40.実情と英雄

「やれ」というたった一言と、むせ返るような煙草の匂いが、共同体が私を受け入れてくれる確証とは、笑い話にもならないが、当時の私はやっとゴーサインをもらったという気分だった。

自衛隊時代にも長期間の観測、監視をした事はあったが、逆の立場になったのはその時が始めてだった。

予想以上のストレスだったよ。見られているのに、気づいていないふりをして、毎日を当たり前に、普通に過ごす…………

私は軍人であって諜報員ではない。監視され続ける日々を、平常時と変わらずに過ごすというのは耐えがたいものがあった。

常に、自分の一挙手一投足が相手に筒抜けで、悟られてはいけないというプレッシャーだけが俺の頭に残り続ける。

慣れない感覚だったよ。想像をした事もない日々だったが、えもいわれぬ不快感が消えなかった。

想定以上の心労だったよ。実験を見るのを耐えられずに、薬に頼った俺なんかにはね。

だから、ゴーサインが出てからは速かった。

計画を見直し、計画遂行上の障害を洗いざらい見つけ出し、対処法を幾つか出して、最も効率的で時間のかからないものを選別する。

それが出来たら、計画に必要なものを思い付き次第、片っ端から集める。手に入れる事が出来ないなら自作できるかも考える。

それが済んだら、ようやく計画の実行日を決める。

警備が手薄になる日とかがあれば良かったんだが、生憎、警備担当が変わるとか、新しい防犯システムを導入するとか、そういう話はなかった。

だから、給料日の翌日の休みにした。

休みなら研究員は基本、自室でくつろぐか、実験棟で何らかの実験を行うはずだ。給料目当てでこんな施設で研究をやってるような奴は一人も居ないから、油断とか気の緩みとかそんなものは期待できないが、警備の人員はいつも通り、巡回の時間も、休憩の時間は同じだ。少し違うのは、休日という事もあって、事務用員が居ない事。

そして、俺が来る事だ。

実験の立ち会い、試作品の機能テスト、作業計画の打ち合わせ、具体的な配備部隊と生産場所の選定……そんなものが俺が施設が行う業務だ。休日出勤してまでやる事じゃない。

ばれないように侵入しようとも考えたが、監視カメラにはサーモグラフィー機能があってな、侵入は絶望的だった。だから、正面突破以外になかった。

それなら、平日でも良いとも思ったんだが、白昼堂々討ち入りをする訳じゃないが、人の数が多い分、逃がす確率も高くなる。

休日は事務員が居ないから、圧倒的に施設の人数が減る。それだけでも申し分ない利点となる訳だ。

だからこの日にした。まぁ、最低なヲチがつく結果とはなっちまったが………………

それでも決行となりゃ、もう準備は出来ていた。

拳銃一丁とサイレンサー、それと弾薬4ダース(ダースとは単位の事。1ダース12なので、48発)。それだけあれば基本は事足りる話だった。

後は、当日の施設の活動スケジュールに、逃走用の車両の移動申請書。これは決行当日に書類の日付を改竄したものを用意し、施設に大型車両を持ってきても怪しまれないようにした。

かくして、準備は整った。



決行当日、物資運搬用の大型車両に乗って施設に入った。君達被験体を全員救うつもりだったから、車両には何も積んできてはいない。空っぽって訳だが、そのまま施設のゲートを通過して侵入するのは不味い。


偽造した車両の移動申請書を出して、何とか怪しまれずに中に入る事に成功した。

そこから先は正直、簡単な作業さ。

拳銃一丁を持って、監視室に直行。警備の人間とは前々から顔見知りだったし、監視室には何度も入った事があった。警備体制の確認とかそんな建前を並べてな。

奴らは俺が生体認証をクリアして、監視室に入ってきた時も全く警戒していなかった。こちらの方を一回振り替えって、すぐに監視カメラの映像に目線を戻していたよ。だからこっちは、奴らの背後から銃撃をするだけで良かった。十秒もかからなかった。ものの数秒で監視室は俺の手に落ちたよ。

警備員を全員抹殺した後、監視室に居た警備責任者の無線を使い、監視室にいた警備員の無線のチャンネルを変えていって、順に「異常ないか?」と問いかける。

そして、応答があったらそいつが、巡回中の警備員だから、監視室に呼び出して、その都度殺していった。

巡回役を全員殺し、その日の警備に当たった人員全員を殺害した事が確認できてから、監視室のカメラの撮影データを消去し、電源を切った。

これで、サーモグラフィーでこちらの位置が分かっても、自動で警告音が鳴る事態は避けられるし、何より、自分の行動を記録される事はない。

抑えるべき場所を初手で手に入れられた。計画の第一段階は見事に完了した。




「あの…さ……」

「あ?何だ?」

私はつい、口を開いてしまった。そして、飛び出そうとする言葉を必死に押しとどめようとして、違う言葉を全力で探した。

降川がこっち側の人間じゃないって、思いたかった。

「……あ…」

私は口を動かすも、何を言えば良いか分からなかった。聞きたい事はある。聞いておきたい事はある。だが、その一言が降川に途方もない精神的衝撃を与える可能性が十分にあった。

その危険を無視してまで聞くべき事だろうか。聞いておかねばならない事だろうか。それを聞いてどうするというのだ。どうせ、自分が安心したいだけのくせに…………

(私達を助ける前に、何人も殺してる……きっと、見知った顔だってあったはずだ。私だってもちろん、人の事は言えない。だけど、少しで良いから………)

「……何か、聞きたいのか?何だ?何でも聞いてくれて構わない」

痛い……

降川はこんな時にも私に気を使った。その優しさが私の汚れた心に苦痛を強いる。

(自分からダメージ受けに行ってんだろ……わざわざ話の腰を折ってさ………さっさと聞けよ、盆暗がぁ!)

「あ、あの…じゃ、じゃあ…聞くけど……」

「あぁ、良いぞ」

私は自分自身に鞭を打った。やらねばならないと思うなら、やるまでだ。自分で決めた事はやり通さなきゃ意味がない。実を結ぶまでやるしかない。

(もう、こいつとの関係なんてとうに終わってんだろ?!今更何を気にすんだよ!言え!言っちまえよ!!)

私は私の背中を押した。気弱で、何にも出来ない木偶でくの坊。自分を傷付ける事は出来るのに、他人を傷付ける事も、人工生命体を傷付ける事も出来るのに、この人の事だけは傷付けない。傷付けられない。

それでも……………………

「警備員を殺す時………良心は痛まなかった……?」

我ながら何を聞いているんだろう。この人は軍人だったのに。

やると決めたらやれるように訓練するのが軍事組織というものだ。躊躇なんて、同情なんて、そんなもの、命令一つで洗い流され、消えるものだ。

(私と違って、出来る人だよ……それも、自分のエゴのためなんかじゃなく……さ……)

大義。この人は大義のために、やったんだ。良心のしもべなんだ。さっきは自分のけつに火が着いたからとか言ってたけど、そんな事無い。

(私だったら出来ない。キャリアも、家族も、立場も、何もかもかなぐり捨てて、自分とは何の関係もない赤の他人を助けようとは思わない。けれども、この人はそれが出来る人なんだ。尊敬に値する人なんだ。だから………)

私は私自身も知らない内に、降川という一人の人間を偶像化していたようだ。

自分でも気付かなかった。降川の事を思えば思う程、崇敬すうけいと憧れの情が湧いてくる。

私はここまでこの人に惚れ込んでいたとは思わなかった。

降川は私の質問に、ほんの少しの間、目線を下に移し、すぐに戻してから、私を見据えて、少しばかりの躊躇を悟られまいとしながら、顔をこわばらせた。

「痛んだ……と思う。家族が居る奴だって、好きな奴が居る奴だって、金を貯めて、ものを買おうとしてる奴だって、施設での仕事に、実験に文句を言ってる奴だって居た。だが、全員殺した。全員だ。全員………」

降川は奥歯を噛み締めながら、両の手のひらを見た。

「俺の手は血塗ちまみれどころか、赤黒あかぐろくなっちまってるんだ………自衛隊時代とは違う。人体実験、それを元にした兵器開発、元部下を被験者に、遺伝子情報の注入による身体変化………もう、その時よりもずっと前から役満なんだよ………殺しに裏切り……それが増えたところで…何一つ変わりゃしねぇよ……………」

降川は己を嘲笑うかのように吐き捨てた。だが、口角は上がらずに、むしろ下がったままであった。

「後悔した事は無いと言えば嘘になる。だが、どんなに悔いたって殺した奴らは生き返らない。実験で死んだ連中もよみがえったりしないんだ。だから…もう、そんなのは辞めにした………」

降川は私を見てそう言った。

全てを諦めきった男の目がそこにはあった。生気は辛うじて感じられるものの、そこには活力の類いはなかった。

枯れ木となるにはまだ早いが、そうなるだけの事を経験してきたのだ。燃えよという方が酷である。

「何で…そんな事を聞く?」

顔色一つ変えないままに、男は尋ねた。

「お前は……俺に何を期待したんだ?」

かすれたような、淡いような、僅かな音でかき消えるような声だった。

「…………こっち側じゃない事を祈った」

「こっち側?」

「私みたいに自分のエゴのために他人を無闇矢鱈に傷付けてないって思いたかった」

私の答えを、男は鼻でわらった。

「ふっ…………で?そう思えたのか?」

口角を少しだけ上げて、男は自嘲気味に吐き捨てた。先ほどから、男は自分を嘲笑う事が多いようだ。それだけ、自己嫌悪の情が身の内を渦巻いているのだろう。

(やっぱり……優しい人だ)

「思えたよ。八割ぐらいは」

私は心の中とは裏腹に、下手に明るい声を出す事無く答えた。

「……残り二割は?」

「そうだなぁ……」

本当は、今すぐにでも目の前の男を励ましたい。くだらない冗談を言って、場をなごませたい。しかし、今はそんな事は求められてなどいないのだ。

「貴方も普通の人間、って思ったかな」

「……………何だそれ」

私の答えに、男はしばしの間沈黙していたが、すぐに悪態あくたいにも似た疑義を吐いたが、私はそれに笑みを浮かべてみせた。

男はそれを見て、眉間にしわを寄せたが、私は笑みを浮かべ続けた。

もう全てにおいて納得がいった。

世間体やら、倫理やら、道徳やら、そんなものはどうでも良い。

ただ一つ、自分が思うならばそうなのだ。

この男は“私の英雄”。私の頭上の夜空に輝く一番星なのだ。

確かに思った通りの人ではなかった。聖人君主で無いのは明らかだ。けれど、それで構わない。

私みたいな害悪が、そっと敬うに値する。それがこの男の実像なのだ。

「気持ち悪いぞ。そんな風に笑って………」

「別に良いでしょ?それより、早く続きを話してよ。早く早くぅ」

「わあったよ……」

男は私の笑みに困惑しながらも、口を開いた。

「監視室をやったから、相手の目は潰した訳だ。目を潰した後は、時間との勝負だ……」

男の言葉はぶっきらぼうだが、なんだがそれが心地良い。私はきっと、この男がどんなに薄汚れても、自己嫌悪に走って自らを傷付けようとも、側に居たいと思える。この人の傍で生きていたいと思える。

だってこの人は、私の、たった一人の英雄なのだから。


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