第6話

「千乃ー、ドライヤーしてー」


 お風呂上がりで火照った顔をした伊吹が無邪気に私の膝元に寄ってくる。あどけない可愛さだけでなく濡れた髪に赤らんだ頬と普段感じられない色気もあって、若干目眩がしてくる。


「はいはい。じゃあそこ座っ……」


 いつもの流れで髪を乾かしてやろうとしたところではたと止まる。伊吹の自立を促すと決めたばかりではないかと。


「千乃?」

「やっぱ駄目。自分で乾かして」

「……え?」


 私が断るとは思ってもみなかったのだろう。首を横に振ってみせると、目の前の整った顔には困惑と戸惑いの表情が浮かびあがる。


「なんで?」

「伊吹今年で24でしょ?いつまでも幼馴染に髪乾かしてもらうなんて変だよ。だからそれくらい自分でやりなさい」


 心を鬼にして伊吹を突き放す。そもそも私が来ない日は自分でその辺りはやっているはずなのだ。だからこれくらいならいきなり手を引いても、自分でやってくれるはず。


「むぅ…」

「………拗ねても無駄だから。早く乾かして」


 口を尖らせて不貞腐れる伊吹が可愛すぎて、思わず先程の言葉を覆してしまうところだった。長年の行動によって染み付いた尽くし癖のせいで、意識していないと伊吹に奉仕してしまいそうになる。


「…わかったよ。今日は自分でやる」

「今日はじゃなくて、これからずっと。伊吹には自立してもらうことに決めたから」

「なにそれ」


 つまらなそうにドライヤーをコンセントに差すために立ち上がった伊吹は、頭の上にはてなを浮かべて首を傾げる。


「もういい大人なんだから、これから伊吹には家事全般を覚えてもらいます。掃除洗濯に料理。全部覚えて、これからは毎日自分でやってもらいます」

「そんな」


 考えていたことを伊吹にちゃんと伝えた。今までなぁなぁで済ませてしまっていたことをちゃんと言葉にするのは大事だ。これで伊吹にも私の覚悟が伝わったことだろう。言ってやったという達成感と、言ってしまったという罪悪感からなんとなしにチラと伊吹の表情を盗み見るようにしてしまう。すると、そこには絶望した表情で大粒の涙をぽろぽろと零す想い人の姿があった。


「え、嘘!?なんで、泣くほど家事するの嫌なの!?」


 まさか自分で家事やれ発言で大泣きされるとは思わなかった。そもそも普段泣くことがほとんど無い伊吹だ。最後に大泣きしているところを見たのなんて、幼い頃に風邪を拗らせた私が死んでしまうと思い込んだ時以来だろうか。


 そんな伊吹が突然泣き出すものだから、私は大慌てでドライヤーを持ったまま嗚咽をもらす伊吹に駆け寄ることになる。


「泣かないでよ…。そんな、泣くほど家事やりたくないなんて思わないじゃん」

「……ちがう」

「え?」

「なんでいきなりこんな事言うの…?嫌になっちゃった?もう私と一緒に居たくないの?誰かと結婚するから?私が邪魔だから千乃は私から離れようとしてるの…?」


 伊吹の手からドライヤーが滑り落ちたのすら気づかないくらい、私は衝撃を受けた。伊吹が私から離れるのを恐れて泣いているのだ。私が伊吹を嫌ったと思い込んで、離れていこうとしてると勘違いして、この子は今傷ついているのだ。


「そんなわけない!私が伊吹のこと迷惑に思うわけないじゃん!私は……ただもう子供じゃないんだし、いつかの為に一通りのことは出来るようになってもらった方がいいかなって…それに、いつまでも私が伊吹のお世話するのもおかしな事だと思って……」

「なんでおかしいの?幼馴染でただの友達だから?」


 未だ泣き止まない伊吹をそっと抱きしめて、言い訳を募る。こんなに泣かせるくらいなら、もう少し順序を踏んでから自立を促せばよかった。十数年続いたことをいきなり辞めると言い出せば、不安に思うのも当然だったのかもしれない。


「うん。いつまでも友達に甘え続けるのは普通じゃないし、伊吹にとってもよくないことだから」

「じゃあ友達じゃなくていい。幼馴染も辞める」

「………え?」


 この発言に今度は私の時が止まった。伊吹と友達じゃ居られなくなる。幼馴染という今まで切れなかった縁が、私の不用意な発言で壊れようとしている。私が伊吹から離れる為に言った言葉だったが、こうもすぐに終わるなんて思ってもみなくて、目に熱いものが込み上げてきた。


「な、なんで」


なんでそんなこと言うのか。家事を伊吹がやるようになったって、友達ではいられると思っていた。幼馴染であることに変わりは無いから、恋人にはなれなくても、ずっと仲の良い親友ではあり続けられると信じていたのに。


「なんで…!」

「幼馴染じゃなくて、夫婦になる!千乃、結婚しよ?夫婦になったら、千乃が作ったご飯を毎日食べてもおかしくないよね?千乃が私と一緒に居ても普通だよね?」


 茫然自失としていて、真っ暗だった目の前がいきなり明るく照らされる。

 先程まで涙で頬を濡らしていた伊吹は、私の両頬を伝う悲しみを拭って、真っ直ぐにこちらを見つめてくる。


「え、で、でも、私達女同士だし」

「そんなの関係ないじゃん。同性婚が駄目だったのって昔の話だし。私、決めた。千乃が私と結婚したいって、逆に結婚してくださいって言ってくれるように、千乃を私に惚れさせるから!そうすれば私は千乃とずっと一緒にいられるし、千乃が誰かに取られる心配ないもん」


 そう言って本当に珍しく真っ白な歯を見せて惚れ惚れする程の笑みを浮かべた彼女は本当に美しく、まるで豪雨が晴れた後に現れる虹のようで、まだ若干雨の名残がある瞳はそれでもキラキラと眩しいほどに輝いていて、吸い込まれそうになるほどだった。


「千乃は覚悟しててよ。絶対に惚れさせるから」

「は、はい」


 思わず敬語で返してしまった。だって伊吹のこの言葉は的外れなのだから。私はとっくに、山神伊吹という女に、心の底から惚れているのだから。

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