怪物の条件
床豚毒頭召諮問
第一章 堕籠の獣道(ついろうのけものみち)編
1.非日常を一跨ぎ(ひとまたぎ)
ただ、捕まりたくなかった。
ただ、追われたくなかった。
ただ、普通に生きたかった。
普通に就職して、普通に稼いで、普通に死ぬ。
そんな事すら、俺達には許されなかった。
一体、何がしたかったんだろう。
何と戦っていたんだろう。
何を得ようとしていたのだろう。
平穏?平和?生存?自由?
一体、一体何のために、あんなに殺して、あんなに死んだって言うんだ。
未来の人達は俺達を見て、何て言うのかな?
くそったれのゴミクズ?それとも、ただのテロリスト?
どっちだって良い。どっちだって良いからさ。どうか、どうか、生きる希望をくれないかな?
全部…全部、悪いのは俺で良いから、どうか、皆を救ってくれないかな?
こんな事、口が裂けても言えるような立場じゃないけど……
それでも、俺だって誰かを救いたかったんだ…
誰かを救える…そんな自分になりたかったんだ…
今のままじゃ駄目だ。それだけは分かるんだ。だから、どうか、助けてくれ。
俺は、俺達はどうしたら良いんだ?
ニコチンに酔いながら俺は壁を見つめていた。
(そろそろだ)
さっきまで、鈍い音と罵詈雑言を俺の耳に伝わせてきた部屋と部屋を隔てる壁から聞こえてくる音に俺は耳を澄ます。
カチャッ…カチッ
小さく、聞き慣れた音がして、俺は反射的に網戸の方を見た。
隣の部屋の旦那がベランダに出てライターの火を着けたんだろう。
俺は咥(くわ)えていた煙草の火を灰皿の底ですりつぶして、ケースに戻すと真新しい煙草を取り出してベランダに出た。
「こんちゃっす」
俺は砕けた言葉で旦那に声をかける。
「火、貰えます?」
相手に返事をする間を与えずに俺はベランダの右端から煙草を持った右手を伸ばす。
「あぁ…どうぞ」
旦那はそう言うと、ライターをポケットから取り出して俺の煙草に火をつけた。
「あざっす」
「煙草吸うんですね」
「大学じゃ、皆吸ってますよ」
そう言いながら口に持っていった煙草を吸う。
ニコチンが脳みその中を駆け巡り、快楽が俺を満たした。
煙を吐きながら俺は旦那に話しかける。
「ガキって面倒っすよね」
「え?」
面倒は嫌いだ。だからこそ、さっさと終わらせる。相手の動揺なんてどこ吹く風だ。
「言う事は聞きやがらねぇし、すぐ泣くし、ただこねるし、何よりうるさいし……俺、親居ないから分かんないっすけど、大変っすよね~」
俺は煙草を咥えながら何でもない事のように言う。
「あぁ……まぁ、そうですね」
旦那はそう言うと、煙草を深く吸った。
「施設じゃね、職員の婆さんに良く殴られましたよ~。ま、今となっちゃ俺も悪ガキだったなって思います」
「俺もそう言う事はありましたね」
「あなた、やんちゃしてた口ですか?」
「まさか。思えば子供の頃はバカだったなって思うだけですよ」
「へぇ~、そういや、お宅のお嬢さん幾つですか?」
俺は相づちを打ちながら、自然な流れで話に本題をぶちこむ。
「あぁ、七歳ですよ」
「ふーん、じゃあ、後五年か」
「え?」
旦那は俺の言葉の意味を理解できず、腑抜けた声を出す。
「小学校卒業するまで、後五年でしょ?」
「あ~、そういう事ですか」
「小学校の二年くらいは……親について作文書くんでしたっけ?」
俺は目の前の団地の方を見ながら言う。
「え、あ~、そろそろそんな時期かもしれないですね」
「お子さん、何て書くんですかね」
俺は首を四十五度ほど曲げると、両の目で旦那を凝視した。
「お父さんは自分を殴る最低な人間です。ひどい時は火が着いた煙草を私の肌に押し付けてきます。服で隠れて見えないところにやるので陰湿です」
旦那は目を見開く。口を開いて俺に何か言おうとしたが、俺は構わず矢継ぎ早に口を動かす。
「お母さんは私に悪口を言います。使えないとか、役立たずとか言います。私がなにも言わないと、聞いてんの!って怒鳴ります。両親揃って屑です」
「あんた!なに言ってるんだっ!!」
旦那の怒鳴り声に冷や水をかけるように、俺は淡々と言葉を続ける。
「ここに来て一年が経ちました。その一年、ずっと部屋に居た訳じゃありませんが、このアパート、壁が薄くてね……」
「だからなんだってんだ!あんたに関係あんのか!」
旦那はなおも怒鳴り続ける。これでは自浄作用などは見込めないだろう。もちろん、そんな淡い期待など抱いて居ないのだが。
「別にどうだって良いんですよ、俺は。ただね、将来子供に殺されたくなければ……止めておく事だな」
最後の言葉の語気が少しだけ強くなる。
俺はそれだけ言うと、手早く網戸を開けて部屋に中に戻った。俺は咥えた煙草を右手にぶら下げ、左手で網戸を閉めた。
部屋の中に充満する煙草の匂いは気が狂う程臭かった。
俺はニコチンのくれる快楽目当てでしか吸ってこなかったが、元々煙草の味は嫌いだ。そして、今日もっと嫌いになった。
(匂いかぎゃ思い出しそうだな)
俺は隣の部屋の方の壁に視線を向ける。
あの屑はもうベランダには居ないだろう。
(夫婦揃って、闇討ちでもしに来るかもな)
そう言って俺はぶら下げた煙草の火を灰皿に擦り付けて消した。
「………とまぁ、今は理想の社会主義国家どころか、悪夢の貧困国家と化しているわけだが……」
大学ではその学問をありとあらゆる方面から学ぶ事が出来る。
ありとあらゆる方面から研究する教授が居て、多角的な視野を手に入れる事が出来る。と、口では言えるがこれは中々難しい。
今、この瞬間も教授の講義を聞いている訳だが、教授の話した言葉の一言一句、プロジェクターによって映し出された資料の示す事柄、意味、教授自身の結論、総評などをノートに書き写している。
これが出来るのは平均睡眠時間十時間以上を徹底しているからであり、そうでなければこんな授業を一日に六時間も耐える事は出来ないだろう。
「………与党も野党も国民の視点などと言うがね、そんなものは存在しないんだよ。一国民が思っている事はせいぜい物価が高いだの、給料が少ないだのそんな曖昧な事な訳だ。どうして、物価が高いのか、給料が少ないのかと考えても不況だからとか、政治家のせいだとか、そんな抽象的な考えで終わってしまう。足りないのは国民の視点ではなく、専門家の視点だ。政治家は……」
今受けているのは現代日本の経済状況関連の講義だが、これを研究している教授はだいぶ癖が強い。
今話している内容からも分かるが、一般人に対する憎悪とも蔑視ともとれる言動が多すぎる。
優秀ではあるのだろうが、広範囲に及ぶ一般人批判は学会でも眉をひそめられて居るらしく、学生からの人気も無い。
「………このままでは、国内の餓死者数、自殺者数、激増の一途を辿るだろう。人口が一億以下である今、これ以上日本人の生命が失われる事は国家存続の危機であると同時に、外国人につけ入れられる隙を作る事になる。そうなる前に、一般的な国民が良識を持つ事が求められる。今日の講義はここまで。課題を配る」
最後の最後まで自身の主張をたっぷり披露した教授は、講義を聞いていた十数名の学生にプリントを配る。
それを受け取ったものから部屋から退室していく。いつもの授業終わりの流れだ。
「内山君」
「はいっ」
プリントを渡しに来た教授に不意に話しかけられて、俺は驚きながらも返事をする。
「君は前に、日本は食料生産に従事する人々に対する保護政策を実行すべきと言っていたね」
「はい。食料自給率を高めるためにはそうするのが手っ取り早いと思いまして」
プリントを受け取りながら、俺はそれを言った時の事を思い出す。
確かあの時は、入学したてで今は冷めた情熱に身を焦がしていた頃だ。
「具体的にだ、そういう事に力を入れとる企業は知っとるのか?」
少しだけ、心臓が締め付けられる。
これからの展開に予想がついてしまった。それも、嫌な予想が。
「いえ……」
俺の返事に教授は目を細めた。
「自分の思想を実践している企業がどれくらいあって、どれくらいの資本力を持っているのか、総合的に企業としての戦闘力はどれくらいあるのか、それくらいの事はしっかり調べとかなきゃ駄目でしょ」
教授は吐き捨てるように言う。
「すんません」
「今回の課題でそういう癖をつける事だね」
教授はそう言うと、こちらに背を向けてプロジェクターを片付け始めた。
(無愛想……とかいうレベルじゃねぇわ)
俺は渡されたプリントに目を通しながら、部屋を出た。
さて、今日はこの後どうするか。
このまま家へ帰っても良いが、図書室で財政学の書籍を読み漁っても良い。
三年になれば必ず教授のゼミに入らねばならない。ゼミで課題やディベートをやる時に知識不足が露呈するのはかなり堪える。
大学は良くも悪くも学問の虫の巣窟だ。
その巣窟の中で、一つの指標として知識の有無というものが大きなものとなってくる。
大学の教授は教育者ではなく、研究者的な性格が強い。
プライドも高ければ相手を見計り、見下すのも早い(もちろん人によるが)。
そんな環境では妥協は許されず、日々精進し、励まなければならない。
(五時くらいまで本読んで、帰ってから課題やって……飯はどうするか…)
俺はなんでもない事を考えながら、部屋を出た足で図書室へ向かった。
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