16.訓練②

辛い事や意に反する事、やりたくない事をやっているに絶対にやってはならない事がある。

それは時計を見る事だ。

「あぁ、まだこの程度しか進んでないの…?」と思う時もあれば、「やった、もうこんな経ってる」と思う時もあるだろう。

だが、どっちにしろ、その辛い事は続く。どう思ったにしろ、すぐに辛苦に身体が悲鳴を上げ、落胆するのが目に見えている。

だから、絶対にやってはならない。絶対にだ。

「走る速度を一定に保て。姿勢を正せ、しっかり前を見て走るんだ。でないと落ちるぞ?」

ランニングマシーンの上でへばって、何とか足を前に出し続ける俺の隣で、教官は姿勢良く腕を振る。

教官は俺がやっている奴よりも、早い速度に設定したランニングマシーンの上をどこか涼しい顔で走り続けている。

少し汗ばんだシャツからは、筋トレ女子が大歓声を上げそうな筋肉の塊が透けて見えた。

(ファミレスの特大ハンバーグぐらいはボリュームありそう…)

「こちらを見ていないで前を見ろ!呼吸を整えて、しっかり地面を蹴るんだ」

「…はい…」

そう言われても、もう身体は限界だ。

一昨日までただの大学生だった俺の身体はもちろん、鍛えてはいないし、そこまで重量のあるものを持ち歩いてもいなかったし、ちょっと走ったら息切れするレベルの持久力しか持ち合わせていないのだ。

明日筋肉痛になるとかそんなレベルじゃない。普通に酸欠で死ぬ。このまま走ってたら卒倒する。でも、今倒れたらランニングマシーンに顔面をぶつけて鼻が折れる。

中学の時に入っていた陸上部の初日もこんな感じだった。

俺はすぐバテてしまって、一日にやる事の半分もこなせなかった。他の連中は昔から運動神経抜群だったり、筋トレが趣味な奴ばっかだったから、その時にはもう部内で浮いてしまっていた。

今は隣に教官が居るだけで、他には誰も居ないから浮くとかそういうのは無いけれど、自分がバテて途中で止めたら、悪い印象を持たれる事は間違いない。

(初めての訓練でやらかしたら、その時の印象が一生付いて回る。最初が肝心なんだ。最初が)

そういう考えもあって、身体はとうに限界を迎えているのに、俺はランニングマシーンから降りずに走り続けた。

正気はもうどこかへ飛んでいき、とにかく走る事だけしか頭に無い。

(走って、走って、走って、走って、走り続けろ。教官が止めろと言うまで踏ん張るんだ。)

これは自分のためにもなる。

結局のところ、今は戦闘に巻き込まれるような事がなくとも、敵と接触するような機会はあるはずだ。

その時に今やっている訓練が、身に付けた基礎体力が役に立つ。逃げるにしても、追うにしても、長い時間走る力がなければ意味がない。

そんな事を考えながらも、俺の頭はどんどん熱くなっていく。頭に完全に血が上(のぼ)って、考える力が失われていく。

(………どれくらい…時間たった…け?)

トレーニングルームには時計がなかった。

きっと、時計を見て手を抜いたりする者が居たのだろう。

だが、後、どれくらいの時間走るべきなのか分からないという点に置いては、不便な事この上無く、この分ではやりきれないのではないかという不安をかき立てられてしまう。

(……終わってくれ……終わって……頼む…)

自分の荒い呼吸音が耳に届く度、限界を超えている事を痛感する。

倒れそうだ。だが、倒れてはいけない。途中で止めてはいけない。

(止まるな…途中で止めたら怒鳴られる…怒鳴られるだけじゃなく……蔑まれて……今後の立場が悪くなる……)

こんなに身体が悲鳴を上げている時でも、真っ先に考えるのが保身という生々しさに、俺は自己嫌悪に陥りながらも、どうにかこうにか、交互に足を前に出す動作を続けた。




「止まれ、休息しろ」

体感では一日くらいは過ぎたように感じていた頃、教官からやっと命令が降りた。

俺はランニングマシーンを止めて、降りようとした瞬間、糸が切れたように倒れ込む。

バタッ

倒れた俺を止まりかけたランニングマシーンが運び、リングの上でKO負けして気絶したボクサーのように、床の上で大の字で仰向けになってしまった。

「大丈夫か?」

「……ダイジョブデス…」

教官はやけに落ち着いた声で俺の安危を確認する。

それに対して、俺は蚊の鳴くような声で返答する事しか出来なかった。

身体が重い。動かない。動けない。

呼吸が荒いまま、しばらく経っても元に戻らず、頭の中は沸騰しているかのように熱く、そして、重かった。

どうにか、本当にどうにかやりきった。

やりきったというより、脳みその機能を停止して、とにかく足を前に出す作業を続けただけではあるが、よく途中で止めなかった。

(死ぬ……死なないけど…死ぬ……無理…殺される…)

こちらのキャパシティなど完全に無視して、走らせ続けた俺の横に居る男は呼吸を荒くしながらも、涼しい顔をしている。

その姿に俺は殺意すら抱きながらも、必死で呼吸を整え、どうにか立ち上がった。

「走った後は、すぐに止まるな。心臓が止まる可能性がある。少し歩いて、心臓の心拍数が落ち着くのを待て」

「…はぁ、はぁ、りょ…はぁ、了解です…はぁ、はぁ…」

何でこんなに走らせたんだボケェ!とか、この運動量、人を対象にしたものですか?とか、言いたい事は山ほど思い付く。

だが、それを口に出すのは止めた。

そんな事をしても意味はない。今はとにかく従う。それが一番良い選択だ。

とやかく言って、機嫌を損ねたらせっかくやりきったのに、その努力が水の泡に消えてしまう。余計な事は言わない方が良い。

「内山、良くやった」

「きょ、恐縮です…」

「良くギブアップしなかったな」

「耐える事には、自信があります…」

教官の労いなど、俺にはどうでも良かった。

(何でも良いから、早く終わってくれ。この後は?あるんだろ?筋トレとか、腹筋とか、やらせるんだろ?やらせてる側が何か気遣ってんじゃねぇよ。気遣うくらいならやらせんな、クソ野郎)

心の中では悪態を付きながら、俺は部屋の中をもう一度見渡した。

目に付くものはどれも身体を鍛えるためのものだが、ランニングが終わった後やトレーニングの最後にやりそうなものに目を走らせる。

(ダンベルや重りを使ったものや、マットみたいな布の上で腹筋もやらされるか…?)

中学時代の陸上部では、走った後は毎回筋トレを行うのが当たり前だった。

そのため、俺はこの後、地獄の長時間筋トレ耐久が待っているとばかり思っていた。

「あの…この後、筋トレですよね?腹筋とか何回くらいやる感じですか?」

どうせやるのだから、ランニングマシーン耐久の時と違って、何時間やるのか、何回やるのか先に聞いておこうと、俺は教官に尋ねた。

「ん?いや、筋トレはしないぞ。今日はもうトレーニングルームは使わん」

「え?」

驚きの余り、顔が硬直した俺に教官は告げた。

「休息が終わったら、研究区画に向かう。そこで、検査を受けてもらう」

検査?また?嘘でしょ?

白い六月に来てから二回目の検査。それが何を意味するのか、この時、俺は知らなかったし、知る由もなかった。

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