24.言えない

 玄関戸を開けると、祐が土下座していた。

「悪かった」

 そう言って祐はしばらく額を床に擦りつけたままで黙ったので、私の胸には気まずさや恥ずかしさを通り越した怒りがふつふつと沸いた。

「謝ったって、なかったことにはならないよ」

 考えなしの言葉が私たちの間の空気を重くする。「分かってる」と絞り出したような声が、床と平行の大きな体とちぐはぐに感じる。

 祐なりに悪いと思ってるんだ、そう頭では理解しても、私はそのとき祐を追いつめることに躊躇いはなかった。

「なんであんなことしたの」

「つい……思わず」

「は? つい? 何それ」

「い、いやだから本当に、この通り! 俺が悪い!」

『つい』で私のファーストキスは消えた。軽すぎる気持ちで。

「……もういい」

 ひどい苛立たしさが胸を痛めつけていた。でも我慢した。私はまだ丸まってる祐を避けて、客間の定位置に腰を下ろした。だって勉強をしにきたんだからそのために来たんだから。

「おい、紗世」

 情けない声がかかって、私はますます苛立った。

「もういいってば! 早く勉強するんでしょ!」

 私ってこんなイライラした声も出せるんだと変な客観視をする間に、祐ものろのろと向かい側に座った。それはもう怯えた様子で、もし耳があったら垂れ下がっていたと思う。

「なんで何もないの」

 テーブルには祐の勉強道具が用意されていなかった。

「謝るためだけに呼んだの?」

 棘だらけの声だと思うけど、制御できない。

「お前……怒って帰ると思ってた。ここではひとりで勉強したくねぇから……」

 正座の祐は大きいので私は下から睨みつけた。

「自分の蒔いた種じゃん。私、勉強しないなら帰る」

「うん……だから、紗世。ごめん」

 私は過去最大のため息を吐いて、そして祐を許すことにした。

 ぺちん!

「反省してよね」

 音の割には叩いた私の指の方がダメージを負った。ひりひりしてテーブルの下で握りこむ。

「……全然痛くねぇ」

「反、省、してよね」

「はい」

 でも許しちゃだめだった。


「ねぇこれ、何?」

「見りゃ分かるだろ。手、繋いでる」

「なんで繋ぐの?」

「……」

 確かに私は、朝は一緒に登校することを了承したし昨日は全部飲みこんで許した。でもだからって。

「おかしくない?」

「嫌なら言え」

 人が乗ってきたら離す、と続けた祐に、私は呆れてしまって結局しばらく手を繋いだままでいた。

 それから祐は毎朝、私の手に勝手に触れて、指の付け根同士をぴたりとくっつけないと生きられないみたいな顔をするようになった。

 もう充分に苦しさや痛さを経験したつもりだった、それなのにやっぱり私は祐にもう一度「なんで?」と聞けないまま、窓の外を眺め続けた。

 やっぱり私は弱い。

 キスされる前も似たようなモヤモヤで距離を取ったはずなのにまた元に戻ってる。こういうことは付き合ってないとしちゃいけない、嫌じゃないけどしないで。そう伝えればいいと分かっているのに。

 祐はきっと、私が思うよりもすごく軽い気持ちでしてるんだろうな。

「なぁ、明日単元テストある」

「うん」

「週末じゃねぇけど、ちょっとでいいから教えてくれ」

「……いいよ」

 バスが停まって、ふっと手が離れた。

 すぐに汗が冷える。

 指の隙間が広がったみたいな違和感を、バッグから単語帳を出してやり過ごす。

 なんか繋ぐの慣れちゃったみたい。

 その思考を消すために、私は必死に単語を覚えた。



「ねぇ勉強しないの」

 その返事は「プリント一枚した」で終わりで、短すぎる言い訳は私の背中に吸いこまれる。

「何してんの」

「……別に」

 どうやら辰おじさんは今日も夜勤らしく、家中は静まり返っている。私は英作文、祐は私の左横から抱きついて頬を私の背中にくっつけている。窮屈そうに。

 ごく自然に立ち上がったと思ったときにはこうなっていたから始末が悪い。

「すごくやりづらいんだけど」

 さすがに逸る心臓を誤魔化すために、わざと不機嫌な声を出した。私の両手は自由。でもまだ塾の宿題は終わっていない。

「気にすんな、もうちょいだけ」

 もうちょいとは。

 何周回ったか分からない思考で、私は考えることも諦めた。困り果てた、もう面倒だからそのままにしよう。

「なぁ」

「うん」

「嫌なら言えよ」

「……じゃあ最初からくっつかないでよ」

「無理」

 お腹にまわる腕が締まった。バランスが崩れて片足が浮く。

「ちょ苦しい、離して」

 悪い。素直な謝罪は短くて、私の体勢も元に戻った。でも今度は頭に頭がくっついている。髪に息がかかるのがくすぐったくて肩を竦めた。

「祐、なんか今日」

 変だよと言いたかった。そういえば平日なのに家に呼んだことからしておかしい。おばあちゃんのこととか学校のこととか辛いのかな。でも今日の触れ方はちょっとしつこい。また『つい』で何かされるのはごめんだった。

 祐はまた腕を強く締めて、私の言葉を潰した。

「夏さ」

「え?」

「……長くても、彼岸までだから」

 どきりとした振動はきっと伝わった。

「花火、買っとくから」

「う、うん?」

「そしたらもう、まとわりつかねぇから」

 ごつんと頭がぶつかって、ざりりと祐の髪が擦れた。

 私は黙っていた。

 祐もしばらくそのままでいた。どこか一箇所だけでもくっついてないと不安で仕方がないと、今にも泣き出しそうな空気に私はやっぱり振り払えなかった。

 彼岸まで。

 その夜、私には何ヶ月ぶりかの生理がきて、重いお腹を抱えてタオルケットにもぐりこんだ。やけに蒸し暑くて、私は何度も寝返りを打っては細く聞こえる虫の声に目をつむった。



 ◇



 じゃあカレーに決まりでーす、と実行委員の子が多数決を読み上げた。

 今日のLHRは学祭の出店についてで、ざわめきは浮ついて楽しげだ。

『カレーってw』『ガチw』『無難路線どこ』藍衣から断続的に送られてくるチャットからも、抑えきれない興奮が伝わってきていた。

『でも楽しみだよ』

『まぁねw』

 みんな勉強だらけの日常に飽きてたんだな。

 振り返って視線を合わせる藍衣や、具材の話で盛り上がる周囲にホッとする。私だけじゃなかったと、素直に楽しんでいいんだなと思う。

 カレー、結構売れそうな気がする。

 クラスの中で目立つことのない私は、そんな風に話し合いの進行をただ見守るのに徹していた。

「じゃあ試作のカレーを作る係に立候補はー?」

 悪ノリした男子のせいで黒板にはありとあらゆるカレー名が並んで『何カレーにするか』という議題は早々と膠着した。どれも美味しそうで楽しそうだからだろう。そうして「儲けが出ないと」「予算内に収まるようにしないと」と正論が飛び出して、試作の話になった。

 つまりできるだけ安く、美味しいカレーを作ってみる係だ。誰も手を挙げない。私も他人事。だって人に食べさせるほど料理できない。

 気まずい沈黙が教室中に流れかけたとき、

「はーい、やります」

 藍衣がひらりと手を挙げた。間延びした声にみんなが注目した。

 あれ藍衣って料理得意なんだっけ、と首を傾げたとき彼女はくるりと私を振り返った。

「紗世と一緒にやりまーす」

 げ、と私は思わずのけ反った。



「だって、紗世にはあいつがいるじゃん」

「あいつって……祐のこと?」

「うん、だって他にあんなに料理できる奴いる?」

「いない、けど」

「ならいいじゃん使える奴は使おうよ。最後の学祭だしなんか係やりたくない? 当日作る人は他の準備免除されそうだし。紗世も一人暮らししてたんだから、それなりに料理できるでしょ?」

 うぅと唸っても藍衣はどこ吹く風ですでにインスタを眺めている。

 今日は塾には寄らず、それぞれ真っ直ぐ帰ることになっていた。駅までの短い道すがら、私たちはさっきの無茶振りについて延々と話をしている。

「ほら、こういうトッピングとか簡単で映えそう。追加料金取れそうじゃない?」

 藍衣、めっちゃ楽しそう。

 私は藍衣の様子に負けて、「ホントだ」と返事をした。画面にはハート型のご飯のまわりにカレーがかけられていた。チーズか何かの星も散ってる。

 内心げんなりしていたけど、あとから私たちの他にも立候補が出たこともあって腹を括ることにする。

「分かったよ……祐に相談してみるね」

「絶対美味しいやつね。それ以外許さないって言っといて」

「エェ」


 今日のうちに電話で話すか、明日の朝に話すか悩んだ。試作は来週の月曜日。家庭科室で作ることになっていたし、あの藍衣の様子では少しでも話が進んでないとうるさくなりそうだ。

 でも、と何度も指が止まった。

 会うのは朝と週末の夜だけの約束。昨日の夜も会ったのに連絡していいか、また距離感がおかしくならないか。

 ううん料理を教えてほしいなんて、祐は面倒に思うかもしれない。

 「八時半なら……起きてるかな」

 家電にかけるには少し遅いけど、祐の家事が一段落するのを待つとそれくらいのはず。時間を決めても意味もなく緊張して、八時二十分頃から何度も時間を確認してはインスタやネットニュースを閉じたり開いたり、急にお風呂に入ろうか悩んだりした。そして時間になったらなったで、やっぱり朝にしようかと迷う。

「やっぱり自分で考えた方が……でも相談するだけならうーん」

 そこから四分悩んで、別に普通にかければいいじゃんと我に返った。会うわけじゃないしただの相談、きっと五分で終わる話なんだから。

 意識してるみたいで恥ずかしい。

 最近登録した、『海藤祐』をタップした。


『学祭?……そういや俺んとこも何か話し合ってたな』

「祐のクラス何するの」

『知らねぇ』

 エェと私が言うと、祐が『興味ねぇし』とつまらなそうに答えた。

 まぁ私もそこまで興味なかったけど、と思いつつスマホを耳に当てたまま寝転ぶ。

 電話に出た祐はなんとなくぎこちなかったけど、説明すると会話は途端にスムーズになった。

「それでね、来週カレーの試作をすることになって」

『試しに作るってことか?』

「そう。それで相談にのってもらえないかと思って……私、そんなに上手じゃないし」

『だよな』

 即答の肯定に言い返しかけたけど、祐の低く笑う声に私もなぜかニヤけた。

『なんでお前が』「藍衣に巻きこまれちゃってさ」『あーあいつか』「立候補みたいになって困ってて。一緒に考えてくれる?」『……仕方ねぇなぁ』

 私たちは明日バスの中で相談することになった。

「じゃあ」と耳を離して切る直前、『おう、おやすみ』と聞こえたけど、あっと思ったときにはそのまま切ってしまった。

 七分十二秒と表示が出ていた。

 ごめん切っちゃったおやすみ。他の子にならすぐチャットできたのに。

 私はスマホを枕に放って寝た。


 *


「問題は肉だろ。外で作るなら鶏と豚はすぐ傷むから却下だな」

「そっか。聞いてみないとね」

 スマホにメモする。

「それか挽肉にしろよ。扱いやすいし、煮込む時間少なくて済むぞ」

 なるほど確かに。

「辛さとかスパイスで変えられるから、激辛とかやれよ。ウケそう」

 祐の目尻が緩んで、「そういやお前、言うほど辛いのダメだっけな」と笑った。麻婆豆腐のときのことだと思い当たって、私はムッとする。

「いやあれは祐が豆板醤入れすぎたんでしょ」

「まぁテキトーにやったのは間違いない」

「ほら」

「ははは、次はもうちょい減らすわ」

 バスに人が乗ってくる。でも祐は珍しく話し続ける、私も相槌を打つ。

 料理にも節約にも詳しいからか、祐の声は低くとも饒舌だった。

「何人分作るかで予算も決まるだろ」

「ご飯も炊くと大変そう」

「……水加減間違ったらヤバそうだな」

 一升ダメになるとかヤバすぎるね。カレーより米の方が責任重大だよな。

 乗り換えて駅に着いて、今朝は一度も手を繋いでないことに気がついた。

 いつも別れる柱のところで祐を振り返ると、頭をポンとされた。

「また、なんか聞きたいことあれば電話しろよ」

「うん」

 すごく自然に別れたあと、歩くごとに頬が熱くなって私は俯いて歩いた。

 やっぱり慣れちゃってる!

 人目があるところではやめてって言おう。今度こそ絶対言おう。

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