第11話

「ちょ、ちょっと伊吹…。顔怖いよ」

「うるさい」


 私の両肩を掴んだまま、こちらを睨みつけるようにしている伊吹の表情はこれまで見たことがないほど険しい。


「ねぇいぶ…痛っ…なにするの」

「……イライラする」


 もう一度呼びかけようとして、肩を押されて硬い床に押し付けられる。そのまま私に馬乗りになった伊吹は髪をかきあげて機嫌悪そうに口を開く。


「千乃がそういう店で、知らん人相手にしてるの想像するだけで無性にイライラする」

「いぶき…」

「あぁ……もうっ!」


 ぽつと伊吹を見上げる私の頬に水滴が落ちてくる。一度では治まらず、ぽろぽろと零れ落ちてくる雫は私の心を熱くしていく。


「意味わからない……なんで想像しただけでこんなに苦しいの…」


 辛そうに顔を歪めて涙を流す姿は痛々しくもあるが、最低な私は伊吹の震える声が耳を打つ度に幸せを感じてしまっていた。


 だってこれは。私が他人と情事に及ぶことを想像するだけで苦しんでいるのは、それだけ伊吹が私に対して独占欲を抱いて、存在もしない架空の人物に嫉妬してくれているからに違いないのだから。


 伊吹の中にそんな感情があるなんて思いもしなかった。だが伊吹の心に私という存在が与える影響が想像より大きいことは、頬を伝う涙を見れば想像にかたくない。


 伊吹が私を大切な存在と思っていてくれるからこんな反応をしてくれるのだと、そう考えれば私の心は満たされていく。例えそれが家族愛のようなものでしかなかったとしても、好きな人にここまで大事にされているのなら、もはやそれでもいいとさえ思えてくる。


「ごめんね伊吹。何かあっても、ちゃんと今の仕事で頑張るよ。だから泣かないで」

「……泣いてないもん」


 赤子のようにぐずっている癖に泣いてないは無理がある。だけどそんなことは口に出さず、代わりに腕を引いて小さな頭を私の胸元に引き寄せた。


「ありがとね。怒ってくれて」

「怒られて喜ぶとかマゾなの」

「そんなわけないでしょ。………もっとちゃんと考えてから話せばよかった」

「うん」

「ごめんね」

「…今回だけ許してあげる」


 生まれた時からずっと一緒に居て、私達はもはや家族のような関係性なのだ。伊吹にとって私は世話焼きな姉といったところか。そんな人が突然身売りをしようとしたから、伊吹は泣いて怒ってくれている。心根の優しい伊吹だからこそ、色々想像して感情がぐちゃぐちゃになってしまったのだろう。


 温もりを感じる腕に力を込めて、お互いに落ち着くまで私はずっと伊吹を抱きしめ続けた。













「───ってのが私のしてる仕事。だから、本名呼ばれたらまずいと思って追い出しちゃったの」

「ほーう。ちょっと難しかったけど、なんとなく分かったよ」


 互いに落ち着きを取り戻した私達はソファに並んで座って、伊吹のスマホで動画を見ていた。口で言うより見せた方が早いと、伊吹が自分がどんな仕事をしているのか、見せてくれたのだ。


 暇つぶしに動画をちょろっと見ている程度の私では詳しくは分からなかったけど、伊吹の仕事はなんとなく把握した。だからこそ私がやらかしたことがかなり不味いことということも自ずと分かってしまう。


「大丈夫だって。千乃のことは私昔から話してたから、ファンのみんなも千乃なら受け入れてくれる。なんなら配信出てみる?」

「それは無理!」


 迷惑をかけた謝罪をしたい気もするが、先程見せてもらった動画は凄い視聴回数だった。同時に何人の人が見ているのかはよく分からないが、それでも大勢いることは想像がつく。そんな沢山の人の前で喋るとか、人見知り気味の私にはできっこない。


「出てくれたらみんな喜ぶと思うんだけど」

「無理だよー。伊吹だって私があがり症なの知ってるでしょ」

「知ってるけど、見てる分には面白いから」

「はぁ?伊吹って知らないうちにドSにでもなったの?」


 私がコミュ障気味なのは昔から見ている伊吹なら当然理解しているはずで、それなのに、私の醜態を見て面白がっているなんてまったく困ったやつだ。


「どうだろ。でも千乃がドMだから私がS気味な方がいいのかな」

「はぁー。私はMじゃないですー」

「だってさっき私に怒られて喜んでたじゃん」

「あれは……もぅ。伊吹なんてきらーい」


 色々考えていたことが全て取り越し苦労で、降りかかると思っていた不幸が全て無くなった今、安心感からか少し幼児退行してしまっているような気がする。仕事で疲れているのもあるのかもしれない。だから、ちょっとだけ伊吹に甘えるような仕草をしても、それはおかしなことじゃない。


「嫌いっていう割には私の肩に頭乗せて離れないんだ」

「うるさーい。肩が嫌なら膝を貰うもんね」

「なんか千乃が赤ちゃんになったみたい」

「いいもん赤ちゃんで。赤ちゃんだったら働かなくていいし。あーあ、仕事やめたーい」


 伊吹との問題事が片付いてほっとしたものの、私には仕事という多大なるストレスの塊がまだ存在している。その事を考えれば、赤ちゃんになりたくなるのも当然と言えるだろう。


「辞めちゃえば?」

「そう簡単じゃないんだってば。辞めたら私はどうやって生きていくっていうんだい」

「でも仕事辛いんでしょ」

「それはそう。専業主婦になりたい…」


 幸いなことに私は家のことをするのは好きだ。料理も掃除も全く苦にならないし、伊吹のお陰で相手が自分のしたことで喜ぶことに幸せを覚えられるようになった。だから、稼ぎのいい人捕まえて将来は専業主婦になりたいと昔から思っていた。


「ふーん。じゃあやっぱりなろうよ」

「なにに?」

「専業主婦。私と結婚すれば養ってあげるよ?」

「えー」


 つい最近までは、恋愛感情の伴わない状態で結婚なんてしたってなんら意味の無い、むしろ虚しいものだと考えていた。だが今回の出来事で伊吹にとっての私の立ち位置のようなものが垣間見えて、あれだけ思ってくれているのなら結婚してもいいのかもなんて思えてしまった。


「でも、やっぱ私は恋愛結婚がいいな…」


 今の伊吹となら結ばれてもいいと思える。だけど、やっぱり世間一般的な恋人の関係を経てから結ばれる願望は捨てられない。どうやら私の中のメルヘンな心は未だ夢見がちらしい。


「………恋人欲しいなぁ」


 伊吹の膝に頭を乗せて目を瞑り、心からの願望が洩れた。伊吹という恋人が欲しいと。


「じゃあ私と付き合おうよ。結婚を前提に」

「あのねぇ…。もう少しシチュエーションとかあるでしょ。ソファの上で寝っ転がってる時に告られるとかありえん」

「えー。じゃあちゃんとしたらOKしてくれるの?」

「まぁケースバイケースかな」

「ふーん」


 視界を閉じたままの内容のない会話は眠気を誘ってくる。いつもなら私の膝の上で伊吹が寝る形だけど、今日はその逆。久々に伊吹の脚の柔らかさを堪能しながら、迫り来る睡魔に大人しく従うことにした。


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