22.如何様

俺は何がしたかったんだろうな。

去っていったクリスティーナの背を見やる事も出来ずに、私はただ己の無力さにうちひしがれた。

駄目だ。何も出来てない。

何のためにあんな事をしたのだ。何のために己が持っていた全てを捨てて、己の運命をこの組織に委ねたと言うのだ。

自分は何のために………

一時の感情ではなかったはずだ。これが、最善だと思ったのだ。為すべき事と確信したのだ。

だから、全てを擲(なげう)って異能力者のために、突然変異体のために、闘争に身を投じたのだ。

それなのに………

(私は一体、どこで間違ったと言うのだ……)

そんなもの、答えは胸の内でとりとめの無いもやとなって、蠢いている。

分かっているのに、分かろうとしていない。その結論にたどり着く事を頭が拒否しているのだ。

(クリスティーナ……私は何も出来なかった………君を救ってやれなかった……本当の意味で……)

自責の念は絶える事を知らず、己を飲み込まんとする勢いで湧き出ては、心を自己嫌悪の情で満たしていく。

もっと早く気づいていれば、もっとクリスティーナと話をしていれば、もっと関心を持てていたら………

そんな言葉ばかりが浮かんで、私の頭を覆い尽くそうとする。

その瞬間、頭の中に強い衝撃の怒号が叫ばれ、覆い尽くそうとする言葉達を粉々に砕いた。

『薄っぺらい……薄っぺらい言葉を並べるな!何も出来なかった?!違う!!何もしなかったんだ!!』

その言葉は自分すら気づいていない深層心理が放った、己の奥底にあるどす黒い感情を断罪するものだった。

『お前は、何もしなかった。彼女と逃げてきた時、お前は真っ先に自分の身の安全を最優先した。亡命してきたと、逃げてきたと組織の者達に告げ、身の安全が確保されるやいなや、自分がこの組織で何が出来るか、何に協力できるかを述べ、自分を売り込んだ。その間、お前は彼女を案じる事がなかった。違うか?』

その言葉は、痛い程正しかった。

そうだ。その通りだ。

冷淡にも、私その時、自分の生存の道を探った。

逃げ出した瞬間、車のハンドルを握りしめ、逃走ルートを頭の中で思い起こしながら、はやる気持ちを押さえ付けて、アクセルを踏みつけて、街を疾走していた瞬間、ふと、心を掠めたのだ。

完全に自分が人生のレールから外れた事という実感。失い、投げ捨てた全てを得るまでに費やした時間と努力。それが、今、灰塵に帰そうとしている。そう思ってしまったのだ。

瞬時に腹の底に冷たいものが走った。

そこからはただ、身の保全しか考えられなかった。彼女は大丈夫だろうとも、たかをくくってしまった。

(仕方がないじゃないか。職業軍人が命令に反する事をしたんだ。そうなるのは当然じゃないか)

その時の行動を擁護する言葉も頭に浮かんできた。だが、「それは果たして彼女よりも優先すべき事だったのか?」という疑問の前に風前の灯のように消えて行く。

彼女は……彼女は、いきなり、何も告げられず、外に出され、他の大勢の被験体と共に、初めて外の世界を見たのだ。

幼子のように眼を輝かせ、その瞳に映る全てに感動し、身体が生と自由を実感したその日、その時、何の心の準備もないまま、車の荷台に乗せられ、初めて見る組織の施設での生活を余儀無くされたのだ。

見知った大人は居ない。いきなり、自己紹介をされ、根掘り葉掘り施設での事を聞かれたかもしれないし、その時に辛い記憶を呼び起こしてしまったかもしれないし、心の中を土足で踏み荒らされるような、そんな屈辱を味わったかもしれない。

私だって、強化複合ガラス越しに互いの姿を数回視認しただけの関係だ。それでも、誰も居ないよりましであっただろう。

その時、私が側に居れば何か変わったのだろうか。彼女はこんな事をしないまま、一介の研究員として生涯を終えたのだろうか。

そもそも、私に彼女の行為を咎める事は出来るのか。その権利はどこにあるのか。

彼女の復讐の意思はそう易いものでは無いし、一朝一夕で芽生えたものでもない。

生まれてこの方、尊厳を奪われて、実験台としてしか存在する事を許されなかったのだ。一人の人間としてではなく、統計上の数字の一個体、番号の一つとしてしか認知されず、酷い実験を何度も何度も繰り返され、様々なものを失った。

そんな彼女の意思を、彼女の復讐の手段を私が妨げるような事をして良いのだろうか。

「何が分かんだよ!!作られた訳でも無いのに!」

クリスティーナの叫びが呼び覚まされる。

そうさ、分からない。分かる訳がない。

ガラス越しに好奇の眼で見つめられ、愛でられず、愛されず、一人ずつ隔離され、同じ境遇の者同士で痛みを共有する事も出来ず、傷口を嘗め合う事も出来ず、ただただ、身体中に様々な器具の尖端が入って、薬剤を投与されて、自分が自分じゃなくなるみたいな感覚がして、頭がおかしくなりそうで……何が正気かも、もう分からなくて………

そんな感覚に陥った事はない。

クリスティーナと私の間には完全な価値観の断絶がある。

彼女はもう既に壊れてしまったのだ。いや、壊されていたのだ。

心を壊され、自分を取り戻せずに、復讐に囚われてしまっている……

そんな彼女に私は……何も出来る事がない。

何も、何一つ、してやれない………

(彼女をここに連れてきたのは私なのに……)

あんな風に苦しむなら、彼女はまだ、ガラスケースの中に居た方が良かったのだろうか。

知らない方が良い事がこの世にはたくさんある。私は彼女に、知らない方が良かった事を知る術を与えてしまったのかもしれない。

(何で、何であの時、助けなければならないと思ったのだろう)

今にして思えば何の意味もなかったじゃないか。何だと言うのだ。彼女を苦しめて、復讐に駆り立てて、心をボロボロにしながら、研究をして自分と同じ作られた存在を作っていく……そんな末路を考えれば、私は何の意味もない事をしてしまった。

(私なんて……生まれてきた意味など無いじゃないか……)

何が国を守るだ……そう心から言えた時代が懐かしい。

(私みたいな奴は結局、何者になれず、誰の事も救えないんだな………)

私は金網に眼を落とし、下の風景を覗いた。

濁った水槽の周りを隣接する形で作られた金網の足場は何層にもなって連なり、どこからでも水槽を直接覗き込んで観察する事が出来る。

もちろん、定点カメラなどはあるだろうが、それよりも実際に自分の眼で見て確かめたいのだろう。

クリスティーナも研究者としての性(さが)を持っているという事だろうか。

覗き込まれた側が覗き込む側になる……立場逆転は世の常だが、それでも、クリスティーナにとって、それが良い選択であるとは思えない。

(染まっちゃいけないんだよ……)

悲しい眼をして、あっけらかんとして、愉しそうな笑みを張り付けて、元気な早口で、現実逃避をしながら、耐えながら、復讐のために己が一番蔑んでいたであろう存在と同質の存在に成る。

そんな事を喜んで出来るはずが無い。

だが、復讐のためにはやむを得ないという熟慮の上の行動なのだろう。

それについて、私がとやかく言う事は出来ない。

今出来る事があるとするなら、何かに押し潰されないように、気にかけ、関わり、彼女に少しでも良いから、人間としての温もりを与える事だけであろう。

しかし、そんなものが意味を為すとは思えない。それに、これは彼女なりの拒絶できないのか。

自ら忌むべき行為を披露するような事をしておいて、明日も顔を合わせるとは思えない。

もう、彼女は二度と私と会ってくれないのだ。

もう、終わりなんだ………

自然と私の頬に涙が伝う。

何だって言うんだ。何で涙なんて……

(そんなもの流して何に成るんだよ……あの子は……もう………)

ガラスの中でも、外でも苦しむあの子は私では救えない。

そう痛感して、私の心は虚しさで一杯になった。

自分があまりにも憎かった。何も出来ない、何も与えられない、何も為せない自分が、あまりにも無力すぎて憎かった。

(何のために、身体を鍛えた?何のために、誰かのために戦う事を学んだんだ?何のために、生まれてきたんだ……)

私は無力だ………無力すぎる……

そう思いつつも、冷酷な声が頭の中で響く。

『一体、自分に、いつ、どこで、何が出来たのだ?あの子に何かをしてやれたのか?』

この声もまた事実であった。

どうせ、私は何も出来ない。

ただ、流されるままに、何も考えず………

今だってそうだ。結局、誰かの決定に従って、誰かの言う事に合わせて自分の生き方を変えて……

(何だって言うんだよ………)

圧倒的な無力感、何も為せなかった事に対する虚しさが私の心を満たしていく。

こんな時にも、自分を擁護する声が止まない。

「どうしようもなかった」「どうにも出来なかった」「仕方がなかった」「そうなる運命だった」そんな言葉が湧き出ては空しく心に響いて消えていく。

そんな言葉達も、私の心を虚しさで満たしていった。

私はそんなとりとめの無い負の感情と虚しさと共に、隔離場所に背を向けた。

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