31.好きだから

「紗世、ちょっといい?」

 急に母さんの声がして私は芋虫のままびくりとした。

 出口がどこか分からなくなったタオルケットからやっと顔を出すと、母さんは見ていたようですっかり呆れていた。

「髪の毛ぐちゃぐちゃ」

「いいよ……別に」

「あのね。紗世、やっぱりあたし」

 ベッドに浅くかけた母さんは目を伏せた。それで言いたいことは伝わった。

「チケット取れたの?」

「うん明日の午後の便」

「いいと思う。父さんきっと待ってるよ」

「ごめんねダメな親で……。でも絶対、来週末には戻ってくる」

 そんな短期間で父さんが良くなる訳がない。胡乱な目を向けると母さんは私の肩にそっと触れた。

「信頼できるハウスキーパーを雇ったらすぐ帰ってくる。身元のしっかりしたお金を盗まない色目を使わない料理の上手で掃除が得意な」

 母さんの目が据わり始めて「分かったって」と遮る。一泊置いて疲れたような笑みを浮かべたのに肩をすくめた。

「だから紗世は辰くんのところにお世話になってね」

「……え?」

「もうお願いしておいたから。ちゃんと食費も光熱費も渡してきた」

 固まる私をよそに、「一日三食祐くんのご飯ってなかなか魅力的でしょ」なんて言う。

「いや……私、ひとりで大丈夫」

「ダメよ。嫌なら一緒に来て」

 チケットはちゃんと二枚押さえてある、と睨まれる。どうすると聞かれるまでもなく私は降参した。

「分かった一週間ね。もし延びたらウチに戻るから」

「約束する」

 おばあちゃんの件も担当のケアマネに相談済み。あと二週間の内には空きが出そうだと連絡があったところだったから、母さんも悩んだそうだ。

 でも祐から父さんのことを聞いた辰おじさんが『馬ッ鹿野郎!』と電話を寄越して『さぁちゃんのことは任せとけ』と捲し立てて母さんを説得したらしい。

「元々は辰くんの家のことだものね。今待ってるホームは辰くんも納得してくれた施設だから何とかなる……と思いたいわ」

 荒れてた頃の昔馴染みだけど気難しいにも程がある、と苦笑する母さんの横顔は優しい。母さんは私に何度も謝って、荷造りをすると言って部屋を出ていった。


 母さんが父さんのところに行くのは時間の問題だと思ってたから、それは大丈夫。

「明日から……一週間?」

 唸りながらタオルケットと一緒にぐちゃぐちゃになる。膝がパイル地に掠って痛んだ、あのとき擦りむいてしまったから。無駄に長いはずのスカートは何の役にも立たなかった。

 頼みの綱の藍衣も「あれはたぶん誤解」で話題を変えてチャットも寄越さない。だから私はベッドで芋虫みたいになるしかない。

 なんであんな時間にあの子と?

 なんで腕組んでたの?

 なんで目が合ったのに——?

 勢いのまま捲したててしまいそうで、祐に会いたくない。

 私に「好き」って言ったのに。

 ひどい独占欲で全身が塗り潰されて足の先まで冷えていた。真っ黒だ私は今、真っ黒。母さんと会話してるときでさえ、祐の後ろ姿がちらついて、私にしがみつく腕の感覚がまとわりついて「なんで」と漏れそうになるほど。私の頭は祐でいっぱいだった。

 

 夜中に会った日、玄関先で別れるとき祐は最後に「週末会えるか?」と私の手を握った。いいよと答えると、返事みたいに手を強くぎゅうっとしてから祐は帰って行った。

 私って、祐の何だろう。

 祐を『友だち』とか『彼氏』とか、そういう言葉に当てはめられずにいた。でも今は、どうしても祐の彼女になりたい。その口約束みたいな肩書きがあの子との繋がりを切ってくれるなら、私は——。


 模試の数学にだってこんなに頭を使ったことないかもしれない。こうしてああして、と考えた。

 聞かないことにしよう。

 きっと事情があったから。

 だから私は、ちゃんと告白しよう。

 もぞもぞ起き上がった。手櫛で髪を直す。荷造りをしよう、テキトーなジャージじゃなくてちゃんとしたパジャマと部屋着を持っていこう。

 ベッドから下りた、丸い親指は白っぽくて見るからに血が通ってない。

 ちらりと見たカレンダーの一週間後は祝日、お彼岸だった。



 ◇



「荷物、多くね?」

 リュックと荷物バッグ二つと制服を抱えて玄関に立つ私に、祐は目を丸くした。

「え、でも洗面道具とか全部持ってきたから」

 デニムスキニーにローファーの私に怪訝な肯きを返して祐は「入れよ」とバッグを持ち上げた。

 案の定、客間に通されて私もホッとする。もはや自分の部屋かと思うくらい慣れた場所。ひとつ奥への襖も開いていて、隅に自立式の洗濯干しが置いてあった。すごくありがたい。

 祐はテキパキと辰おじさんのシフト表とヘルパーさんの予定表を見せて、「いつもバタついてるけどお前は気にしないでゆっくりしてろ」とエアコンのリモコンを私に手渡した。

「夜飯は七時、朝飯は六時半から」

 私は思わず吹き出した。何だよ、と祐がムッとする。

「だって、なんか旅館みたい」

「決めといた方がいいだろ。……風呂は沸かすなら言え。シャワーは声かければいつでもいい」

 お風呂は大事だ。一転して真剣になった私に、今度は祐が苦笑した。

「困ったことがあったら言えよ」

「うん、ありがとう」

 俺はだいたい茶の間かばあちゃんの部屋にいるから、と祐はすんなりいなくなった。


『まじマンガ展開草』『緊急時は蹴れ』『最終避難はウチで』

 藍衣もそれなりに心配してくれてるらしく、断続的にチャットが入ってるのを見返す。『ありがとう』以上の気持ちを伝える言葉が欲しいのになくて、スタンプ三つに代えた。


 制服を壁際にかけて、バッグから細々したものを出していく。シャンプーはお風呂に置かせてもらえるかな。

 ふと手が止まる。さっきの会話、穏やかな眉。

 ――祐、普通だったな。

 拍子抜けするほどいつも通り。おかげで私も上手にできた、と思う。

 洗面道具を抱えた。祐にどこに置くか聞かないと。

「祐?」茶の間にも台所にもいない、奥に続く廊下の先を見た。

 わざわざおばあちゃんの部屋に行く用事でもないからあとにしよう、そう思って客間に戻ろうとすると上から足音がした。

「あ、そうか二階……」

 祐の部屋は二階にある。一度も立ち入ったことがなかったから忘れていた。

 茶の間からおばあちゃんの部屋に向かう廊下の中ほどに、狭い階段がある。私は段を見上げて声をかけるか悩んだ。

 足音がわずかに移動しては止まる。廊下は暑い、汗ばんできた鼻の頭をそっと拭って、やっぱりあとにしようと客間に戻ろうとした。

「紗世?」

 昼でも少し薄暗い場所から祐が私を見下ろした。ゆっくり下りてくる。

「どうした」

「あの、シャンプーとか」

 答えながら、祐の顔から目が離せなかった。

「……どうしたの?」

 泣きそうに見えた。

「聞いてんのは俺だけど」

 いつもの高さになった。祐の手が延びて私の頬を撫でるから咄嗟に身をすくめた。

「や、やだ。汗つく」

「あ? 別にそんなん……。それより何だって、シャンプー?」

 ひょいと、祐は私が抱えていたシャンプーとリンスを取り上げて「こっち来い」と先に歩き始める。私は慌てて汗で濡れた襟足を追いかけた。


 荷物を片付けても、さっきの泣きそうな、でもどこか嬉しそうな表情が引っかかっていた。すぐにまたどこかに行ってしまった祐は忙しそうでどこかそっけない気がしてきた。

 人の家でだらだらするの憚られてノートを広げたけど、祐の顔ばかり浮かんで集中できない。冷房も除湿も寒く感じられて、エアコンを消したら暑い。

 ダメだ、何か飲みたい。

 台所をのぞくと、麦茶のポットがからりと乾いて置いてあった。

「麦茶作るね」

 誰もいない台所で断りを入れる。ちょっとの水はすぐに沸いた。ポットに落としたティーバッグに空気の泡がくっついてゆらり動く。じわじわと茶色が透明に混じっていく。

 ぼんやりしているとポケットのスマホが二度震えた。この前のカラオケでLINEを交換した男子からスタンプと写真が来ていた。ちょうど隣に座ったときのものらしく、我ながら自然に笑えている。お礼スタンプには秒で『また行こう』と返信が来た。

 長く続きそうな雰囲気になんて返そうか悩んでいると、祐が台所に入ってきた。

「わりぃ、喉乾いたか」

「う、うん。ごめん勝手に」

 ポットの麦茶はすっかり濃くなっていて、祐はそれに水を足した。コップに氷を二つ入れて少し薄めの麦茶を注いでくれた。

「ありがとう」

 おう。そこで祐はスマホの画面を見たらしい、「誰だ」と私の左手を引っ張った。私は麦茶を飲んだまま「わっ」と声を出してしまったので顎を濡らしてしまう。

「ちょっと祐」

「こいつ誰だよ」

 お互い眉根を寄せて見つめ合った数瞬後、先に逸らしたのは祐だった。

「……わりぃ」

 シフォンのシャツには茶色いシミができていた。

「……濡れた、じゃん」

 祐は無言で清潔そうな布巾で私を拭った。

「着替えろよ。洗うから」

「いい、自分でするよ」

「じゃあ……使い方教える」

「うん」

 首を拭われて顎が反って、再び目が合う。

 あ、今だ。

「ねぇ祐」

「っ……ほら着替えて来い。洗面所行ってる」

 でも布巾を乱暴に放って祐は台所から出て行った。


 ダメだ全然隙がない。

 敷いたばかりの布団はしっかり干した温かさでふかふか。うつ伏せの私はお風呂上がりで髪もそのままでごろついていた。

「どうしよう話せない」

 祐はとにかく甲斐甲斐しい。夕飯の洗い物係もようやくもぎ取ったくらいだし、さっき汚した服もいつの間にか皺を伸ばしてアイロンを当ててあった。たぶんお風呂に入ってるときにしてくれたんだろう。

 お礼を言わなきゃ。でも。

 ぽたと髪先から雫が落ちた。

 私から話しかけようとすると明らかに話題を変えるしどこかに行ってしまう。気のせい? それに今日は全然触ってこない、おとといまでは二人になるとすぐ……。

「避けられてる」

 それとも嫌われた? それとももう私じゃなくてあの子を?

 辰おじさんは夕飯の少し前に出かけて行った。シフト表によれば明日から水曜まで日勤。

 ぐっと歯を食いしばった。



 静かな家に電話の音が響いた。聞き慣れた足音が茶の間に近づくのを確かめて、私は玄関に向かう。マキシ丈スカートのパジャマの裾が足首の上を撫でる。くすぐったい。

『はい海藤』

「もしもし、私」

『は? 紗世?』

 動悸に自分の薄い笑い声が重なる。玄関の戸が重く鳴って祐が『お前、どこ行くんだよ』と焦ったように言った。あんまり大きい声で言うから、左耳からも同じ声が聞こえた。

「ちょっと庭に出るだけ」

『ひとりは危ねぇだろ』

「じゃあ、祐が来てよ」

 賭けだった。これで来てくれないなら祐は本当に私を避けてることになる。

 ガチャ! と切れた。もう何も聞こえなくなって失敗したと思ったとき、バンと勢いよく戸が開いた。

 振り向いた。どすどすとまるで辰おじさんみたいな歩き方で祐がこっちに来る。明らかに怒っていると分かったけど、私はスマホを耳に当てたまま笑った。祐がすぐ来てくれたことが嬉しかった、少しつり上がった目が真っ直ぐ私に向いていることが。

「お前」

「祐、」

「あぁ?」

「好きだよ」

 框から下りかけた祐はぴたりと止まった。

「私と付き合ってください」


 目を剥いた祐はたっぷり一分くらいは停止していた。

「俺に言ってんのか?」

 その台詞で私もたっぷり同じだったことを自覚して、スマホを半袖パーカーのポケットに入れた。

「そ、そうだよ」

 汗が噴き出す。顔中が熱くて私は祐に背を向けた。

「紗世、待て」

 いや待てない。恥ずかしすぎる。想像よりもずっと。

「さよ、」

「離して」

「いやだ」ごつんと頭がぶつかった。後ろから抱きつかれたから。

「痛いよ」痛くなんてない、ただ何か言いたくて言った。

「なぁ」

「やっ、耳!」

 息がかかって身を捩る。

「さっきのマジか」

「う……」

 玄関と門の真ん中、祐の手は私の前できつく交差した。

「お前、危機感なさすぎるだろ」

 なんだよこの薄い服。

 交差が緩んで片手が私の脇腹に伸びた、温められる。そこから熱が広がってくみたいに私はますます熱くて身じろぎした。汗くさくなる、せっかくお風呂に入ったのに。

「せっかく俺が距離とってんのに」

「え、なんで」

 その瞬間ぐるりと私は回転した。文字通り目を回すと頬を両側から包まれた。

「好きな女が家ん中うろうろしてんだぞ、分かんだろ」

 好き? ホントに?

 浮かんだ疑問は掠れて口から出たらしい。祐が額をぶつけた。今度は本当に痛かった。

「だからお前も変に誘うなよ」

「誘って、なんか」

 ぐりぐりとおでこ同士がケンカする。

「なぁ」

「うぅ」

「さっきの、もう一回言ってくれ」

 項から汗が流れていってくすぐったくて、思わず顔を背けた。でも大きな手がそっと元に戻す、腰を引き寄せられた。

「つ、きあって?」

「違うその前」

 唸った。なんの罰ゲームだろう。

「頼む」

 抗議をこめて伏せていた視線を上げた。そしたらもうだめだった。

「す、き」

「うん」

「好きだよ」

「うん、紗世」

「うん」

 目を閉じた。

 祐はすごく優しいキスをした。

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