2.非日常を一跨ぎ②
冬は日が落ちるのが早い。
帰りの電車の乗客はまばらで、込み合う一歩手前の時間帯に滑り込めたようだった。
だが、この時間帯にサラリーマンがほとんど見られない事に少しだけ失望を感じる。
従業員に優しい企業は存在しないが、近年は長時間労働を常に強いる企業がここ数年で倍増してきているという。
それが労働争議(ろうどうそうぎ。労働者が自らの労働条件の向上を目指して行う様々な活動の事。ストライキ等はその手法の一つ)に繋がらないのが特徴で、現代の企業でデスクワークから肉体労働まで、それに従事している労働階級のほとんどが派遣社員なのが理由である。
派遣社員の契約期間は一年ほどで、契約期間中に労働争議を起こせば契約延長は見込めないからだ。
会社に歯向かう者をずっと抱えておく変人は居ないのだ。
転職サイトは星の数よりも多くあるが、転職が経歴に傷を付けるのは、今も昔も変わらない。
欧米なんかでは職歴をたくさん持っていた方が就職に有利だというので、グローバリストを名乗る輩はネットで個人に噛みつくのではなく、こういう細かいところをグローバルで無いとか、世界から遅れてるとか言って是正して頂きたいものだ。
そんな事を考えていると、視界の端に不快なものが映る。
首を真っ直ぐな状態から十五度程を曲げ、十センチ×四センチ程の電子機器に目を落とす女。
こういうのを見ると、どうにも現代的な産業社会の副産物たる人間の堕落を痛感せざるを得ない。
(全く…機械を使うのは人間であって、機械が人間を使っているんじゃない。なんで機械に縛られる必要がある。依存性に耐える事も出来ないと言うのか、怠惰な現代病患者め……)
頭の中でぶつぶつと文句を言っていると、電車は駅に停まった。
乗り換える乗客が席を立ち、電車を降りると反対に乗る乗客が何人か入っていた。
その乗客のうち、何人かがつり革を掴む俺の背中を通り過ぎた。
その刹那、まさに自らの存在を信じて疑わないような、自信を感じさせるような大きな声が響いた。
「神奈川民警団だ!手を上げろ!」
その声は数十秒の非日常の開幕を告げた。
俺は振り返って声のする方に顔を向けるが、神奈川民警団を名乗る数名の男の背に阻まれて、事の全体を視界に収める事が出来ない。
だが、彼らの向く方向にはどうやら、二人の男が居るらしい。
一人の姿は民警団の体で見えないが、もう一人は身長百九十は有ると思われる巨漢の男で、民警団の方を振り返り、右に居るもう一人の方に目をやった。
そして、次の瞬間民警団の姿に隠れて見えなかった二人の男の全体像がはっきりと見えるようになった。
二人の男が民警団に襲い掛かったからだ。
巨漢の方は民警団に振り返ると同時に左腕を振るった。民警団の一人が右回りに一回転して、電車の床に倒れこむ。しかし、その時には巨漢の右の拳が、回転して倒れたやつの隣にいた民警団のみぞおちに深く入り込むと同時に、もう一人の民警団が仰向けにぶっ倒れた。
そいつの額には見事な風穴が開いていた。
流れ出した血がそいつの体の回りを赤い水溜まりに変えていく。
倒れたそいつから目線を上げると、姿が見えなかった方の男の右手に拳銃が握られていた。
小さく、しかし、銃口の部分が異様に太かった。
そこの部品だけ、後から付けられたものであると一目で分かるような外観だった。
(消音器(しょうおんき。サイレンサーの事)……か?)
男は俺が巨漢の方を見ていた時に、気絶させておいたのか、倒れているもう一人の民警団にその太い銃口を向けた。
ツッ…だが、スッ…だが、風が通るよりも小さな音をどうにか俺の鼓膜が捉える。
男は次に巨漢が左腕で倒したやつを撃ち、次にみぞおちに拳を喰らったやつに銃口を向ける。
拳を喰らったやつは咳き込み、痛みに喘ぎながら右の懐に手を伸ばす。
だが、次の瞬間にはやつの頭は宙にあった。
巨漢がやつの首根っこを造作もなく掴み上げ、そのまま電車の床にやつの後頭部から叩きつけたのだ。
巨漢は全身を使い、右足の膝を折って勢い良く止めを刺した。
ガァン!
重く、鈍い音と共に、血が飛び散った。
あまりの状況に、俺は無意識に口をパクパクさせてしまっていた。
電車内からは悲鳴一つ聞こえてこない。
まさに修羅(しゅら。仏教の六道の内の一つである修羅道は争いの世界とされ、争う事を一般的に修羅と表現する)が目の前で繰り広げられたのだ。
しかも一方的な殺戮に終始し、残虐に人の生命が失われたのである。
非日常の幕引きは、実に無残としか言いようが無いものであった。
電車の中では呼吸の音一つ聞こえなかった。
ただ、その場に居る二人の男を除いて、起きた事に圧倒されていた。
右手に拳銃を持った男が、それを懐にしまいながら周囲を見渡す。
「誰か、怪我をして居る人は居ませんか?」
その場を満たす静寂を破り、発せられた声に俺は拍子抜けした。
あまりにも紳士的で、礼儀正しく、そいつはその場に居る者達に声をかけたのだ。
さっきまで無慈悲に人を殺し、血の水溜まりを作った男がそんな事を言うのだ。
なんとも言えない空気が電車内を満たしたが、誰一人口を開いて男に返事をする者は居なかった。
「誰も居ませんね。それでは、失敬」
男はそう言うと、開きっぱなしだった電車のドアから駆け足で駅に降りると、電車の中よりも数倍早く駆け去っていった。巨漢もそれに続く。
「邪魔したな」
そんなキザな一言を吐いて、巨漢もすぐに姿を消してしまった。
あっという間に、非日常を作り出した者達の片方が去っていき、もう片方は物言わぬ死体となってしまった。
電車内はしばらくの間沈黙が支配した。
誰一人、その場を動く事が出来る者は居なかった。
俺は男達が去っていった後、何も考えず民警団の死体を見つめていた。
(死………)
その現象を見るのは始めてではない。
だが、その事を改めて認識したからだろうか。いきなり正気を取り戻したからだろうか、心臓の早鐘を打ち始めた。
民警団と二人の男。両者を運命を分けたのはなんなのだろうか。
ひとえに力量の差だろうか。
武器だろうか。
場数だろうか。
俺は血の水溜まりに浸された死体を見つめながら考える。
死というものは、こうも早く、そして、突然に降りかかってくるものなのだろうか。
最後に彼らが感じたのは、殴られた痛みだろうか?
それとも、頭蓋骨を貫く弾丸がもたらした苦痛だろうか。
彼らに訪れたのは『鷹と矢』に基づいた正当な死だろうか。彼らは彼らによって滅びたのだろうか。
俺はそんな事を警察が駆け付けて、事情聴取を受けるまで悶々と考えていた。
警察の事情聴取は形式的なものにとどまった。
恐らく、民警団を良く思っていないのだろう。駆け付けたのもテロ事件の可能性も捨てきれないと言うのに、保安警察(ほあんけいさつ。警視庁公安部の事を俗に公安警察と言うのと同じで、法務省保安庁の事も俗に保安警察と言う)では無かったし、特に何か踏み込んだ質問もされる事もなく、俺は解放された。
結局、民警団はどこの誰を捕らえようとしたのだろうか。一般人には知るよしも無いし、知るための能力も無いが、どこか、雲の上で何かしらの動きでもあったのだろうと予想するしか出来る事は無い。
電車の運行ダイヤは乱れに乱れた。
俺はどうにか電車に乗る事が出来たが、そこは帰宅する社畜のすし桶であった。
ようやく借りているアパートの部屋に帰れたのは夜の八時を回った頃だった。
体全体が痛み、疲労を訴えていたが、俺はインスタントコーヒーを喉に通すと、体に死ねと言わんばかりに課題を始めた。
それが終わったのは十二時を回った時で、課題であった日本の経済に影響を与えていると思う企業の状況調べるというものは自分なりに完璧に終わらせる事が出来た。
その後、パソコンで動画を見ながら食べた特大カップラーメンの味を、俺は生涯忘れる事は無いだろう。
数時間の非日常は既に終わりを迎えていた。
そして、二度とそれは戻ってこないはずだった。
生き地獄から、俺は逃げ切ったはずだった。
不条理で、無慈悲で、一生苦悶苦痛が付いて回る道が、俺の人生であるのだろうか。
だが、それが『鷹と矢』に基づく運命(さだめ)であるのならば、納得は出来る。
咎は永遠なのだ。
罪があれば、罰がある。
逃れる事は決して出来ないのだ。
今それが、己にたどり着いていないだけで、それは迫ってきている。
その事を忘れようと、肝に刻んで居ようとその日は来る。
努々(ゆめゆめ)忘れるなよ。
そう自分の脳裏に刻み付ける。己を殺すのは己だという事を常に頭に残しておけるように。
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