31.因果蠢拡不知荼毒
はらり、ひらりと舞う白衣が遠ざかっていく。
クリスティーナの背中がどんどん小さくなっていって、角に曲がって、姿が見えなくなった。
それを見て、つい、いつもの調子で上げた手を力無く下ろした。
今さら、あの子と何を話すつもりだったのだろう。無意識のうちに手を上げて話しかけようとしてしまっていた自分が居る事が少しだけ腹立たしい。
記憶に残るような個とはしない方が良い。もう、消えるのだから。
(向こうだって、こっちを避けてる。嫌われたとでも思ってるのだろうが、そうであるなら好都合だ)
出来れば今のまま、互いに近寄りがたい状態が続けば、忘れられる。互いの存在を気に病む事無く、過ごす事が出来る。
例え、その結果、どんな結末を迎えようともだ。
あの子の記憶に私は残らない方が良い。あの子にはもう、果てしなく広い世界があるのだから。
私のようなものは、彼女の踏み台に成れればそれで良い。それ以上の事は望ましい。私は彼女が駆け出す広い世界を確実なものとするために、身を捧ぐのだ。
殉死者の事など早々に忘れた方が気も楽になるし、元々敵方に居た人間が一人消えるくらいどうという事はない。
私が居なくても世界は回るのだ。
私は異能力者の、突然変異体の未来が守られればそれで良い。そのためなら、この身などいくらでも捧げる覚悟はあるつもりだ。
この社会において存在しないものとされる異能力者や突然変異体が、気兼ね無く自らのやりたい事を、進みたい道に邁進できる、そんな未来のためなら、私は………
私はそんな大義や理想を頭の中で構築して、自分を守ろうとした。
結局、恐ろしいのだ。己の生命を張って、どうなるかも分からない選択をするのは。
だが、それでもやらねばならない。
それが、私が出来る、私にとって、異能力者にとって、突然変異体にとって、そして、クリスティーナにとって、最善で適切であると思うから、引き受けたのだ。
(躊躇するのも分かる。後ろ髪引かれるのも分かる。だが、それが出来るのは後五日間だけだ。心を引き締めろ)
私は心に刻んで、踵を返した。
もう、そこには誰も居ない。振り返る必要は無いのだ。
「あの……何かありました?」
部屋に入ってきた教官に、俺は尋ねた。
教官がまとう雰囲気はどことなく暗い。モンテさんもここに来て、それも愚痴を言いに来るなんておかしいじゃないか。
普通に考えれば、知り合って日の浅い俺ではなく、教官に言うはずだ。それを、俺なんかに言おうとするとは………
(二人の間に何かあったのか?すれ違ったら挨拶一つくらいするだろ…)
俺はこういう時、疑問に思った事をすぐに口に出してしまう。
周りからはノンデリだとよく言われたし、空気が読めない奴とも言われた。だが、正直に言えば、他人の事などに首を突っ込む気は毛頭ない。
ただし、それが後々にまで波及して、その場その場の空気を荒らすなら話しは別である。
(無意識な対立構造とか一切、関り合いになりたくないけど、教官と過ごす時間が長い分、教官側だと思われても困る。ここは事の真相を把握して局外中立(きょくがいちゅうりつ)の立場を確保しなければ……)
俺は早々に、自己保身に思考がシフトした。他人の情事などどうでも良い。
巻き込まれたくない。だから全体像を把握する。俺の目的はそれだけである。
はぁぁ……
教官は深いため息をついた。
「一つ、言っておかねばならない事がある。だが、その前に、ここで何してんだ?」
俺の疑問に答えず、教官は逆に質問をしてきた。
こういう逆質問をする手合いの心情は手に取るように分かる。
(触れられたくないんだな…俺自身に対して触れられたくないのか、もしくは、その事自体に触れられたくないのか……)
俺はそんな事を瞬時に思い付く。
となれば、話を前に進めるためにもここは正直に答えよう。嘘をつくべきでは場面で、嘘をつけば淀みが生じる。その淀みが歪みとなって、いずれは自分が口にした事全てが信憑性を失う。
それだけは避けるべき事であるのを俺は知っている。
「いや、自主練です」
「自主練?」
「はい、少しでも力を付けようと思いまして。何分、自分は力が弱いですから打撃にその…キレと言いますか、軽いと言いますか、そんな感じでちっとも攻撃の範疇に入るような代物じゃないでしょう?だからこうして……」
「馬鹿っ!あれだけ身体を動かしたのに、また動かしてどうする?!身体の疲労を取るために筋肉をもんでほぐしたりして、休ませ無ければならない時間なんだぞ!」
得意になって、ベラベラと自分が思う自主練の目的を並べ立てた俺に、教官はぴしゃりと叱責を加える。
「お前の身体はどうなっているのか分からない部分も多いんだ!特に、血液の突然変異は骨髄の変異によって引き起こされたのかだって、分かっちゃいない!突然変異が起きたために、他の機能が失われた可能性だってあるんだぞ!不用意に身体を動かして、何かしらの事象が発生したらどうする?!どうやって収拾をつけるんだ!」
教官は唾が飛ぶのも気にせずに、怒鳴り散らした。目を見開き、怒りを隠さずに俺にぶつける教官はいつもの冷静さが欠けているように感じた。
だが、それ以上に俺は他の点で心臓が締め付けられるような感覚に陥った。
(ちょっと待ってよ……何かしらの事象って……?)
俺は緊張のあまり、唾を飲み込んだ。
(何かしらの事象って、いきなり爆発したりとか……?そんな事がある訳……)
この考えは願望に近い。
そんな事、言い切れる訳が無いからだ。
当たり前である。世界で恐らく唯一の、血液が発火する特性を得た突然変異体は俺だけなのだ。右も左も分からないに決まってる。
(もしかすると、教官が何の技も教えてくれないのって……)
何を教えれば良いのか分からないのではない。何を教えたらどうなるかが分からないと言う事か?
そんな、そんなまるで………そんなの……
(触るな危険……じゃないんだからさ……まるで、新種の……)
そこまで考えて、俺は一瞬で身体から血の気が引くのを感じた。
実際そうではないか。
自分は何者だ?人間か?
突然変異体と言う言葉はつくづく便利な言葉にして概念だ。
(もし、もし、自分が人間じゃない…何か…何か……)
俺は気が狂いそうだった。呼吸が荒くなっている事にも気付かずに、俺の脳細胞は高速で回りつづけた。
俺は確かに、母親から産まれたはずだ。人間から、紛れもない人間から産まれて……
そう考えた瞬間、昔の記憶がフラッシュバックする。
「あんたは橋の下から拾ってきたのよ」
それを思い出した瞬間、全てが真っ白になった気がした。自分も含め、視界に映る全てが、世界の全てから色素が抜けて、全部白になって、何も感じなくなって………
「内山?…内山!……内山!……内山!」
全てが白い。
目に映るもの全てが。
俺は何者なんだ?何者だった?何だったんだ?
(俺は……どこから………)
無意識のうちに、水の中を、空気がふよふよと動く泡となって、下から上へと上っていく、そんな情景が頭の中に思い描かれた。
(俺は………)
まさか、そんなはずは……無いと言い切れない。
「そうだ、そうだ、そうだよ………」
口からそんな言葉が漏れた。
「どうした、内山!何がそうなんだ!内山!」
教官の言葉は鼓膜を震わせる事はなく、空気のように素通りしていった。
俺は点と点が繋がったように感じた。
「こじつけだ」そう叫ぶ声もあった。だが、今はそう思えない。
(俺は……だって、俺は………)
今まで、どうしてこの可能性を考えなかったのだろう。
なぜ、俺はこんな単純で簡単な事を思い付きもしなかったのだろう。
こうであるなら、総てに説明がつくじゃないか。
確かに、穴はある。納得できる説明が充分に出来ない部分も、それも、かなり重要な箇所が抜けている。
しかし、そんな事は今、自分と言う一人間の脳内には論ずべき議題として浮かび上がる事は無かった。
(だって、だって………あの人達に………)
「 っ!」
言葉にならない言葉が口から漏れた。
吐き出した言葉は真理でしかなかったが、その言葉を吐き出した本人も、それを聞きたいとは願わなかった。
だからこそ、唇とそれを動かすための神経と筋肉は動いたが、声帯は機能を放棄したのだ。
それは、知るべきではない残酷な真実かもしれないが、一つの絶望的観測であるかもしれないからだ。
どちらにせよ、それを信じたくなかったのだ。本能よりももっと奥深くの核となる部分が、その可能性を拒否したのだ。
忘れていた過去の傷が、自分自身が立っているひび割れ、歪んだ地盤が、再び胎動を始め、全てを壊そうとしている。
自分を構成するものの原点が全て崩れ去る。自分が一番恐れていた事が、自分の中で起き始めていた。
忘れかけていたものが、思い出そうとしていなかったものが、蓋をしていたものが、再び目を覚まし、自分の中を蠢いている。
そいつは嘯(うそぶ)く。
「忘れるな、思い出せ。見つけろ。真実を」
何度も何度も繰り返し、頭の中にその言葉が浮かんでは消えて、浮かんでは消えてゆく。
もう、自分の脆弱な精神では耐えきれるものではなかった。
ぶつぶつと何かを口にしていた内山が、突然糸が切れたかのように、身体が力を失い、倒れ込む。
「内山!おい!どうした!おい!内山!内山!」
倒れ込む内山を抱き抱えるように、受け止めるが、もう時既に意識は無く、身体は後ろに反り返り、ぐったりとした様子が見て取れた。
瞬時に首の動脈に手をやると、そこにはまだ、皮膚の下で揺れ動くものがあった。
(息はある。なら、何らかのショックか…)
私はそう判断すると、内山を抱き抱えるように持ち上げると、迷い無く研究区画へ走った。
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