目眩

「お邪魔します」

「いやいやいやいや! 駄目でしょ!」

「いいじゃないですか。もう、知らない仲じゃないんですから」


 とてつもなく人聞きの悪いことを言いながら浴室に入ってきた彼女はバスチェアに腰を下ろすと、身体に巻いていたタオルをおもむろに外して後ろ手で俺に渡してくる。

 首の骨が折れるような勢いですぐに目を逸らせたが、一瞬だけ見えた彼女の背中は日焼けの跡ひとつなく白く透き通っており、思春期真っ只中の俺の心臓は一気に喉元まで跳ね上がった。

「あの、千尋ちゃん。俺もさ、年頃の男なんだけど……」

「私だって恥ずかしいですから。だから我慢してください」

 それはメチャクチャな言い分のように感じたが、確かに俺より彼女のほうが恥ずかしいのは間違いないだろう。

「えー」

「男の子なんだから、文句言わないでください」

 やはりメチャクチャだった。


 渡されたバスタオルを濡らしてしまわぬよう、バンザイの格好で頭上に持ち上げながらゆっくりゆっくりと彼女に背を向ける。

 その様子はさながら我が子を釜茹での責め苦から守ろうとする、安土桃山時代の盗賊の頭領のようであった。

(っていうか、お風呂も入れるのか……)

 彼女と再会してからもうすぐ七十時間が過ぎようとしていたが、一筋縄ではいかないその存在から得られる知見はまだまだ未知数だった。

 もっとも将来、それが生かされるシーンに出くわすことはないだろうが。


 そんなどうでもいいことを考えていると、シャワーがタイルの床を叩くバシャバシャという音が止んだ。

「タオル、ありがとうございました」

 頭上から彼女の声が聞こえ、次の瞬間には手にしていたバスタオルがふわりと取り去られる。

「あの。先に出ますけど、お洋服借りてもいいですか?」

「え? あ、うん。キャリーバッグの中にあるから適当に持ってっていいよ」

「はい。ありがとうございます」

 ガラス戸の動く音が聞こえてから少しして、ドライヤーのけたたましい音が浴室に鳴り響いた。

(もう、いちいち驚くのもバカバカしい……)

 更にしばらくして音のしなくなった脱衣所に目を向ける。

 既に彼女の姿はなくなっていた。


 風呂から上がり洗濯機を回してから居間へと向かう。

 座卓の上には既に昼食が支度が整っており、祖母の向かいに座るとそのまま食事が始まった。

「万里。さっきおばさんから電話があってね。買い物に連れてってくれるって言ってたんだけど、あんた何か食べたい物あるかね?」

「ん、特にな……くない。久しぶりにおばあちゃんの肉じゃが食べたいな」

「あら、万里はうれしいこと言うね。じゃあ今夜は肉じゃがにするでね」

「やった」

 不穏なイベントのあとだったこともあり、そんな祖母との平和なやり取りに心が癒やされた。

 俺は祖母の作ってくれた料理の中で肉じゃがが一番の好物だった。

 何故なら祖母の肉じゃがはその昔母が作ってくれたそれと同じ味だったから。


 食事を終えてから庭の隅に設置された物干し台に洗濯物を干していると、ちょっとした疑問に作業をする手が止まった。

(千尋ちゃんの服……おばあちゃんには見えるのかな?)

 これは意外と切実な問題なのではないだろうか。


『万里あんた、このセーラー服は?』

『あ、それ俺の』

『……草葉の陰でお母さんが泣いてるに……』


 普通に嫌な想像をしてしまった。

(千尋ちゃんの分は部屋干しにしておいたほうがいいだろうな)

 洗濯カゴから自分の服だけを取り出して干していくと、カゴの奥底から水色の小さな小さな塊が姿を現す。

 それは俺が先程彼女にあげたシーグラスだった。

 手に取り改めてよく見てみると、本当に海と同じ色に見える。

 もしかしたら元々は透明で、長い時間を海で過ごした結果こんなに綺麗なマリンブルーになったのではないか。

 三日前までの俺であればそんなことは考えもしなかっただろうが、この世界には自分の知らないことが満ち満ちていることを知ってしまった今となっては、そんなロマンチックな幻想も完全に否定することは出来なかった。

(あれ、もういっこ何か水色のものが)

 カゴの底のそれは海よりは淡い色で、どちらかといえば八月の空の色に似ていた。

 子供のこぶし大のそれを持ち上げて広げてみる。

(……)

 二等辺三角形のそれをカゴに戻すと、その上に彼女洗濯物を被せて家の中に戻った。


 両手でカゴを持ったまま階段を上り開けたままになっていた部屋の入り口から中へ入ると、果たしてそこには俺の制服のワイシャツを身に纏った彼女が枕だけ持ち出してお昼寝をしている最中だった。

 窓から優しく入ってくる風が、こちらを向いて横寝をしている彼女の細くて綺麗な髪の毛をサラサラと棚引かせている。

 その柔らかそうな毛先を目で追っていると、ふいに彼女が寝返りを打つ。

 その途端にシャツの裾がめくれ上がる。

 果たして下着を身に着けていない彼女の臀部が白昼のもとデデンと開示されたのだった。

「……いくら幽霊だからって、ちょっと無防備過ぎない?」

「むにゃむにゃ」

「ムニャムニャ?」

「……むにゃ」

 部屋の隅に畳んで置かれていたタオルケットを彼女の白くて小さな臀部にそっと掛ける。

 ほんの一時間前にそうだったように、俺の心臓は口から飛び出そうな程に鼓動を大きく、そして早くしていた。

(従妹の女の子に……いや。それ以前に幽霊を相手に、俺って……何なんだろう)

 そうはいっても、今のところ俺から見た彼女は生きた人間そのものだ。

 であればそういった気持ちになるのも致し方ないのではないだろうか?

 と、誰にするわけでもない言い訳を考えながら肩を落とす。

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