第29話

 私は伊吹が大好きで、小さい頃から伊吹と結ばれたいって願っていた。でも、私の幼い頃からの夢は、いつの間にか叶えてはいけないものになっていたのかもしれない。


「千乃?眠くなっちゃった?」

「ううん。そんなことないよ」


 揺れる電車内でボーッとしていたせいで、隣に座る伊吹が心配そうに顔を覗き込んでいた。折角の伊吹とのデートなのに音田に色々と吹き込まれたせいで、自分がどうするべきなのか迷ってしまっている。


 伊吹と一緒に居たい私の気持ちは、伊吹のお仕事を考えると邪魔になりかねないものなんだって理解してしまったから。それでも離れたくないって我儘な想いが溢れてしまって、結局何も言えずにいる。


「早くつかないかなー」

「そうだね。……あまり混んでないといいね」

「それは無理だよー。今日クリスマスイブだよ?」


 今日の予定としては、横浜まで電車で行き、赤いレンガの倉庫でクリスマスマーケットを見て回った後、伊吹の予約してくれたレストランで美味しいディナーを頂いてから、みなとみらいの有名なホテルに一泊するというものだった。話を聞いた時は私もテンションが上がって、お揃いのマグカップとか買おうねって話し合ったのに、今や不動のローテンション。シフトレバーを無くしてしまったマニュアル車のように、自分のギアが動かなくなってしまった。


 昨夜から迷って、迷い続けて、結局今に至るまでどうしたらいいのかの答えは見つからないまま。どうするべきかなんて分かりやしないけど、なにか行動しなきゃいけないのは理解している。


「ねぇ伊吹」

「なーに?」


 自分の行動を決める為にも、伊吹に一つだけ聞かなきゃいけないことがある。


「伊吹はさ、今のお仕事楽しい?」

「うん。すっごく楽しい。私の天職だと思うよ」

「そっか」


 今のお仕事が好きなのか。喜んで続けていられるものなのか。それを聞きたかった。


 私みたいにいやいや続けている仕事なら、職を失うリスクを負わせてでも、私を選んでくれって言えた。だって伊吹が無職になってしまっても、私が頑張って養ってあげられるから。でも、伊吹が今の仕事を好きで、誇りを持って続けているんなら話は別だ。伊吹のやりたいことを、私が邪魔する訳には行かないから。


「変なこと聞くね」

「そう?幼馴染がしてる仕事に興味持つのは結構普通のことだと思うけど」

「んー、それもそうかな?」


 嫌だけど。心底嫌だけど、私の行動指針は音田の思うようなものになったかもしれない。


 あくまでも幼馴染というポジションから伊吹を支えていき、今まで通りの存在であり続ける。それが1番無難で、伊吹の仕事に迷惑がかからないものなのだろう。


「はぁ……」

「やっぱりなんかあった?浮かない顔してるよ」

「な、なんでもないって…!」


 全く進展しない未来を想像して、思わず大きな溜息をついてしまった。そんなことをすれば当然、私に対してだけ心配性な伊吹は気にかけてくれる。ただ、心配の仕方があまりにも心に悪いものだった。


「そんな仰け反られるとショックなんだけど」

「い、いきなりおでこくっつけてくる方が悪いでしょ?!」


 俯いて瞬き一つして目を開けた瞬間伊吹の顔が目の前にあったのだ。別になんでもない人が相手でも驚くというのに、今しがた諦めようとしている最愛の人が眼前にドアップされたら誰だって仰け反るに決まっている。


「だって熱あるのかと思ったんだもん」

「普通に手でおでこ触ればいいじゃん…!」

「手袋してるから無理だよ?」


 そう言ってモコモコの手袋で私の両頬を挟んで、ニヤリと悪い笑みを浮かべた伊吹は、悪戯げに再び顔を近づけてくる。


「なんだか手袋越しにも千乃のほっぺが熱くなってきたような気がするなー」

「恥ずかしいんだって…。他の人の目もあるんだから離して」

「うーん。そう言われると離さない訳にはいかないかー。じゃあ、電車降りたらもう一回弄ってあげるね」

「やめなさい」


 至近距離に伊吹の顔があった時、ほんの少しだけでも私から近づいていれば、事故を装ってキスできたかもしれない。なんて、そんな事を考えてしまっている時点で、伊吹のことを諦めきれていないのかもしれない。


 幼馴染の先に進むのを諦めたくない。でも、諦めなきゃいけない。理性と欲望がせめぎ合っている中、勝利目前だった理性が、伊吹の気まぐれによって押し返されてしまった。


「電車ついたから降りようね」

「え、あ、うん」


 落ち込んで暗い顔をしたり、伊吹に弄ばれて赤面したりと心が忙しそうにしているけれど、時間通りに運行する日本の優秀な電車は、定刻通りに目的地に辿り着いた。刻一刻と伊吹からの結婚の申し込みまでの時が迫る。伊吹が行動を始めてしまったら、私は何があっても断らなきゃいけない。そうしなきゃ、あの伊吹が天職と言い切れる程向いている仕事を、奪いかねないのだから。


「楽しもうね!」

「…うん」


 天使のように微笑んで、私の手を引いて電車を降りる幼馴染の背を見つめながら、自分が恐らく今日取るであろう自らの意に反する行動を想像して、早くも泣きそうになってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る