匂坂千尋

従妹

 三時間の電車移動をした後だったせいか、四十分のバス移動は文字通りにあっという間のように感じ、気がつけばバスはよく知った風景の中で速度を緩めていた。

 叔父夫婦への挨拶は考慮時間を使い果たして尚、たったの一言たりとも浮かんでいなかった。

 もはやぶっつけ本番で行く他ないだろう。

 キャリーバッグを持ち上げながらバスから降りると頭上から一斉に蝉時雨せみしぐれが降り注ぎ、フライパンのように熱せられたアスファルトの高熱は靴底を攻め立て、上からも下からも夏の洗礼を受ける。

 唯一の救いはといえば、祖母が家はこのバス停の目と鼻の先にあることだった。


 車通りの全く無い二車線の県道の脇にある細い道を真っ直ぐに進む。

 二〇〇メートルで突き当たったそこには、昭和の時代に建てられた瓦葺きの日本家屋が堂々と待ち構えていた。

 丁度俺の身長と同じくらいの、一七〇センチほどの高さで刈り揃えられた植え込みに囲まれた敷地の中には、幾本もの枝ぶりの良い植木が植えられちょっとした古拙の様相を呈している。

 幼い頃には何度も訪れた場所なのに、まるで初めて来た他人ひとの家のような気がして一瞬足が止まってしまいそうになったが、ここは間違いなく母の生家であり、それはすなわち俺の故郷の家でもあるのだ。


 気を取り直して飛び石が置かれた通路を進むと、開けっ放しにされた引き戸の玄関に向かって声を掛ける。

「おばあちゃーん! 万里です!」

 俺の呼び掛けに僅かに時間を置いて、祖母が廊下の奥からエプロンを外しながら出てくる。

「また少し見ないうちにおっきくなって。よく来てくれたね、万里」

「ごめんね、しばらく来れなくて」

「いいよいいよ。あんたのうちも大変だから。さ、あがんな」

 家の一番奥にある居間へと通され座卓の前に用意された座布団の上に腰掛けると、すぐにコップの縁まで氷で満たされた麦茶が目の前に置かれた。

「遠いのに悪かったねぇ」

「ううん。それより、おじさんとおばさんは?」

「ああ……。もうじき千尋を連れて来ると思うよ。まだ中学三年生だったのに、本当に可哀想なことをしたね……」

 祖母はそう言って服の袖で目元を軽く押さえた。

 血の繋がりこそなかったが、かわいい孫に他ならない千尋ちゃんの早すぎる死が、祖母の心をどんなに痛め付けているかは想像に易かった。


 祖母と話をしながら一息つくと、叔父と叔母がやってくる前に制服れいふくに着替えておくことにした。

 その旨を祖母に伝えると「二階の部屋に布団も用意してあるから好きに使いんよ」と言って天井を指差した。

 以前ここに泊まりに来ていた時に使わせてもらっていた部屋のことだろう。

 急な階段を上って正面のドアを開け、机と布団以外に何も置かれていない部屋でキャリーバッグの中身を広げる。

 何週間ぶりかに腕を通した制服に若干の違和感を感じたのは、ここが学校から遠く離れた地であったからだろうか。


 久しぶりのタイを綺麗に結ぶのに苦労していると、開け放たれていた庭に面した窓のほうから車のエンジン音が聞こえてくる。

 首だけをそちらにひょっこりと出して様子を伺うと、果たして眼下には黒いワンボックスカーが後ろ向きに入ってきており、玄関の前では祖母がそれを出迎えていた。

 急いで階段を駆け下りると玄関から飛び出し、祖母の横に並んで叔父の家族を迎える。

 やがてワンボックスカーのドアがゆっくりと開くと、叔父と叔母、それに礼服を着た二人組の男性――葬祭会社の人だろう――が静かに降りてくる。

 当然ではあるが、叔父も叔母もひと目見てわかるくらいに憔悴しきっていた。

 数メートルの距離にいる俺と祖母の姿さえ見えていないようで、礼服の二人がリアゲートを開ける様を直立不動で見守っている。

 葬儀社の人はロボットのように正確な動きで車の後部に立つと、音もなくリアゲートをゆっくりと押し上げる。

 まるで舞台の幕が開くように徐々に上に開いていくゲートの奥には全体に白い布が被せられた棺が安置されており、その非日常的な光景に緊張が走った。


ただし恵美えみさん」

 祖母に背後から声を掛けられ、そこで初めて俺達の存在に気付いたのだろう。

 叔父と叔母は振り返るのと同時にこちらに向かって頭を垂れた。

「母さん。それに……万里。私達と娘がお世話になります」

「おじさん、おばさん……」

 三時間もの道中でお悔やみの言葉を用意しておかなかったことを、この時点になって初めて後悔したが後の祭りであった。

 俺はただ黙って千尋ちゃんが収められた白い箱が、黒い服の男の人達によって降ろされるのを見守る他なかった。

 棺は玄関へとは向かわずに、そのすぐ脇にある和室の掃き出し窓から室内へと搬入された。

 続いて車から降ろされた様々な箱や袋がやはり和室に運び込まる。

 その中から取り出され組み立てられた祭壇や鯨幕くじらまくにより室内が飾り立てられ、それこそあっという間に式の設営が完了した。


 黒服を乗せたワンボックスカーが出て行くのを目で追っていると、いつの間にか横に立っていた叔父が俺の肩に手を置いてから口を開いた。

「万里、千尋の為に来てくれてありがとう。遠くから悪かったな」

 俺と叔父から少し離れたところでは叔母がこちらを向いて立っており、殆ど聞こ取れないほどの小さな声ではあったが、やはり「万里ちゃん、ありがとうね」と、泣き顔にしか見えないような笑顔を浮かべている。


 その姿があまりにも痛々しかったからだろうか。

 それともただ、場の空気に呑まれてしまっただけだろうか。

 もしかしたら、母が亡くなった時のことを思い出したのかもしれない。

 何れにせよそれは突然であった。

 真夏の入道雲のように悲しみの感情だけが急速に湧き出てくると、それは心から溢れ出して目から渾渾こんこんと流れ落ちる。

「……おじさん、おばさん。俺……」

 すぐ横からは祖母の嗚咽も聞こえてくる。

「……千尋の為に泣いてくれてありがとう」

 肩に置かれたままだった叔父の手がそっと離れると、俯いて涙を流す俺の頭を優しく撫でてくれた。


「千尋。万里が会いに来てくれたよ」

 和室に設けられた祭壇の正面に安置されている棺に手を置いてそう言った叔父は流れ落ちる涙を気にする様子もなく、淡々と娘に話し掛けていた。

「万里にも千尋に会って欲しかったんだけどな……」

 叔父の言わんとしていることは高校生の俺でも何となくわかった。

 俺は彼女と対面する代わりに、叔父を真似て彼女の収められた白い箱にそっと手を置く。

「……千尋ちゃん、会いに来たよ」

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