第35話

「千乃ーお腹減ったー」

「はいはい。今作ってるから、もうちょっと待ってね」


 時刻は夕方17時。そろそろ夕食の支度を始めようと思ってキッチンに立つと、ソファの上で寝転がりながら漫画を読んでいたらしい伊吹が、食事の催促をしてきた。今日のお昼はちょっと早めだったからそろそろ食事を強請ってくるころだとは思っていたが、ドンピシャすぎて少しだけ笑ってしまいそうになる。


「今日のご飯なに?」

「簡単にお鍋にしようかな。今日寒いし、伊吹もお鍋好きでしょ?」

「うん!大好き!」


 ご飯の話となると途端にテンションが上がる我が恋人様は、鍋の中身が気になるのかソファから跳ね起きてキッチンまでとてとてと歩いてこられた。


「わっ!魚が沢山ある!」

「ふふっ。魚介好きだもんね。鰤と鱈が安かったから多めに買っちゃった」

「最高だよ千乃!」


 食べられるものならなんでも美味しそうに食べてくれる伊吹だけど、中でも魚介類は特に好物らしくて、たまにこうして海の幸がメインになるものを作ってあげると大喜びするのだ。


「これはなーに?」


 鍋が煮えるのを今か今かと待ちわびている伊吹の視線がある一点で止まった。今までも冬になるとこうして鍋を作ることは多々あったが、実は今回は今まで扱ったことのない食材が一つだけ入っていて、それを目敏く見つけ出したらしい。


「それはね、鮟鱇あんこうだよ。スーパーで売られてるのたまたま見つけちゃって、興味本位で買ってみたの」

「へー、鮟鱇って私食べたことないや」


 私が鮟鱇を食べたことがなかったから、伊吹も食べたことないだろうと思って買ってみて正解だった。伊吹は基本的に食わず嫌いをしないから、初見の食材に挑戦してみても文句を言われないのがとてもありがたい。好き嫌いもないから栄養に偏りとかも出ないし、台所を預かっている身としては、料理を振る舞う相手としてこれ以上はないだろう。


「あとはテーブルで仕上げよっか」

「そうしよそうしよ!」


 お行儀が悪いかもしれないが、私達は昔から冬の時期のご飯は炬燵で食べることになっている。暖房があまり好きじゃないらしい伊吹の為に冬の間はエアコンが稼働していないから、リビングのテーブルを使わずに炬燵で食事をしている。


「鱈は煮込んじゃったけど、鰤は自分でしゃぶしゃぶしてね。お刺身でも食べられるやつだから、そこまでしっかり火を通さなくても大丈夫だから」

「はーい。いただきます!」


 野菜を含めた諸々の食材を取り皿に取ったものを伊吹に手渡すと、きらきらとしたエフェクトが見えそうな程笑顔になった伊吹が本当に美味しそうに食べてくれる。


 何も無い時は眠そうな表情をしているのに、こうして食事をしている時だけは小さな子供みたいにはしゃいでくれるから、ついつい甘やかしたくなってしまうのだ。


「これが鮟鱇らしいよ。食べてみる?」

「食べたい!」


 煮込む前に骨を全て取っておいたから、安心して伊吹に食べさせることが出来る。雛鳥みたいに可愛らしく口を開けて待っている伊吹の口内に、息をふきかけて少しだけ冷ました鮟鱇の身を入れてあげる。


「あーん。どう、美味しい?」

「んー!すっごくぷるぷるしてる」


 初めて扱う食材だっただけに、どんなものなのか分からず少しだけ心配ではあったけど、杞憂であったらしい。


「千乃にも食べさせてあげる!あーん」

「あ、あーん。……ん、確かに美味しいかも」


 私からする分にはいいのだけど、伊吹から食べさせて貰うとなるとまだ少しだけ照れてしまう。恋人関係になってからまだほんの数日だけしか経っていないけれど、こうした些細な出来事で伊吹と私が付き合っているんだって実感出来る。以前までなら私が伊吹に食べさせることはあっても、伊吹から逆にあーんされたりなんてしたことはなかった。


 私が恥ずかしがるだろうからって伊吹は遠慮していたらしいけど、恋人となった今そんな遠慮はしなくなったらしく、むしろこうしたアプローチで私が照れているのを楽しんでいる節があるのが今の伊吹だ。


「美味しいね」

「そ、そうね」


 まだまだ甘い雰囲気に慣れていないのもあって、すぐに緊張してしまって味が分からなくなってしまうけれど、伊吹と私の味覚は殆ど一緒のはずなので今食べたものも伊吹が美味しいと言うのならそうなのだろう。


「ところで千乃さん」

「どうしたの?」


 大量にあった鍋の具材がどんどん伊吹の口に吸い込まれていく様を眺めていたら、途中で箸を止めた伊吹がふと改まった様子でこちらに向き直った。


「ひとつ提案があるんだけど」

「…なに?」


 真面目な表情で指を一本立てた伊吹の目は真剣そのもので、だからこそ不安が募る。だって伊吹が真面目な話をする時は、大抵が突拍子のない内容で、その殆どが私にとって面倒臭いことか、あるいは私にとって精神的に難易度の高い内容だからだ。


「寝る時なんだけどさ、今まで別々だったけど、これからはずっと一緒でもいい?」

「………なんで?」

「なんでって、恋人なんだからそっちの方が自然じゃん。付き合ってるのに寝る時別々のベッドとか寂しいし。嫌なの?」

「嫌じゃないけどさ……。変なことしない…?」


 今までは基本的には別々のベッドで眠っていたけれど、それが伊吹的には不満らしい。


「変なことしないって約束してくれるなら一緒でもいいよ」


 私には伊吹と同じベッドで眠るというのは些かハードルが高いと言える。なぜなら私は長年片思いを拗らせてきた身であり、その片思いが成就したばかりの今同じベッドで身を寄せあったりしたら数え切れないほどしてきた妄想が爆発してしまうからだ。それになにより、悪戯っ子な一面もある伊吹と一緒に寝たりしたら、また伊吹の手によって気絶するまで攻められる気がする。


「えー。変なことはするに決まってるじゃん」

「ほらやっぱり。ならダメですー」

「いいじゃん少しくらい」

「駄目だって。私は普通に寝たいの。脳を強制シャットダウンされたりしたら疲れ取れないもん」

「それは千乃が慣れれば大丈夫じゃん」

「そんなすぐに慣れたら苦労してないわよ…」


 自分のことながらビックリではあるが、私は伊吹から与えられる刺激にとことん弱いらしい。つい先日ちょっとディープなキスをしただけで脳が沸騰してしまったし、なんならもうだいぶ前のことにはなるけど、伊吹に思いっきり抱きしめられただけで意識を飛ばしたことすらあるのだ。


「仕方ないから無理やり慣らしていくしかないね」

「何言って…ちょっとまっ…!」


 炬燵から出て立ち上がった伊吹がおもむろに近づいてきて、すっと手を伸ばして私の頭を抱きしめてきた。


「ほーらよしよしー。イチャイチャするの苦手みたいだけど、私はもっとしたいから早く慣れてねー」


 伊吹の胸の谷間に顔を埋めて、いつも以上に近い距離から愛しい人の声が聞こえてくる。突然の供給過多にスリープモードに移行しそうになるけど、ギリギリで耐えることに成功した。もうすぐに気絶するようなやわな私では無いのだ。ただ抱きしめられたくらいで一々気絶していたら勿体ない。


 折角の恋人とのスキンシップなら、もっと楽しまなきゃ損だろう。


「別に、これくらい大丈夫だもん」

「おっ、意外と耐えれるじゃん。じゃあもっとさせてねー」

「なにを…んっ……」


 抱き枕になるくらい慣れたものだけど、調子に乗った伊吹はただ抱き締めるだけじゃなくて、あろうことか無防備だった私の耳を指で弄りだしたのだ。


「千乃の耳はちっちゃくて可愛いねー」

「こらぁ……私が耳弱いの知ってる癖に…っ…!」


 耳朶をなぞるように優しく触られて、逃げ出したくもしっかりと抱き締められているからそれも叶わない。


「どんどん赤くなっちゃってほんと可愛い。もうちょっとだけ頑張ってね」

「やらぁ…もうむりぃ……」


 私が昔から拗らせてきた妄想では、私が伊吹を攻めているはずだったのに、現実は伊吹に良いようにやられっぱなし。思ってたのと全然違う状態のはずなのに、こうしていいように弄ばれるのが嫌じゃないのは、先に惚れた弱みってやつなのかもしれない。

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