第20話
いーいないいなー。にーとっていいなー。
脳内で成人女性としてかなり終わっている替え歌が再生された。もうすぐ24になるってのに仕事を辞めてニート生活を謳歌しているとか、天国の婆ちゃんに知れたら草葉の陰で大号泣してしまうだろう。
でも実際ニート生活最高としか言いようがない状況だったのだから仕方ない。
仕事のストレスから解放されて、普段やるのは伊吹の為の家事だけ。あとは自分の趣味に費やせるし、基本家から出ない伊吹とずっと一緒にいられる。まさに天国としかいいようがない生活だ。こんなの知ったら自宅警備員から退職することができなくなってしまう。
働かなきゃとは思ったりもするが、伊吹から職探しは止められているし。私は伊吹と結婚して専業主婦になるらしいから、今から仕事探してもきっと意味ないし。
「ふふふ。専業主婦…。私が、伊吹のお嫁さんになるんだ……。えへへ」
まだプロポーズされた訳でもないのに、だらしなく頬が緩んで人に見せられない表情になるのが止められない。
私の知らない間に伊吹の中での恋愛観が育ってくれたのか、以前のように適当な感じではなかった。私の誕生日に予定を空けておいてくれと言ってきた時の伊吹の表情は真剣そのもので、チョロい私は改めて惚れ直したのだった。
デートって言われたし、結婚するんだからお見合いとかするなよ発言も頂いたわけだから、私の誕生日にするのはきっとプロポーズだろう。今まで精神力を振り絞って伊吹からの結婚の誘いを断わってきた私だけど、きっと改まって告白されたら断れない。いや、断るわけが無い。
今まで断ってきたのは、家のことをしてくれる人が欲しいから的な軽い感じで言われていたのが嫌だっただけで、長年片思いをしている身分では高望みしすぎな状態だったのだ。惚れ込んだ相手になら仮に家政婦扱いだったとしても、籍を入れてくれるというなら喜んで従いたくなる。そんなチョロい女になりたくなくて拒絶してきたけど、なんだか伊吹も真面目に考えてくれてるっぽいし、もういい加減私も我慢できないし。 受け入れてもいいだろうと観念した。
そもそも最近の伊吹は可愛すぎるのだ。本人の中でなにか心境の変化があったのか、私が触るとすぐに照れるようになったし、伊吹からのスキンシップもかなり増えた。
元々私達はずっと一緒にはいたけど、あまりベタベタくっついたりしない間柄だった。私は触りすぎると我慢できなくなりそうで怖かったのもあるし、伊吹は人肌とか興味なさそうだったから。それなのに最近は隙あらば私の隣にピッタリくっついて座るし、夜寝る時に私のベッドに潜り込んできたりするし。甘えん坊な猫を飼ってる気分になる。
今は伊吹がお仕事中で一緒にはいないけど、帰ってきたら多分片時も離れてくれなくなるだろう。
ピンポーン
数時間後には訪れる伊吹との甘々な時間を夢想していると、珍しくインターホンが鳴った。互いに鍵を持って家を出ているし、特段なにか荷物を頼んでいた覚えもない。もしかして伊吹が鍵を忘れていったのだろうか。
「はーい。鍵忘れたのー?」
玄関の鍵を解錠して、開いた扉の先には見知らぬ長身の美人さんが立っていた。
「……どちら様?」
ヒールを履いているから分かりずらいけど、恐らく身長は170を超えていそう。それでいてこちらを睨むようにつり上がった目は高圧的で、睨み顔なのに綺麗な顔立ちと分かる。こんな人1度会ったら忘れなさそうだけど、伊吹の知り合いだろうか。
「そのセリフは私のなんだけど。貴方こそ誰よ。ここいぶちゃんのお家でしょ?」
「はぁ、そうですけど」
いぶちゃんってことは、恐らく伊吹の知り合いだろう。でも今日来客の予定があることは聞いていない。だけど伊吹のことだし、忘れていたとか普通に有り得るからなぁ。
「どいてくれる?いぶちゃんに用があってきたんだけど」
「今伊吹はお仕事で外出てますけど、それでもよかったら上がっていきますか?」
「……そうするわ」
誰かよく分からないけど、伊吹の知り合いなら邪険に扱う訳にもいかない。私が知らない伊吹の知人ということは十中八九仕事関係の人だろうし。
「珈琲と紅茶ならどちらが好みですか?」
「珈琲で。砂糖もミルクもいらないわ」
「はーい」
突然の来客でもてなせる様なものは何も無いけど、とりあえず飲み物だけでも用意しようとキッチンに立つ。
「ねぇ。貴方はいぶちゃんのなんなの?」
「えーっと、幼馴染で今はまだ同居人って感じですかね」
「………前に来た時は居なかったのに。いつから住み着いたのよ泥棒猫め」
「なにか言いましたか?」
「何でもないわよ」
珈琲を入れてる途中だったから、ボソッとなにか言われてもよく聞こえなかった。聞き返してもはぐらかされてしまったし、あまり良くは思われて無さそうだ。
「ところで、お姉さんは伊吹のお知り合いですよね?」
「ええそうよ。私は
「そうなんですね」
「それだけじゃないわよ。私は半年前から、いぶちゃんと恋人としてお付き合いさせてもらってます」
音田さんの発言に時が止まった……りはしなかった。
「なんの冗談ですか?」
「は?」
「嘘ですよね。付き合ってるとか」
「嘘じゃないわよ。貴方が知らないだけで今まで何度もデートしてきたし、私の家にお泊まりだってしてきたもの」
音田さんは捲し立てるように嘘を並べている。他の人になら通じたかもしれないはったりだけど、私にだけは通じない。
「あのですね。音田さんは知らないかもしれないですけど、もう何年も前から私は伊吹の食事管理してるんです。365日毎日の食事を私が用意してるんですから、伊吹が外泊したりして食べてなかったら気が付きますし、そんなこと今まで1度たりともなかったので、貴方の言葉が嘘だってことは簡単に分かりますからね」
厳密には1度だけ用意できなかった日があったが、あの日伊吹はなにも食べていなかったようだし、他の日はちゃんと作り置きのご飯を食べていた。だから伊吹が私の知らないところで外泊していたなどと言う事実はありえないのだ。
「なっ……」
「どうしてそんなくだらない嘘ついたのか知りませんけど、そもそも伊吹は」
「ただいまー。なにしてんの?」
話の途中でリビングの扉が開いたと思ったら、タイミング悪く伊吹が帰ってきてしまった。
「伊吹」
「いぶちゃん!」
とりあえずコートと鞄を伊吹から受け取ろうと近寄ったら、私より早く音田さんが伊吹に飛びついた。
「なんで佳衣がいんの?」
「会いに来ちゃった。最近いぶちゃんとお話出来てなかったし、寂しくなっちゃって」
伊吹に抱きつきながら猫なで声で話す音田は、先程までの私に対する態度が嘘かのようで、正直気持ち悪い。
「暑いから離れて」
「やーだー。折角いぶちゃんに会えたんだし、もう少しこうしてたいー」
伊吹が離れるように言ったのに、音田は先程までより強い力で伊吹にくっついて、一切離れようとしない。2人がどんな仲なのかはよく分からないが、私の伊吹に対して馴れ馴れしすぎやしないだろうか。
「あの、伊吹も嫌がってますよね。離れてもらっていいですか?」
「えー。いぶちゃん嫌なの?会った時に抱きしめるのなんていつものことだよね?」
「まぁそうだけど」
「は?」
音田の言葉では何一つ私にダメージはこなかったが、伊吹の口から音田の発言が肯定されたことには耐え難い程の衝撃を受けた。
「千乃と佳衣は知り合いだったの?」
伊吹の言葉も耳に入らない。だって、白昼堂々浮気宣言をされたのだ。
「ね、ねぇ…、普段から抱き合う仲ってなに?」
震える声で伊吹に問いかければ、口を開いたのは忌々しい音田だった。
「そりゃあ言葉通りの意味よ。私といぶちゃんは会ったらいつもこうしてくっついてるの。身長差丁度よくて後ろから抱き締めれば、いぶちゃんも気持ちよさそうにして。ね?」
「本当なの?伊吹…」
嘘だって否定して欲しい。伊吹は私とすら最近になってようやくスキンシップが増えてきたばかりなのに、こんな距離感バグってる女が身近にいたなんて、信じたくない。だけど、今伊吹が無理やり引き剥がさないのが何よりの証拠なのかもしれない。
「まぁあながち間違ってないかも。スタジオとかで会った時はいつも佳衣飛んでくるもんね」
「そう……」
抱きしめ合うくらい女同士なら普通の距離感。私だって高校生の時に友達に飛びつかれたりした経験はある。だけど、パーソナルスペースの広い伊吹にこんなこと許されてる女がいるという事実は、私の心に重くのしかかった。
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