常世
一旦県道に出て東へ数百メートル歩くとすぐに目的地に到着した。
そこは幼い頃と現代の俺と千尋ちゃんが来たことのある『橋本雑貨店』であり、この店の店主だったハシモトのおばあちゃんの存在こそが、俺がこの場所を訪れた目的でもあった。
正方形に切り取られた無数のガラスが嵌められた木戸を叩きながら店の主の名前を呼ぶ。
「ハシモトさん! ハシモトのおばあちゃん!」
白いカーテンで目隠しをされた店内には――当然といえば当然だが――明かりが点いているような気配はない。
それにもし、ハシモトさんが千尋ちゃんと同じような存在であれば、その生活様式は生きていた頃のそれと余り変わらないはずだ。
なのでもしかしたら、もう寝てしまっているかもしれない。
もう一度呼んでみて駄目ならば、明日の朝にでも出直そう。
そう考えながら右手を肩の高さまで振り上げた、その時だった。
「あら。万里ちゃんじゃない」
まさか背後から声を掛けらるとは思っていなかった俺は、一〇センチ近くも地面から飛び上がってしまった。
「あらやだ! ごめんなさいね」
ハシモトのおばあちゃんはニコニコと笑いながら俺の二の腕をポンポンと軽く叩いた。
「ハシモトさん夜分にすいません! 彼女が……千尋ちゃんがどこに行ったのか知りませんか?」
口に出してから自分の発言の情報不足に気が付きすぐに補足しようとしたのだが、それよりも先にハシモトさんが口を開いた。
「あら。あの子はひとりで逝けたのね」
「……え?」
「前にあなた達に会った時に私が言ったことは覚えてる?」
「……えっと」
「私はね、こっちに心残りがあったから向こうに行かないでいるの」
ああ、確かにそんなようなことを言っていたような気がする。
「私はニ年前に病院で亡くなったんだけど。その時にね、ある人に頼まれてこっちに留まっていたのよ」
「え……それってその。いわゆる死神のような……?」
「違う違う!」
ハシモトさんは手をパタパタとさせながら首を横に振る。
「あなたもよく知っている人よ。その人はもうあっちの人で戻ってくることは出来なかったから、それで私に頼んだみたいで」
俺の知っている人で故人といえば。
「……俺の、お母さんですか?」
「彼女、あなたのことも気に掛けていたみたいだけど、あなたとあなたのお父さんはしっかりやっているのも知っていたから」
お母さん……。
「それでね。人がその寿命を全うしないで死ぬっていうのは、言ってしまえば運命みたいなものなの。あなたのお母さんはきっと、あっちの世界で千尋ちゃんがもうすぐその時を迎えることを知ったのかもしれないわね」
「……」
「あなたにとっては辛いことかもしれないけれど、死んだ人があっちに行くのは当然だし、きっと幸せなことだから」
……じゃあ。
「じゃあ、千尋ちゃんは、もう……」
「私もそろそろ向こうに行きましょうかね。万里ちゃん、千尋ちゃんとお母さんの分まで幸せに生きなさいね」
「ハシモトさん、待っ――」
ハシモトのおばあちゃんはまるでタバコの煙が風に流されるように、その姿を一瞬のうちに消し去ってしまった。
千尋ちゃんはもうこの世に存在しない。
ハシモトさんが言っていたことを疑うわけではなかったが、俺はそれを肯定することなど出来なかった。
彼女はまだこの世のどこかに、いや、この町のどこかに必ずいる。
彼女を愛し、そして愛された俺にはそれがわかる。
彼女は自宅のマンションにはいなかった。
祖母の家にもいなかった。
あの山の上の展望台にもいなかった。
だったらもう――あの場所しか残っていない。
月明かりが照らし出す畑の道を、俺は全力で海まで走った。
日頃の運動不足が祟ってか、心臓は破裂しそうにその鼓動を限界まで高め、脳の血液と酸素が不足して目眩がする。
それでも俺は足を止めなかった。
千尋ちゃんが俺のことを待っている。
真っ暗なあの海岸で、たった一人きりで、俺のことを待ってくれている。
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