彼岸
カーテンの隙間から差し込む光の色と角度で、時計を見るまでもなくまだ早朝だということが何となくわかった。
布団に入ったまま首だけを横に向けると、すぐ隣で従妹の少女が安らかな表情で寝息を立てている。
「千尋ちゃん」
「……むにゃむにゃ」
彼女がまだ寝ていることを確認したあと陶器のように透き通った白い頬を人差し指でそっと押すと、すぐにマシュマロの柔らかさで指が押し戻される。
そこにはやはり体温というものは存在していなかったが、逆に言えばそれ以外生きている人との違いを見つけることは出来ない。
洗面所で身支度を整えてから居間に行くと既に朝食の準備を終え寛いでいた祖母と挨拶を交わす。
「おはようおばあちゃん」
「万里おはよう。随分と早いだね」
北側の掃出し窓が開け放たれているだけだというのに、この家はまるでエアコンが作動しているかのように涼しかった。
もっとも、その窓の向こう側からは既に婚活に精を出すセミ達の声が聞こえ始めており、あと一時間かそこらで夏本来の暑さが訪れることが容易に想像できた。
「あ、そうだ。俺、明日の昼にあっちに戻るよ」
「そうかね。……ちょっと寂しくなるねぇ」
「千尋ちゃんの四十九日の日にはまた来るから」
本人も連れて。
「それじゃ、そん時にまた肉じゃが作ってやるでね」
「うん。楽しみにしてる」
朝食を食べてから部屋へ戻ると、ちょうど千尋ちゃんが布団から起き上がってくる。
「……おはようございます」
「おはよう。今日はどうしよっか?」
「……今日も出来れば、お散歩に行きたいです」
「うん。じゃあそれで」
彼女が着替えをしている間に、明日乗るバスの時間を確認すべくバス停に行くことにした。
スマホを使えば一分と掛からずに調べられるのだが、それをしなかったのは穏やかな時間が流れるこの田舎の町ではその行為自体が無粋に感じたからかもしれない。
昨日よりも若干雲量を増やした空はそれでも全力で夏を主張するかのように、雲の隙間から容赦のない熱線を浴びせかけてくる。
海の近くのここでこの調子だと、きっと地元は灼熱地獄に堕ちていることだろう。
バス停まで僅か十数メートルの距離をげんなりとしながら歩き切ると、トタンで
それによると、バスは概ね一時間に一本の頻度で運行されていることがわかったのだが、実を言うと十数秒前から俺の関心は別のことに移り変わっていた。
「あら。万里ちゃんおはよう」
「あ、おはようございます……」
停留所の小さな日陰の下に置かれた壊れかけの椅子に腰掛けていたお年寄り――昨日会ったハシモトさん――は、俺の顔を見上げてにこにこと微笑んでいた。
「万里ちゃんは高校生だっけ?」
「あ、はい。一年生です」
「じゃあ青春真っ只中じゃない。いいわねぇ」
「はあ」
「そういえば昨夜、あなたの後ろにいた女の子。彼女、千尋ちゃんでしょう?」
「……えっと」
「あら、ごめんなさいね! いいのよ、気を使ってくれなくっても。私もほら、同じだから」
彼女はそう言って両手首を胸の前でだらりと垂れさせた。
「そうだったん……ですね。僕はてっきり自覚なしで、その……」
「そうじゃないのよ。ちょっと気になることがあったもんで、もう少しだけこっちにいたくってねぇ」
「えっ? じゃああの……そういうのって自分で決められるんですか?」
「他の人達はどうか知らないけれど、私の場合は行く場所がわかってるから。その気になればいつでも行けるのよ」
「そういうものなんですね……」
だとすれば。
それは千尋ちゃんも同じなのだろうか?
何日か前に彼女と話していた時、確か『天国ってどこにあるんですか?』と言っていたような気がする。
あれは嘘だったのか……。
それとも
いや、こればかりは俺がどんなに考えても答えなど出るわけがない。
折を見て本人に聞いてみる他ないだろう。
「何はともあれ、ね」
「はい?」
「可哀想だけどあの子はもう亡くなっていて、あなたは生きているんだから。……そのことだけはしっかりと頭の真ん中に置いておかないと駄目だからね」
「……はい」
「それじゃ、私はそろそろ家に戻りますから。もしまた暇だったら遊びにいらしてね」
ゆっくりと遠ざかって行くハシモトのおばあちゃんの背中を見送ったあと、俺も祖母の家へと戻りながら今しがた聞いたばかりの言葉を思い出していた。
『あの子はもう亡くなっていて、あなたは生きているんだから』
そんなことはわかりきっていたはずなのに、ハシモトさんに指摘されて改めて考えさせられる。
生者と死者。
俺と千尋ちゃんとを隔てるそれは、どんな手段を用いたところで渡るどころか、対岸を見ることさえ叶わぬ大河なのかもしれない。
「おかえりなさい」
ようやく目が覚めたのか彼女は真夏の
「ただいま。今日はどこに行く?」
「えっと、行きたいところがあります」
「それじゃそこに行こう」
「ありがとうございます!」
午前中は祖母の手伝いで庭の草刈りをして過ごし、家を出たのは少しだけ日が傾き始めた時間になってからだった。
昼前は空の半分以上を覆い隠していた雲はいつの間にか綺麗さっぱり消えて無くなっており、八月に入ったばかりの空の青さと高さに目が奪われる。
「まずはあっちから攻めます!」
そう言って彼女が指を向けたのは、地表よりも若干上を差している気がした。
「先導よろしく。どこにでもついて行くから」
「それはダメです!」
「え?」
「はい!」
「あ……うん」
彼女が差し出した手をそっと握ると、蝉しぐれの降り注ぐ夏の空の下をあの日と同じように肩を並べて歩き出した。
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