回っていたのだ。
若さ故に利いてしまった無理が祟ったのだろう。
でも、確かに俺の声は、彼女の元へと、届けられたのだ。
だから、もう、悔いはない。
「ハッハッハッ」
段々と呼吸が浅く、そしてゆっくりになっていく。
「……ハッ……ハッ……」
膝から砂の上に崩れ落ち、そのまま前倒し地面に突っ伏す。
「……ハッ……ッ」
そして俺は死んだ。
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