36.告白する勇気と受け止める奮起

「私は……あの日…」

目の前の男は何かを口走りそうになった。

駄目だ。そんな気がする。聞いてはいけない。全てが崩れる。

心臓の鼓動が途端に早くなる。

何も怖れる必要なんてありはしないのに、焦燥感が胸の内に沸き上がってくる。

(……な、なんだ………いや、別に何度だって資料で見たじゃないか。特段おかしいところも、不明点もなかった。というかあったとして隠す理由なんて無いはずだ……)

落ち着きたかった。

すぐにでも冷静さを取り戻して、この男が何を言っても動じないようにしなければならない。

私の脳細胞はそうなるように、信号を神経に乗せて、身体機能の掌握と統制に全力を注いでいるはずだった。

だが…………

(いや、そもそも何焦ってんだ私。おかしいだろ?別にどうこう……ほらいつも通り笑って笑って笑って笑って笑って……)

口角を必死にあげてもひきつった笑みにしかならない事は分かっている。

それでも笑いたかった。笑わなければならなかった。

別に怯える事じゃない!自分から嫌われにいった。結果この男は私を嫌ってる。関係値はマイナスだ。

これ以上、この男の中で私の株が下がろうが、私の中でこの男の株が下がろうが、意味の無い事だ。

ゴミ袋の中に幾つバナナの皮が在ろうが、リンゴの皮があろうが、卵の殻があろうが誰も気にしないのと同じように、ぐっちゃぐちゃに混ぜられ、こねられ、熟成された私達の間の負の感情は、これ以上どんなスパイスが加わってもさほど変化は見られないはずだ。

(こ、こ、こういうの……ほら、ばっちこいとか……言うんでしょ…アニメとか漫画とかじゃさ…………い、言いなよ……ほら、早く……言っちゃえっ…………てっ…ほらぁ………)

自分の精神状態を保つためだろう。頭の中にいくつもの物質が分泌されて、私の恐怖を抑え込もうと、ポジティブな言葉がたくさん溢れている。それとは裏腹に、身体の方はと言えば右足がガクガクと小刻みに震え始め、右手も指がわなわなと震えながら、抑えようとする私の脳細胞の制御が効かなり始めた。

私はとっさに強く拳を握って、不愉快な指達をしまい込む。

「あの日?あの…助けてくれた日の事?大丈夫、大丈夫、資料読んでぜ~んぶ知ってるから改めて言う事なんて無いよ~♪も・し・か・し・てぇ~?知らないとか思ってた~?ざぁんねぇぇん!知ってマスタング~♪」

あの日。こいつがそう呼ぶ日は世界でたった一日しかない。

こいつが、自分の立場とキャリアと未来を捨て去ったあの日。

私が生まれて初めて自由という概念に触れ、胸の奥が大きく開いて、解き放たれた喜びに打ち震えたあの日。

私とこいつの関係が、被験体と観察者から、同じ組織の研究者と訓練教官に、救世主と被救済者になったあの日。

あの日に何があったかなんて、私が一番分かっている。あの日の事は私の水晶体が記録した、私だけの光景が海馬かいば(人間に記憶を司る器官)に刻まれている。

それ以外は研究職に着く前にありとあらゆる記録が保管されている資料室で、読み漁ったものしかない。

それ以外の知識は必要ない。

「知ってるから良いって。じゃ、この話終わりね」

「話さなきゃいけない事がある」

私の下手な話の切り上げ方が悪かったのだろうか。それとも、こいつは聞きたくないという私の気持ちを汲む事も出来ない程、察する事が出来ない鈍感な奴だっただろうか。

私の頭にはそんな事が浮かんだが、どれも実情に相応しくない無意味な推測である事は、浮かんだ瞬間から分かっていた。

(覚悟でも決めちまったのかよ…………止めてくれよぉっ…………)

もう終わった事とは言わないが、それでも、もう知らない事など何も無いはずだ。

仮にあったとして、私はそれを知るべきではない。

被害者はどんな経緯を経ていたとして助けられたのだ。それで良いじゃないか。

(美談は美談のままで良いという訳じゃないけどさ………だからって、後出しジャンケンすんなよ、気分悪いなぁあっ………!)

こいつの口から何が語られようと、動揺する気は一ミリもない。理性的に受け入れられる事なのだ。だが、感情はその理性を押し流して止めどなく流れるのみである。

指の震えはいつの間にか、握り締めた拳をほどこうしているのか、音もなく激しさを増していた。

無意識に呼吸が荒くなっているのが感じられる。心拍が早くなっているのだ。

(落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着くんだよ!あぁ!何で!何でぇっ!………何で秘密にすんだよぉっ……!)

最初から言ってくれればこんな事になってない。そんな事は鼻くそを食べる事が止められないガキでも思い付く事だ。

それが出来なかったから今があるのだ。受け入れねばならない。相手は勇気を出している。勇気を出して告白を始めようとしているのだ。

だが、あの日の美しい光景を新しい事実が塗り潰すかもしれない恐怖と、知りたくないと拒絶する気持ちが私の中で怒りを沸き上がらせる。

(ふざけんのも大概にせぇよ、まじで!ふざけんなって!阿呆がっ!ノータリンッ!ゴミグズがっ!一度でも元エリートって思ってた私が馬鹿だったっ!あっ、エリートだから嘘つくの得意なのかにゃああぁぁぁぁあ!!!)

頭の中で呪詛を吐きながらも、私はどうにか頭の中を相手の話が聞ける状態にクリーンアップする。

そして、「ほらほらどうぞ、話しな」と言わんばかりに大きく溜め息をついた。

「何?言ってごらん?」

私は語気を強めて、圧をかける。

こんなのじゃ、全然ガス抜きにならない。けれど、やらずには居られない。

こんな糞みたいな懺悔があって堪るものか。こんな風に事が起きて数年経ってから、実はあの時~何て言う奴が居たら、青酸カリで痙攣けいれんさせてやる。

「あの日、私は……」

私の目から視線を離さず、男は口火を切った。

始まる地獄の言い逃げ選手権。

(後数日で撤収だからって今のうち~ってすんのはおかしいだろ…………)

そう思って、すぐに私は自分のした事を思い出した。

そうだ、私だって………………

(同じ穴の狢だな、出発点も同じだし…………)

糞みたいだ。何でこんな事………人生ってすこぶるやってらんない。

でも、ケージに中に戻るつもりは毛頭無い。

(話しなよ……好き勝手話して吐き出しちまえ。それで、何もかも自分にまとわりつくものからおさらば出来ると思うなよ?)

私はそう思うと、男の目線に自分の目線を被せた。

覚悟は決めるまでもない。決める時間もない。躊躇う時間も、逃げ出す余裕も。

ただ、飛び込むのみ。それが人生だ。一生ずっと、水しぶき飛び散る岸壁の上に居る事は出来ない。

賽はとうに投げられた。私達は時既に、誰が振ったとも、投げたとも分からぬ賽の出た目に身を委ねている。

私達に精々出来るのは、華麗に散る事だけだ。

(だけど、散り場所くらいは自分で決めたい。そのためにも……………)

私は男の口から漏れ出る悔いに耳を傾けた。

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