第8話

「君はそんなこともできんのかね!」

「ッ…!」


 突然発せられた父親ぐらいの年齢の人からの罵声に思わず身震いしてしまう。


「も、申し訳ありません」

「謝罪なんてのは誰でも出来るんだよ。君は給料を貰ってる社会人なのだから結果を出さなければだね」


 目の前の課長バーコードハゲからのグチグチとした説教は続く。不協和音を右から左に聞き流しながら、私が脳裏に浮かべるのは最愛の幼馴染のこと。早く帰って伊吹に癒されたい。


「聞いとんのかね君は!」

「はい」


 はい聞いておりません。


「全く最近の若者ってやつはどうにも不抜けていていかん」


 うるさいハゲ。そもそもまともな引き継ぎもなしで他部署から移動させられた人間に1週間やそこらで元いた人間と同じ働きを求めるんじゃない。


「今日はこの分が終わるまでは帰るんじゃないぞ!」

「えぇ…。またですか?」

「またとはなんだまたとは!貴様の作業が遅いんだから、遅れた分残業して取り戻すのが当然だろうが!」


 私は1週間前にこのハゲが偉そうに羽振りを利かす部署に飛ばされた。元々いた場所はホワイトな職場で、罵声が飛び交うことなんてのはなかったし、残業だって殆どなかった。それなのに、このハゲのパワハラセクハラモラハラ等のハラスメント地獄に耐えれなくなった前任者が突然会社を辞めてしまい、その穴埋めとして私が抜擢されてしまったのだ。


 突如退職した人が引き継ぎ資料なんぞ丁寧に作成しているはずもなく、殆ど別事業のような職場に知識ゼロの状態で放り込まれたのだ。


 仕事なのだからこういうこともあるかもしれないと諦めて移動を受け入れてみたら、突如始まる残業地獄。おかげさまで伊吹の家に行ってもご飯を作るだけで力尽きてしまい、まともに会話が出来ていない。私の唯一の生き甲斐である伊吹を取り上げられたら、なんの為に働いているのかよく分からなくなる。


「私は帰るが、いいか必ず今日中にその資料を完成させておけよ」

「分かりました」


 どうせ言い返したって無駄なのだと諦めて自分のデスクに戻る。


「はぁぁぁあー」


 誰もいなくなったオフィスならでっかい溜息を吐いても誰にも迷惑はかからない。


「帰りたい…伊吹に癒されたい……」


 昨日伊吹の家に行ったし、今日は行くつもりはなかった。だけど高頻度で伊吹に合わなければストレスが溜まりすぎて近いうちにハゲをぶん殴ってしまいそうだ。


「よし、これ終わったら伊吹の家行こ」


 全速力で書類を作り急いで会社を出たものの、結局伊吹のお家に着いたのは日が変わる頃になってしまった。




「伊吹……はもう寝ちゃったかな」


 夜型といえど時刻は0時半。既に寝ていたりするかもしれない。そう思ってインターホンは鳴らさずに玄関の扉を合鍵で開けると、伊吹の仕事部屋から明かりが漏れていた。


 伊吹の仕事はよく分からないけど、ご立派なPCが置いてある部屋はあまり入らないでくれと言われている場所だ。でも私は今一刻も早く癒されたいと思っていたから、こっそりと忍び寄って扉を開けて、普段の私なら絶対にしないようなことをしてしまった。


「わっ!!」

「ひぅ!?!」


 扉を開けて少し大きな声を出してで驚かしてみた。私の家だったらこんな時間に大声出せないけど、伊吹の家は高い家賃を払ってるだけあって防音もしっかりしている。今こんな声出しても大丈夫なはずだ。


「な、なに!?」

「あはは、きちゃった」


 思った以上に伊吹がいい反応してくれた。驚いて目を白黒させている伊吹なんていつぶりに見ただろうか。


「こんな夜遅くにごめんね。ちょっと会いたくなっちゃって」

「え、あ、いや。別に時間は気にしなくていいんたけど、ちょっと黙っててもらってもいい?」

「なんで?」

「黙って。いいから、ゆ…じゃなくてあんたは一旦部屋の外にいて」

「…え?」

「早く。出てって」


 追い出されるようにして部屋の外に出る私。焦った様子の伊吹は私が外に出たことを確認した後扉を閉めて部屋の中に戻ってしまう。


「うそ」


 真っ暗な廊下で立ち尽くして、信じられない現状に言葉が洩れた。


 私から伊吹に甘えるような行動はあまりした事がない。でも、たまに甘えてみた時は伊吹が拒否したことなんてなくて、私の苦しみを癒してくれた。20年以上一緒に居て、こんな対応を取られたのは初めてだった。ましてや私のことを名前ではなく「あんた」なんて呼ばれたことなんて、今までの人生で1度たりともなかった。


 なにか嫌がることをしてしまったのだろうか。普通に考えて深夜に友人宅を突然訪れるなんて常識外れもいいところだが、そこは私と伊吹の仲だし大丈夫だと信じ込んでいた。だが親しき仲にも礼儀ありなんて言葉があるように、この時間に押しかけたのはやりすぎだったのだろう。


「……ごめんね。私帰るね」


 こんなこと小声で言っても部屋の中の伊吹には届かない。でも面と向かって話す勇気はない。もしもまた伊吹に突き放されたりしたら今度こそ泣いてしまう。


 嫌われただろうか。普段のほほんとしていて誰かと争うようなことをしたことがない伊吹が、私に対してあんな冷たい態度を取ったのだ。それは私のしたことが相当気に入らなかったということなのだろう。


「もう終わった、かも」


 友人関係なんて些細なことで繋がりが切れたりするものだ。仲良かった高校の頃の友人だって、ちょっとした言い合いになって仲が微妙に拗れて連絡が途絶えたことがある。私と伊吹には幼馴染という肩書きがあるとしても、それは親同士が仲良かったから自然と生まれた関係性。私達が選んで作り上げたものじゃない。だから所詮友人同士の希薄な繋がりと同じでいつちぎれるかも分からないもの。


 深夜の住宅街は誰も居なくて、泣いても誰かに見られたりはしない。でも悲しいはずなのに不思議と涙は出てこず、それよりも伊吹に拒絶された衝撃で放心状態になりながら、家までの道程を亀のように歩いた。

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