30.非吐
局長の部屋を去り、私は訓練区画への帰路に着いた。
後五日か………
どうにかするしかない。
今までの実戦形式で戦闘力も判断力も上がってはいる。だが、さすがに付け焼刃が過ぎる。
どんなに頑張っても、さすがに一端(いっぱし)の戦闘力に仕上げる事は出来ないだろう。
(まぁ、あれだけのポテンシャルを持ってるんだ。逃げた先でいくらでも引き取り手はあるだろうし、あくまで基礎を作る形でいくか)
私はそんな事を思いながら、歩みを進めた。
他の事は考えないように、頭に浮かばないようにした。
一度でも、その名前が浮かんだら、考えたら、きっと、歩みを止めてしまうだろうから。
私はもう、行くのだ。
私のやる事は必ずや良い未来を作る事に繋がるはずだ。
考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。考えるな……
頭の中でそう念じ続ければ続けるほどに、情景が浮かび上がってくる。
ショートカットの黒髪。
(考えるな…)
黒縁の眼鏡。
(考えちゃいけない…!)
動き回って、はらりと舞う白衣の裾。
(考えるな!)
茶色の手袋。
(何で考える!今は良いんだ!もう良いんだよ!良いんだ!要らないんだ、その思考は!私の戦略的視点と現状への打開策としてこれは絶対に必要な事なんだ!)
何度も何度も言い聞かせるように、繰り返す。
正しい決断だった。今さら覆らない。
最善だと思って決めた事だ。自分にとっても、あいつにとっても、正しい判断で今後のためになる事だ。
だが、その思いとは裏腹に、あの日々の情景が浮かんでくる。
ガラスケースの向こうの蔑むような光の無い目。
助けを求めるでもなく、憎悪するでもなく、ただされるがままに、流されるままに、己が身体を委ねるしかない隷属者の目。
身体中に残る酷い実験とありとあらゆる検査の痕跡は、何度もほつれたり、中身の綿が出たりして、縫い直されたぬいぐるみを思わせた。
病院の入院患者が着るような薄い袖無しの病衣を身にまとい、絵に描いた無気力、無抵抗な雰囲気を発する体育座り。
(思い出すな!もう決めた事だ!決めた事なんだよ!あいつのためにだって……!)
そう思う度、新たな情景が浮かび上がってくる。
ふと、目線を合わせ、こちらに顔を上げるも、すぐに顔を伏せる。
そのゆっくりとした所作には、何を考えているかを感じ取れない。
ただ………
(何も期待はしない。興味もない。今日は何?どこをいじるの?そんな風な達観した気持ちが伝わってきたのは気のせいだったのだろうか)
あの日、乱暴に手を取って、点灯した赤いランプが回転しながら、床に壁に赤い円を作る中を、無我夢中でたくさんの手を引いて、外に出て、その中の一人だった彼女と目が合って………
あの日だ。
あの日、私が決断したあの日、結構したあの日、あの日が全てを変えた。
「正しかった」何てお世辞にも言えない。
ただ、やるべき事をした。ただそれだけだっだ。
今回もそうだ。
やるべき事をするんた。為すべき事を。
私の役割を全うするんだ。遂行し、成し遂げた先、あいつの幸せがある。
そう確信しているからこそ、あの命令を受けたのだ。
やってみせるさ。さもなきゃ無駄死にだ。
出来るだろう?出来なきゃ駄目なんだ。責務を果たして、死ぬるこそ、武人の道を選んだ私の使命であるのだから。
ダンダンダンダンダンダンダンダン………
暗闇で鈍く、軽い衝撃音が鳴り続ける。
午後にはバン、バン、バタンと人が倒される音が鳴り続けた部屋で、男が一人、サンドバッグに拳を打ち付けている。
素手で一秒間に二発以上打ち続けながら、息を整えつつ、突き出している。
上にはタンクトップ一枚だけで、少しばかり盛り上がった筋肉が拳が突き出されるのに呼応して、縮んでは緩む事を繰り返していた。
腕にはかなりの疲労が溜まっているはずである。
だが、男は身体を休める事無く、サンドバッグを打ち続け、身体を上から下へ伝う汗などを気にする素振りを見せなかった。
それを半開きになったドアから、密かに見つめ、少しだけ安堵している自分が居る事に驚く。
驚いた理由にはすぐに見当がついた。
だが、それをすぐに打ち消して、頭の中の考えるためのリソースを別の事に割いた。
(訓練とは言え、暗がりでやらせるぅ~?あったまおかしくねぇ~?)
内山優。彼は確かに身体を鍛える上ではうってつけの突然変異体だろう。
だが、その性質や構造は未だ不明な点が多い。身体を動かして、鍛え上げる事自体には何の問題も無いが、それでも、身体を動かしすぎて体温が上昇して発火なんて事になったら笑い話にもならない。
さぁて、どうするかね。
私はそう思いながら彼に話しかけた。
ダンダンダンダンダンダン……
「やぁ、ちょっと良いかね?」
彼は後ろから聞こえた声に驚いたようで、一瞬肩を上げ、震わせたものの、すぐに振り返ってこちらを見た。
「…モンテさん、これはどうも…」
「やぁやぁやぁ、調子はどうだい?こんな暗い中でやっちゃってさ。電気付けたらどうなの?」
私がそう言いながら電気のスイッチに手を伸ばすと、彼はそれを制止した。
「いえ、そういう訓練なんです。真っ暗闇の方が集中できるんですよ、俺。それに暗いのに目も慣れていた方が後々のためになるでしょうしね」
後々か……。
私は、彼の言葉には妙な信憑性にも似た、確信じみたものを感じた。
何だが前にも経験があるような言い草だ。ここに来てから日も浅いし、来たのもいきなりだったのに、彼は見事に適応した。
流されるままに…とも考えられるけど、それなりに場数を踏んでいたりするのだろうか。
「そうならない事を祈るけどねぇ?闇夜に紛れて夜逃げなんてやりたくないし」
「同感です。でも、敵は夜もやってくるでしょ。いざって時は対応しなきゃいけませんから」
彼はあっけらかんとした様子でそんな事を言った。
(あ~あ、完全に染まっちゃったねぇ、こっち側に)
もう、彼も普通の生活には戻れないだろう。
当たり前だ。こんな地下で暴力闘争のために日々身体を鍛え上げているのだ。
多少価値観や感覚が無意識の有無に関わらず変わってしまってもおかしくない。
「それで、何か?教官なら居ませんが……」
「いや、良いの。降川に用があった訳じゃないから」
「え……」
てっきり降川に用があると思っていたのだろう。彼はそんな間の抜けた声を出した。
「じゃ、何か俺に…」
「いや、まぁ、性格にはそうなんだけど…用があるのは君じゃなくて君の耳。というか鼓膜」
「は…?」
呆けたように立ち尽くす彼に私は恥じらいを押さえて言った。
「ちょっとだけさぁ…愚痴、聞いて欲しいんだよね」
「はぁ……愚痴ですか……」
彼は何とも言えない顔をしていた。
まだ、消灯時間は来ていない。
(少しだけ、ほんの少しだけ長い夜にしても良いかな)
何て洒落た台詞でも言えれば良いのに。
私は何でこんなところに来たんだろう。愚痴なんて、まだ残っている同僚達に言えば良いのに。
それでも、本当に言いたい奴には言えないから。
(だから、代わりに………)
そう思った瞬間、頭の中に叩き込んだありとあらゆる言葉の内から罵詈雑言が組み立てられ飛んでくる。
何て恥じらいの無い女だろう。自分の中に留めておけない思いを、気持ちを何の関係もない人に吐き出して、浴びせて、無節操な事この上無い。
「ごめんっ、やっぱりキャンセル。私っ、帰るね、ほんとごめん、それじゃっ!」
私は手のひらを合わせて、頭を下げると、一気に走り出して、部屋を飛び出した。
その瞬間、目が合ってしまった。
絶対に会いたくない、もう会えない、会わせる顔が無い人と、真っ向から互いに視界に収めてしまった。
向こうは少し驚いた後、何か言いたげに、右手を少し上げて、こちらを呼び止めるような動きを見せた。
だけど……
私は瞬時に目線を逸らした。
そして、自分でもあり得ないくらいに力を入れて床を踏みつけた。
一迅の風のように、早いところ消え去ってしまいたかった。
私はこの人の顔を見れない。見てはいけない。私は、この人に軽蔑されてしかるべき事をしたんだ。嫌われて当然の事をしていたんだ。
(現に、これで終わりにしようって、そう思って……)
私はその一心で、あの人の隣を走り去った。
これで良いんだ。だって私は、酷い奴だから。
生命を弄ぶ外道で、私利私欲のために生きているから。だから、だから、だから、だから、きっと、これで良い。これが正しい。
私はあの人の側に居ちゃいけない。
居たら駄目なんだ。
(だって、あの人は……あの人には……ずっと、あの時のままで居て欲しいから……)
頬を伝う雫を拭う事はしなかった。
拭ってしまったら、白衣を濡らしてしまったら、きっと、私の心が後悔で一杯になって、引き返してしまうだろうから。
頬を伝い、顎から滴り落ちた後悔の煌めきは、一人の女の駆ける音と共に、どこかへと消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます