第30話
「ねぇやっぱり体調悪いよね?大丈夫?」
一日の日程の殆どを終えて、今は伊吹が予約してくれたホテルで休んでいる最中。荷物を置いてベッドに倒れ込んだ私の傍らで、珍しく伊吹が怒っていた。
「なんで怒ってるの?」
「怒ってない」
そう言い放つ声色は固く冷たいもので、イライラしているのは歴然としている。
「怒ってるよね」
「怒ってないって!」
伊吹の荒らげた声なんて久方ぶりに聞いたけど、その矛先が私に向いているのは初めてかもしれない。綺麗な顔が怒りによって歪んでいる様は、見ていて気持ちの良いものでは無い。
「それより体調悪いんでしょ。おでこ貸して」
「…ん」
なんで機嫌が悪いのか、少し考えればその答えは簡単に見つかった。単純に今日一日の私の態度が最悪だったのだろう。この先のことを考えて、ずっと陰鬱な気分でいたから、それが伝わってしまって今こうなっているのだ。
「熱は……ないかな。でも上がる前かもしれないし、今日は早く寝ようね」
「体調悪くないよ」
「千乃が自分から体調悪いなんて言ったことないでしょ。いつも隠そうとするんだから。悪い癖だよ」
本当に体調は悪くないのだけど、不機嫌ながらも私の心配をしてくれる伊吹に心が温まっていく。
「買ってきた夜食食べれそうなのある?アイスとかなら大丈夫かな?」
ホテルの売店で伊吹がウキウキで買い漁った夜食用のお菓子を並べて、どれなら食べれそうかと吟味してくれている。今日一日を台無しにしてしまった罪悪感と、これからはこんな近しい距離に居たらいけないんだって絶望から、思わず熱いものが両目から零れ落ちてしまった。
「ど、どうしたの?辛い?苦しかったりする?」
「………違うの」
泣いていい立場じゃないのに。私が今日も今までも一方的に迷惑をかけてきたのに、溢れ出したものは止められなくて、より一層伊吹に心配をかけてしまう。伊吹の仕事を考えたら、本当なら今日のデートすら断らなきゃいけなかったのに、結局こうして夜まで一緒に居てしまった。これで伊吹が炎上してしまったら、私はどうやっても責任を取れないというのに。
「ごめん……ごめんね伊吹」
「どうしたの急に。何かあった?」
「本当にごめんなさいっ。今日のデート本当なら断らなきゃいけなかったのに…!……私のせいで伊吹がお仕事辞めなきゃいけなくなったら、私どうしたら…」
いい歳して恥ずかしいけど、もうとめどなく流れる涙は止まり気配すらなく、しゃくりあげて喉の奥が熱くて痛くて、口にした言葉が伊吹にまともに届いているかすら怪しい。それなのに堰を切ったように謝罪の言葉は溢れていく。
「ごめんなさい。ごめんなさい…!」
私のせいで伊吹が天職とまで口にした仕事に迷惑がかかったら、私のせいで伊吹が謂れのない誹謗中傷の被害に遭ったら。なにをしたって私じゃ解決してあげられないのに。
「落ち着いて。落ち着いて1個ずつ話そ?」
「…うん」
背中を優しくさすられて、近くに伊吹の体温を感じて、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻せた。
「まずは、なんで今日のデート断らなきゃいけないって思ったの?」
「それは……、少しだけ伊吹のお仕事について勉強したの。クリスマスに配信しないで炎上したことある人がいるって…」
「誰そんなこと千乃に吹き込んだやつ」
涙を拭ってくれる伊吹の手が震えている気がする。やっぱり、お仕事に迷惑をかけているのを分かっていて今日のデートを断らなかったから怒っているのかもしれない。
「それにね、その、ぶいちゅーばーって恋人とかの面影があるのすらよくないって」
「…その辺の知識を千乃に植え込んだの、誰?」
「っ…!」
落ち着きもだいぶ取り戻せたおかげで、涙であやふやだった視界が正常に景色を捉えられるようになった。そのせいで、息遣いが感じられるほどに近かった伊吹の顔を直視してしまった。いつもの気だるげにした眠そうな表情ではなく、苛立ちを抑えながら真剣にこちらを見つめる姿に、そんな場合では無いのに思わずときめいてしまう。
「音田が言ってたの。でも、音田の話を鵜呑みにしたんじゃなくて、自分でも色々と調べてみたというか…」
「はぁ………また音田か。共演NGにした腹いせで千乃を虐めやがったな」
なんでもいいけど、息の当たる距離で喋らないで欲しい。私の理性がガリガリ削れていってるから。
「あのね、千乃。ちゃんと説明するね?」
「分かった、分かったから、一旦離れて」
説明すると言いながら色っぽい手つきで頬を撫でないで欲しい。何を言われても頭に入ってこなくなるから。
「ごめんごめん。まずね、音田の言ってたことは全部無視でいいから。なにも信じなくていいよ」
「音田のことは信じてないよ?でも、調べてみた感じ、今回のは本当だったぽくて」
「アイドル売りしてる人はそうかもしれないけど、私は違うから。それに配信で今日休む理由ちゃんと説明してあるし、相手が千乃だってのも言ってあるから何の心配もいらないの」
「なんで相手が私だと心配いらないの?」
伊吹が配信で私の話をたまーにしているとは聞いていたけど、なんで相手が私だからって安心だってことになるのだろう。
「それは千乃が私のファン公認の嫁になってるからだよ」
「………ん?」
「だからね、私は千乃が相手ならなにしてても炎上とかしないから。そんな心配しなくていいんだよ」
「ちょっと待って。公認の嫁ってなに…?」
伊吹が配信で私の話をする時は、幼馴染の同居人がいる程度のものだと思ってたのに、ファン公認の嫁として扱われてるっていったい。
「そのままの意味だけど。ファン公認だし、事務所の自己紹介ページにも、嫁(幼なじみ)がいるって書いてあるし」
「そんなこと聞いてないんだけど!?」
「言ってなかったっけ?」
聞いているわけがない。だってそんなこと知っていたら、クリスマスにデートしただけで伊吹が炎上するんじゃないかとか心配しなくて済んだ。事前に知っていたら、安心して一日のデートを楽しめたのに。
「もうっ。無駄に不安になっちゃったじゃない。そういうのは先に教えておいてよ」
「ごめんって。それより、勝手に公認で嫁にしてることは怒らないんだ?」
「そりゃ少し驚きはするけど、別に伊吹のお嫁さん扱いとか嫌じゃないし。むしろ、嬉しいし……」
知らないところで伊吹と夫婦みたいに扱われてるいることは驚いたけど、元々通い妻していたし。実質夫婦みたいな生活していた気もするし。今更そんなこと嫌がることもないだろう。
「そ、そっか。嫌じゃないのか」
「なに、私が嫌がると思ったの?」
「だって、結婚してってお願いした時は断られたし。私とそういう関係にはなりたくないんだって思ってたから」
「あの時だって、なんか適当に結婚しようって言われたのが嫌だって話したでしょ。ちゃんとしてくれたら断らないって」
元々は家政婦扱いが嫌で断って、でも伊吹と居られるなら別にいいかなーって思い直して今に至っている。もう一度結婚してなんて言われたら、それこそ公認じゃなくて公式の嫁になってもいいとさえ思えているのだ。
「ふ、ふーん。じゃ、じゃあさ」
「うん?」
先程までの真剣さとは打って変わって、そわそわと定まらない視線をあちらこちらに飛ばしながら、何かを私の掌に握り込ませてきた。
「なにこれ」
「あのさ、その、千乃がよかったらなんだけど……………け、結婚を前提に付き合ってください!」
「……え?」
手の上に置かれた四角い小さな箱を開くと、中には銀色の輝きが美しい比較的シンプルなリングが入っていた。
「駄目…かな?」
今日結婚してくれと言われるんじゃないかって身構えてはいた。伊吹には私に対する恋愛感情はないけど、胃袋を掴んだおかげで離し難い存在にはなれたんじゃないかって自負もあった。でも、まさか結婚じゃなくて恋人になってくれなんて言われるなんて思ってもみなくて、衝撃で狼狽えることしかできなくて。
「は、はい」
目を白黒させながら、頷くことしか出来なかった。
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