第18話

「あースッキリした!今日は飲むわよ!伊吹も付き合って!」

「どうしたの?」


 時刻は18時半と普段ならまだ帰っていない時間。私はスーツを着たままコンビニで買い込んできたお酒をテーブルに並べていた。


「仕事辞めた!」

「え、それは私的には嬉しいけど、突然なんで?」


 プシュッと軽快な音を鳴らして缶を開けて、グラスに移すことなくそのまま勢いよく飲み込む。久々にイライラすることが重なって、こんな時は飲まなきゃやってられないのだ。


「伊吹も飲んで!ほらほら」

「はいはい。んで、なんで仕事辞めたの?」


 私と違ってお酒をいくら飲んでもケロッとしていられるくらい強い伊吹は、甘いお酒よりも日本酒が好きらしい。だからコンビニにあったよく分からない日本酒を瓶で何本か買ってきてみた。私はお子様舌だから苦いお酒は飲めない。ビールとかなにが美味しいのかサッパリだ。


「んーっとねー。まず、上司がうざい!」

「あー、なんか言ってたね。新しい上司がパワハラ気味だって」

「うむ。あれやれこれやれ言って自分ではなーんにもしないの。その癖いやらしい目で見てくるし、事故を装って触ろうとしてくるし。ほんと最悪!」


 訴えるのも大変だし辞める時に文句を言うだけに留めたけど、後任の人の事考えるとあのハゲをどうにかしてあげた方が良かっただろうか。


「でも千乃はそれだけじゃ辞めないでしょ?他になにかあった?」


 流石に長い付き合いだけあって、私の性格がよく分かっていらっしゃる。確かに私は自分が嫌がらせを受けたりする程度で何かを投げ出したりしたことはない。だからパワハラくらいだったらと文句を言いながらも続けていたのだ。しかし今日起きた出来事は、私の許容できるラインを超えていた。


「まず、社長が自分の息子とお見合いしないかって言ってきたの」

「は?」


 今朝の出来事を口にした途端伊吹からドスの効いた底冷えするような声が漏れた。


「なにそれ」

「うちの社長って確かもう60代後半よ?それの息子って言ったらもう30過ぎでしょ。その相手に自分の社員あてがおうとかありえないでしょ」


 社長の一人息子は一応同じ会社で働いていることもあり、何度か見かけたことはあった。私の記憶違いでなければだいぶ頭皮の方が残念な感じに侵食されていて、スーツもまともに着れないくらい栄養を身体に蓄えた立派なお身体をしていたはずだ。


 恐らくいつまでも相手を見つけない息子に痺れを切らした社長が、次期社長夫人の座をチラつかせれば簡単に靡くと思った女とくっつかせようとでも考えたのだろう。安く見られたものだ。


「それを速攻で断ったら社長の機嫌損ねたみたいで、関西支部に移動することになっちゃって。元々転勤とかないって説明されてたから入社したのに、偉い人怒らせたら飛ばされるとかありえないーってムカついて辞めてきちゃった」

「それは辞めて正解だね。辞めてなかったら危うく一人の人間の命が失われることになっていたよ」

「社長の暗殺でもするの?」

「単純に千乃のご飯食べれなくて私が餓死してた」


 辞めた理由は他にも色々とあったが、一番の理由は伊吹と離れ離れになることを私が許容できなかったからだ。伊吹を1人にしたら心配だって意味もあるけれど、本当のところはただ私が伊吹と一緒に居たかっただけ。


「伊吹と一緒に居られないなら生きてる意味ないしね。仕事とか、社長夫人とか、そういうの正直どうでもいいし。好きな人と離れ離れになるくらいならどんな会社でも辞めた方がマシだもん」

「………もう酔ってるでしょ」

「んーそうかな?ふわふわしてる気はするけど、そこまでじゃないと思うよ」

「もう……そういう不意打ちはずるいと思うんだけど」

「ん?」


 伊吹の顔がほんのりと赤くなっている。そこまで飲んでいないはずだけど、最近飲んでいなかったからお酒に弱くなっているのだろうか。


「お水飲む?顔赤いよ?」

「まだいらないかな。でも千乃は飲んだ方がいいと思う」

「そう?」


 少し心配だが本人が言うのなら大丈夫だろう。自分の分だけ冷蔵庫から水を入れて、伊吹の隣に座り直す。


「辞めたの後悔はしてないけど、就活は面倒くさいなぁ…。入社して2年しないくらいで辞めちゃったし、探すの大変そう」


 第二新卒だと就活は大変なのだろうか。正直職探しなんてやりたくないが、生きるためにも頑張らなきゃだ。


「働かなくていいじゃん」

「そうもいかないってば。ぷーたろーが生きていけるほど優しい世界じゃないんだよ」

「そうじゃなくて、その……千乃は私の専業主婦になってくれればいいじゃん…」

「もう…、また言ってる。私もそうしたいけどさぁ…」


 最近結婚してくれって言われなくなったから、もうそういう事は考えていないのだと思っていた。だけど私の袖を引きながら恥じらって誘ってくる伊吹は、以前よりもずっと真剣に言ってくれている気がして、危うく勘違いしそうになってしまう。


「分かってる。こんないきなり言うんじゃなくて、もっとちゃんとした時に言って欲しいんでしょ?」

「そういえばそう言ったわね」

「その、ちゃんと準備してるから。だからお仕事探さなくていいよ」

「…え?」


 伊吹の恥じらって俯いている表情なんて生まれてこの方初めて見た。聞き取りずらいほど小さな声で伊吹が口にした言葉は、私の勘違いを助長するには十分過ぎるほどの威力を持っていた。


「そろそろ千乃の誕生日でしょ?その日空けておいてね。一日デートしよ?」

「わ、わかりました」


 まだ火照った顔のまま真剣な眼差しで私を真っ直ぐに見つめながら、まるでプロポーズかのように誘われたせいで思わず敬語で返してしまった。


「あと、大丈夫だと思うけど、お見合いとかしちゃ駄目だよ。千乃は私と結婚するんだから」

「は、はい」


 やはり伊吹も酔っているのかもしれない。だってそうじゃなきゃ、こんな真面目に口説いてくるとかありえないはずだから。


 そして私は珍しく酔っていなかったらしい。もし酔っていたのなら、こんなにいじらしく私に迫ってくれた伊吹を我慢できずに押し倒してしまっていたはずだから。

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