3.始まり

大学の講義室は考えてみるとコンパクトすぎる。

不必要なものは何もない独特の雰囲気と、一辺倒な色彩。一見、暖かみの無い人工物の印象を与えるが、それこそが、小中高とは違う高等教育機関であるという自負と体裁の現れでもあると俺には思えた。

その感じが俺は好きだった。

大学の講義が終われば、学生の行動は大学図書館で調べものや勉強をするか、足早に家に帰るか、仲間と夜の街に繰り出したり、サークル活動をしたりと様々だ。

その点、俺はサークル活動もしていないし、課題も昨日終わらせている。

残る理由は見当たらなかった。

俺は講義室を出たその足で、帰路に着いた。




各駅停車に揺られながら、ふと、昨日の事を思い出す。

あの二人……人を殺す事になんの躊躇もなかった。

特に、巨漢じゃない方はすぐに銃を抜いていた。造作もなく、殺してやるっていう明確な殺意も感じなかった。

あぁいうのをプロって言うんだろうか。

俺にはとても真似できない。

俺が人を殺すとしたら、それはそいつに恨みがある時だけだ。

普通、初対面の人間を警察だからって殺したりしない。

きっと、あいつらは俺のような人間とは違う人間なんだ。

(完全に、感覚の違う、別世界の…哲学的に言えば、善悪の彼岸の向こう側に居る人間達…なんだろうな)

そんな事を考えていると、最寄り駅に着いた。

少し前まで所狭しと人が居たのに、電車の中はあまりにも空いていて、座席に一人二人座っている程度しか居なかった。

最寄り駅は田舎と都会の狭間にあるような街だった。

駅周辺を抜ければ、住宅街、その住宅街を抜ければすぐ田んぼ。そんな場所だった。

子育て支援の拡充とかで、この少子高齢化時代を生き残ろうとする市の政策は、全国で一番子育てしやすい市町村に選ばれるくらい成功を収めている。

しかし、結局のところ、街そのものの性格は変わらないし、人が増えればその分、社会に混ざれねぇ奴も増えるものだ。

そういう奴らはだいたい夜の街に消えていく。

そうなりゃ、治安の悪化は避けられない。

俺はこの街の生まれではなかったが、育てられた場所はこの街だ。

愛郷心が特段ある訳じゃないが、少なくとも、地元が変わろうとして居る雰囲気は、心地の良いものではなかった。

心のどこかぎ崩されていくような、何かが欠けてゆく感覚。

そんな感覚の名前を俺は知らなかった。



電車を降りて、ホームの階段を上がり、改札を目指す。

明日の大学の講義は憲法関連だ。教授は定年を控えた爺さんで、俺と話の会う人だった。

(明日も何か質問しておくか)

大学にせっかく入ったのだ。少しでも教養を付けて社会に出たい。

そんな気持ちが頭のどこかにあった。

(くだらない、将来の事も何も定まっていないのに。人生に関係ない事をどんなに覚えたって意味はない)

覚えるべきは金になる事、それだけが求められる事なのに、俺はそれに納得できなかった。

自分のやりたい事とやれる事は違う。

三つ子の魂百までとは言うが、食べていくためには、ある程度自由を捨てねばならない。

納得出来る、出来ないではなく、理解しなければならない事なのだ。

もう十九なのだ。そろそろ、踏ん切りをつけなくてはならないのに。

そう思いながら、改札を出ると、一人の女の子が二人組の警官に話しかけられていた。

「君、この辺りの子じゃないよね?学生証出せる?」

「どこから来たの?東京からだよね?」

断定口調で、畳み掛けるように詰め寄る警官に俺は嫌悪混じりの目線を向けた。

元来、警察は好きじゃない。

特に神奈川県警は全国でもトップクラスの汚職率を誇るし、市民からの信頼も薄いが、それだけじゃない。

どうにも、こちらを量るような目に嫌悪感を抱いてしまう。

なぜそんな目で見られなければならないのか。嫌悪を越えた怒りすら沸いてくる程に、俺は警察というものが嫌いだった。

とはいえ、警官とその子のやり取りが少し気になって、俺は背を向けつつも耳をそばだてていた。

「あ、あの…私、急いでまして…」

「うん、でも、すぐに終わるからさ」

「何か出せない理由でもあるの?」

「いや、そういう訳では…」

さっさと出せば良いものを。女の子は何か事情があるのか、身分証明書を出す事を渋っている。

(そんな事をしたら、警官が詰めてくるは確実だろうに…こんな女はものを知らんのか)

そう思って、振り返り、女の子を遠目に凝視する。

背は自分より小さく、百六十から百七十以下、着ている制服はここらでは見ないものだが、高校生だろう。

普通、ここらの公立高校では制服は基本的に今の季節、黒いブレザーを着る事が義務となっているはずだ。

だが、彼女が身に付けている物は、清輝と二熟語の校章が付いた紺のブレザーに、紺のロングスカートというザ・お嬢様学校といった物でここいらの高校生ではない事は、はっきりと分かった。

(お嬢様学校なら、世間知らずでも無理はない…か?)

そもそも、警官に職質まがいの事をされるのも経験がないし、その状況に出くわした事も無いのだろう。

おどおどと動揺して、どうしたら良いか分からない。そんな様子で見るからに慌てている。

「あ、あの…ほ、本当に、今、時間がなくて、私…」

「でもねぇ、こっちも仕事だからさ」

「あんまりさ、拒否されてもお互い困っちゃうからさ」

何をそんなに急いでいるんだか。

その子はずっと、出口の階段の方を何度も見ては、うつ向く。

(箱入り娘なのか)

そう思った瞬間、俺は思い出していた。

あのロングスカート、そして、校章の清輝の文字。

この二つは、この間の課題で調べた日本経済に影響を与える大企業の一つ、小石田投資銀行のグループ系私立高校、清輝学園のものだ。

確か、大正時代から存在する日本の上流階級の中でも政治家、資本家、官僚の子息が通う名門校だったはず。

(それが、どうしてこんなところに……)

物見遊山(ものみゆさん。見物するという事と、遊びに行くという事)のつもりか?

それにしては、お付きの人とかも居ないし…いや、居ないもんなのかも……

(というか、さっきから身分証明書出すの渋ってる理由って……)

親に知られたくないからか。

そりゃあ、そうだ。将来、自分の跡目を継いだりする子息が神奈川の片田舎に行ったというのだ。

とやかく言われたり、聞かれたり、場合によっては外出禁止とか言い渡されてしまうかもしれない。

それに、時刻はもう夜の八時を回っている。門限とかは大丈夫なのだろうか。

(ここは助けるべき…だろうか)

というか、警察から助けるって何だよ。犯罪者じゃあるまいし。

まぁ、それでも、このまま放置してこの子が親から叱られてしまったとか、後から考えてしまうのは精神上良いものではないし……警察は嫌いだし……

(ま、一泡吹かせてやるか)

俺の腹は決まった。それに、俺には心強い味方が居る。

背負っていたリュックから今日の講義で使った六法全書を取り出す。

(全国の公務員諸君、恐れたまえ、ここにあるわ、諸君らを縛る法が明記してある人民の楯であり、槍なるぞ……)

右手に六法全書、左手にスマホを握り、俺は決戦場へと赴いた。



思えば、運命だったのかもしれない。

この日の講義に六法全書を使うものがあったり、前日に事件に巻き込まれていたり、自分の目の前で女の子が職質を受けていたり、何とも、これは出来すぎというものではないか。

これが、運命付けられていたものなら、きっと、俺は何か使命でも受けて、何かしらの役割を仰せつかったのかもしれない。

でも、それはきっと、今も、そして、これからも分からない。

何たって、俺はどこまでいっても、人間でしかないのだから。

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