29.振賽
「局長、一つお尋ねしたい事があります」
差し出された小瓶を手に取り、一人の武人が口を開く。
「彼は……無事ですか?」
その問いに局長は若干ではあるが目を細めた。
「彼とは…誰の事だね?」
「…ぁ、ご存じでは無いのですか?」
「あぁ、知らない。誰なのだ?」
驚きのあまり、言葉にならない言葉を漏らしてしまった。
局長は知らないのか。では、なぜ、それを持っている。上層部が支給したものじゃないのか?
本来なら、こんな一組織、それも研究と訓練しかやってないところにあげていいものじゃない。
もっと、支給されてしかるべき、適切な部署があるはずだ。
それなのに、どうして………
「彼と言うのは……身体の部位が胴から切り離されてもどこにあるか本能的に把握する事が出来る異能力を持った人物の事です。その液体発信器は、彼が開発に参加したものなのでしょう?」
私は少し躊躇を覚えながら、彼の事を口にした。
彼は決して組織にとって重要な人材であった訳ではない。私としては、すぐに『団地』送りになる人材だと思っていたし、そうならないはずが無いと思っていた。
だが、今手元にある小瓶を見て、彼が今、どこに居るのかを悟ってしまった。
「あぁ……実験協力者の事か。その事を言っていたんだね、気付かなかったよ。彼何て抽象的に言わないでくれよ……まぁ、私も名前は知らないが……」
局長の言葉は、ただの事実の再確認として、私の脳裏に刻み込まれる。
言質が取れてしまった。
彼は今、実験組織に居るのだ。
「か、彼は……ど、どうでした…?」
「ん?どうとは?」
私は心臓のある辺りが冷たくなっているのを感じていた。
局長は何でもない事のように、平然としている。この人は慣れているのだ。研究畑の中でも、実験を行う部署に長らく在籍していたのだろう。
だからこそ、感覚が麻痺して何も感じなくなっているのだ。
「……ぎっ……た…体調とか……げ、元気でしたか?」
何を言うべきか迷いながらも、私は言葉を絞り出した。
嫌だった。分かりきっている事じゃないか。彼がどうなっているか何て……
私の頭の中では、時既に彼の様子が写し出されていた。
呆然自失といった様子で突っ立って、何をする気も起きない彼は、いつもボサボサの伸びっぱなしの髪と荒れた肌が特徴的だったのを覚えている。
そんな彼がどんな様子だったか何て、聞くまでもない事だ。
「まぁ…もう、ほとんど自我は無いよ。研究員達のされるがまま、何もしないし、何も出来ない。被験者に志願して元の生活に擬似的にでも戻ろうとしたのかもしれないが」
局長は淡々と言った。
「そうですか……」
そりゃあ、そうだ。
私は返答しつつ、そう思ってしまった。
何も知らずに生きてきて、心の中身が空っぽなのに、自由だの、やりたい事だの言われても分かる訳がない。
彼はもう、人の姿をした生物でしか無く、考える事も、何かを行う事もない。
元々何も無かったのだ。与えられる苦痛だけが、彼の全てだった。
我々はそれを奪ってしまった。
正しい事ではあった。だが、それが彼が壊れる原因となってしまった。
(彼の事も、クリスティーナの事も、助けない方が苦しまなかったのかもしれない……)
囚われていれば、少なくとも自らが知っている世界に居られる。
だが、一度そこから出てしまえば、彼らは困惑し、混乱し、恐怖し、怯える。
そこにあるもの全てが知らない事だからだ。
彼らのほとんどは何も知らない。
言葉の意味も、何のために何をされているかも、研究員という存在も、世界という概念も、自由という一般常識も、何も知らない。
教えられないのだ。
なぜって?必要ないからだ。使い捨ての実験体には必要とされない。
ただ、少々反応を見るために感覚を訴えるための言葉を、多少は教える程度だ。
それ以外の知識も教養も実験体の海馬には刻まない。
狂ってしまわないように、言葉を掛けたりはするようだが、肝心な言葉の意味事態は教えない。
そのため、例え自由の身に成っても、彼らは何もせずに、何も出来ずに、ただそこに居るだけで終わってしまう。
(もちろん、ある程度の例外は居るが)
クリスティーナのように反応を見るための言葉だけで無く、研究員達の言葉を模倣し、見様見真似(みようみまね)で言葉を覚えた特異な者も居る。
だが、それも復讐という目標あってこそのものだろうが。
とまれ、この液体発信器とやらは彼の異能力から作られたもので間違いないだろう。
「局長はどうしてこれを……」
「あぁ、元々、実験協力者達の異能力をベースに何かしらの物品を作る部署に居たんだが、その時に試作品を幾つか貰ってね。これもそれの一つだ」
局長の言葉に私は心底納得した。
確かに、目の前で行われた実験によって作られた産物なら効果も保証できよう。
先ほど下された命令も、最初に聞いた時は何て酔狂なものだと思ったが、今思えば、合理的な命令でもある。
液体発信器を使えば、確実に、私が捕虜となる事さえ出来れば、敵方の捕虜収容施設の位置を特定する事が出来る。
そして、私は拷問を受ける事になろうが、ある程度のものなら覚悟だってしているし、耐える事だって出来る。
いや、私でなければ耐える事は出来ないだろう。
文字通り、自衛隊の幹部であり、その暗部に肩まで浸かったのだ。
拷問への耐久訓練ぐらい受けた事はある。私が適任である事は疑いようがないだろう。
この命令の軍事的効用は計り知れない。
私一人の命で、敵方の施設の位置が特定できる。それは味方に大いなる貢献となるだろう。
しかし、私には為すべき事があった。
(クリスティーナを見捨ててはおけない…)
命令か、過去に助け出し、自らが運命を変えた女か。
天秤は時既に傾いている。
「局長、先ほどのお話ですが…」
「極秘作戦の件だね。それで?受けてくれるのか?」
「謹んで、お引き受けさせていただきます」
この選択をさせたのは、私の中の軍人精神でも、それとも骨身に染みた官僚主義でも無い。
私自身の経験から培った視座に基づく戦略的な判断だ。
「ありがとう。そういうと思っていたよ」
局長はそういうと、私に右手を出した。
「それでは、頼んだよ。必ず、君を助けに行くからね」
「はっ。必ずやこの作戦、完遂してみせましょう」
私はそう言いながら、出された右手を掴んだ。
「期待しているよ、降川君」
「はっ。それでは失礼致します」
私はそういうと、回れ右をして踵を返す。
少しだけ、ほんの少しだけ、後ろ髪を引かれながら、局長に背を向けて、ドアノブに手を掛けて回す。
本当にこれで良いのか?
そう自分に問う自分が居る。
(良いんだ。これが最善だ)
私はその声にそう返して、局長の部屋を出た。
これが最善であると信じながら、最善にすると誓いながら。
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