第3話
「お邪魔しまーす」
伊吹の家に泊まった日から暫く間が空いた日曜日。私は合鍵を使って伊吹の家の扉を開いていた。
最後にお邪魔したのは三連休の最終日である月曜日。そこから今日まで5日ほど期間が空いてしまったが伊吹は大丈夫だったろうか。これまで2日以上間を空けずに伊吹家を訪れていたので少し心配だ。
「伊吹?生きてるー?」
リビングに明かりは無く、伊吹の自室にも人工的な明るさは見受けられない。出かけているのだろうか。人通りの多い日曜日に出かけるような子では無いのだが、仕事の都合などあるのかもしれない。
とりあえず料理でもして待っていようと思いキッチンの電気を付けた。広いリビングがキッチンの電球によって仄かに照らされる。先程まで真っ暗で見通しの悪かった視界が僅かながら照らされたことで、今まで気が付かなかった人影を見つけてしまった。
「ひぅ…!?だ、誰!」
「……ゆきの?」
驚きから思わず声を上げてしまえば、暗闇の中から掠れた声で名を呼ばれた。
「伊吹…?」
「千乃ー!!!」
掠れていても聞き慣れた声を聞き間違えるはずもない。伊吹に呼びかけると、闇の中から
「なになにどうしたの」
「やっときてくれたぁあ…捨てられたかと思った……」
私の腰あたりに抱きつきながら泣いてグズる伊吹はなんだか幼子のようで、1週間前のように熱に浮かされたような感覚にはならない。
「捨てられるってどうしたの。穏やかじゃないこと言って」
「だって……だってぇ………」
落ち着かせるように頭を撫でてやっても伊吹の機嫌はなおらない。普段不平不満をこんなにしっかり表現してくれない伊吹だけに、私も少しだけ不安になってくる。
「千乃今週ほとんどきてくれなかった」
「それは仕事が忙しかったのと、出かける予定があったって言ったよね?」
「言ったけどさぁ…。仕事は仕方ないと思うけど」
今週は少々予定が立て込んでいて忙しかったのだ。その旨は事細かに伊吹にメッセージを送っていたというのに、なぜ捨てられるなんて発想に至ったのだろうか。
「仕事は仕方なくても、合コンは違うじゃん!」
「えぇ…。それも事前に連絡したでしょ?人数合わせで呼ばれたから週末に参加してくるねって」
確かに合コンには参加したが、それはあくまで人数合わせの為に呼ばれたものだったし、伊吹に事前に報告して了承も貰っていたのだ。文句を言われる筋合いはない。そもそも付き合ってもいないのに、合コンに参加する報告なんてする理由もないのだが。
「どこの馬の骨とも知らないやつとご飯食べるのと、私の為にご飯作るのどっちが大事なの!」
「えぇ……。まぁそりゃ伊吹の方が大事だけど」
「だったら合コンなんて断って家きてくれたらよかったのに。千乃が来てくれないからお腹すいて死にそうだよ」
そこまで言われて伊吹がなんだか窶れているように見えた理由が分かった。この子私がこないから食事が用意されず食べ物にありつけなかったんだ。
「はぁ…。数日くらい自分でなんとかしなさいよ。もしも私が転勤とかしたらどうするつもりなの」
作り置きしておいたおかずの量を考えれば、伊吹が何も食べてないのはせいぜい1日か2日程度だ。それだけの期間でこれだけダメージを受けるのなら、万が一私が出張などで何日もここにこれなかったら伊吹は本当に死んでしまうのではないだろうか。
「千乃が転勤……離れ離れ…………世界の終わり…?」
伊吹もようやく自分の生活力が皆無であることに気がついてくれたのか、ぶつぶつと低い声で呟いている。
「千乃のご飯が食べられないとか、生きてる意味ある…?でも千乃が仕事の都合でどこかに行きなきゃいけなくなったりしたら……」
「ついでに言うと私が結婚した場合も同じだよ。結婚したらこんなに頻繁に伊吹のお家これないもん」
伊吹の胃袋を掴んでる自信はあるので、ここでちょっと意趣返しに意地悪をしてみる。結婚どころか彼氏もいない私だが、こう言っておくことで少しでも伊吹が私の事手離したくないって思ってくれたらなぁなんて。そんなの無理だってことは20年以上一緒に過ごしてきた私がいちばん分かっているんだけど。
「それは……駄目。絶対に駄目。千乃がいなかったら私生きていけない。お願い千乃、私の為に結婚はしないで!泊まりの出張を命じられたら仕事も辞めて!」
「そんな無茶な。出張の度に仕事辞めてたら私生きていけないわよ」
いちばん分かっているつもりだったのだが、伊吹は思ってたのと違う様子だ。普段声を荒らげたりしない伊吹が必死に私に縋りついて私を引き留めようとしてくる。
「千乃がご飯作ってくれなくなったら私死んじゃうよ。それでもいいの?」
確かに今の惨状を見る限り、私が離れたら伊吹は早々に倒れてしまうだろう。特段私が伊吹から離れる予定はないのだが、取り乱した伊吹をもう少し見たくて意地悪してしまう。
「でも私だって働かなきゃ生きていけないし、幸せになる為に結婚することもあるかもしれないじゃん。そうなったらどうするの」
「どうするのって………」
伊吹の目に再び涙が溜まっていく。泣かせるつもりはなかったので、流石に潮時だろう。まだ暫くは伊吹から離れたりはしないと口にしようとした時、何か閃いたような表情で伊吹は私の両肩をわし掴んだ。
「私天才かもしれない。全てまるく解決する方法思いついた」
「ど、どうしたの伊吹」
「千乃は私と結婚すればいいんだよ」
「………は?」
急に何を言い出すのかと思ったら、結婚だと?なんの思いつきかは知らないが、私が焦がれた先の未来をほんの思いつきで口にするなんて。
「なに、どういうこと」
「だって私と千乃が結婚したらさ、千乃はこの家で暮らすからずっと一緒だし、毎食千乃がご飯作ってくれるじゃん。仕事だって千乃が専業主婦になれば辞めて大丈夫だし、知らん男と結婚して千乃がどっかに行っちゃうこともない。あまりにも天才的な発想じゃない」
「天才的って……あのねぇ」
簡単に結婚なんて言ってくれてるが、恋愛経験皆無の伊吹には分からないのだろうか。結婚するうえで前提となる大切なことを。
「結婚するって、まずそもそも前提にある感情が伊吹にはないでしょ」
「なにそれ?」
「結婚するカップルってね、普通は互いのこと愛し合ってたりするのよ。友情とは違う愛情ってやつ。それがないのに結婚しても意味無いでしょ」
実際はそんなものなくても結婚している人はいるかもしれない。だが私には精神的なものが必要なのだ。ただ形だけ結ばれても虚しいだけ。
「ええー。いいじゃん。しようよ結婚ー」
「そんな簡単に言わないの!一生モノの話なんだから」
「いーいーでーしょー。好きだよ千乃?結婚しよ?」
「うっ……や、やめて!」
好きな女が耳元で結婚しようと迫ってくるとかどんなご褒美だ。ここで頷けば欲しかったものは手に入るように見えるが、結局はまやかしだ。形だけ家族にはなるかもしれないが、実際はただの住み込みの家政婦と化すだろう。それは絶対に嫌だ。
「千乃お願い。結婚しよ?」
「だ、駄目だってばぁ…」
絶対に嫌だから私は屈しない。絶対に。絶対だ。好みの声音で囁かれても屈してなんかやらない。
「千乃好きだよ」
「くぅ…」
負けそう…。
伊吹の口撃は私が夕食を作り上げるまで止まなかった。だがこの日はなんとか耐えきることができた。結局はこれも伊吹の思いつきだ。寝て起きたらまたいつも通りの伊吹に戻るだろう。多分…。
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