車窓

 昨夜はアラームをセットして寝たのだが、結局はそれが鳴るより一時間も早く自然に目が覚めた。

 壁の時計を見るとまだ八時を回ったばかりだったが、二度寝をしてしまっては本末転倒もいいところなので、布団から抜け出してカーテンを開ける。

 昨日の予報通りに空は青く晴れ渡り、ペアガラスの窓で隔てられた外界が既に灼熱地獄に堕ちていることが容易に想像出来た。

 この陽気なら洗濯も今から干せば昼までには乾いてくれるだろうから、出発の前にとっとと片付けてしまおう。

 シャワーで寝汗を流して洗濯機を回すと、キッチンのパントリーから適当に見繕ったカップ麺に湯を注いで朝食を取る。

 うちは男二人の家庭ではあったが、父と交代で自炊をすることが当然の生活だったので、今日のようにカップ麺を食べる機会は最近まであまりなかった。

 だが、父が海外に出張してからはその頻度は高くなり、毎日一食は湯を注ぐか温めるだけの食事になってしまっていた。

 もっとも、男子高校生の一人暮らしという括りの中で考えれば、それでもまだマシな方ではないだろうか。

 そんな食生活を送っていると、『もし母が生きていたら』と考えてしまうことも一度や二度ではなかったが、それこそ考えても仕様が無いことなのはよくわかっていた。


 名ばかりの食事を取り終えて洗濯物を外に干してから、理亜に数日間の留守にすることを伝えるためにSNSでメッセージを送る。

 今の時間はまだ部活動の最中だろうから既読は付かないと思っていたが、即座に『気をつけて行ってきてね』と返事が返ってきた。

 彼女の所属する陸上部の顧問は放任主義で有名だったので、大方グラウンドの練習場にスマホを持ち込んでいたのだろう。

『帰ってきたらすぐ連絡するからどこか遊びに行こうよ』

『うん!』

 スマホを片手にピョンピョンと跳ねている彼女の姿が脳裏に浮かんだ。


 少し風があったお陰で洗濯物はあっという間に乾いてくれた。

 畳むのは――帰ってきてからにしよう。

 そうこうしているうちに出発予定時刻の正午になり、戸締まりと火の元の確認をしてから仏壇の母に手を合わせると、多少の覚悟を決めてから玄関の戸を開け祖母の田舎へと向け一歩を踏み出した。


 わかっていたこととはいえ、本気で暑い。

 ここから駅までは十分ちょっととそう遠くはないのだが、そのたった一キロ程の道程で行き倒れてしまうのではないかと、割と本気で自分の命運が心配になった。

 だが、十代の体力はこの程度の暑気に屈することはなく、腕と首の裏を幾らか焦がせはしたものの、本日最初の目的地である駅へと難なく辿り着くことが出来た。

 定刻通りにやってきた電車に乗り込むと、弱冷房車の控えめな冷気が火照った身体を冷やしてくれる。

 夏休みで人影の疎らな車内には、俺以外にはサラリーマンと思しきスーツ姿の中年男性が二人いるだけだった。

 俺は出入り口のすぐ近くに腰を下ろすと、何をするわけでもなく車窓へと目を向けた。

 政令指定都市に隣接する人口九万人のこのまちは、逆にその中途半端な規模故かこれといった観光名所があるわけでもなく、他県に誇れる名産品があるということもない、極ありふれた地方都市だった。

 目の前を流れていく景色もまさにそれに見合ったもので、古い低層の建物と田畑が平地を埋め尽くすばかりでお世辞にも眺めていて楽しいものではない。

 僅か一分で風景を見ることに飽きた俺は、ポケットからスマホを取り出してゲームのアイコンをタップする。

 無課金でプレイしているそれとて大して楽しいものではなかったが、時間を無駄に浪費するにはこれ程にうってつけなものもなかった。



 電車はコトンコトンと小気味良い音を立てながら幾つかの市と町を過ぎ去り、気がつけば出発してから一時間以上が経過していた。

 充電を三〇%消費し熱を持ったスマホをポケットに仕舞い、凝り固まった首をポキポキと鳴らしながら久しぶりに顔を上げる。

 すると、車窓の向こうを流れる景色はいつの間にか一変していた。

 先程までは人工物の黒や灰色やクリーム色などが大半を占めていた景色は、森や田畑の緑や土の茶色といった自然色アースカラーに置き換わっており、その一番奥に見える松林の向こうに見える青は太平洋の大海原だろう。

 いま自分が祖母の家へと向かっているのは不幸な亡くなり方をした従妹を弔う為だということはわかってはいたのだが、数年ぶりの見慣れぬ風景に自然と気分が高揚してくる。

 母が亡くなってから六年間、父は本当に一生懸命に俺を育ててくれた。

 逆にいえばその懸命さ故に家事に仕事にと日々を追われた結果、どこかに遠出するような機会は失われていた。

(このくらいいいよな。俺だってずっと、大変だったんだから)

 言い訳じみた思考で自身をゆるすことに決めた俺は、それから一時間もの間、まるで何かに取り憑かれでもしたかのように車窓の景色をずっと眺めていた。


 そして自宅を出てから三時間、とちょっと。

 ようやく二番目の目的地の駅へと到着して電車を降りる。

 そこは全く知らない町だった。

 というのは祖母の家を訪れる時は決まって父の運転する車でだったので、鉄路を使ってここに来たのは初めてだったからだ。

 スマホの乗り換えアプリを起動し、画面に表示された地図と文字に従って歩くとすぐにバス停へと辿り着く。

 そこでドアを開けて止まっていたバスは幸運にも俺の乗りたかった路線のもので、電車を降りてから僅か五分で再び冷房の利いた空間に身を置くこと出来た。


 数人の乗客を乗せたバスは、LPGエンジン特有の低く力強い唸りを上げながら発進する。

 ここから更に四十分バスに揺られて町と山を二つ越えると、いよいよ最終目的地である祖母の田舎に到着する。

 俺は先程まで電車でしていたように窓枠に肘をつきながら、只々ガラスの向こうを流れる景色を目で追った。

 叔父夫婦にあったらまず、なんといえばいいのか。

 今の時代そんなことでさえネットで検索をすれば模範例を知ることが出来るのだろうが、それをしてしまっては今日俺がここに遥々はるばるやって来た意味など消し飛んでしまうような気がした。

 窓の景色が見知ったそれに変わるまでに、俺なりの答えを導き出さなければ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る