32.してほしい

「紗世、話題になってるよ」

「ふぇ?」

 祐に告白した翌日の月曜。雨の気配のする昼休み、私と藍衣はこの前サボりに使った教材室に来ていた。北向きの部屋だからか、窓を開けるだけで風が通って結構涼しい。

 そして私は今、かなり頑張って咀嚼している。本当は祐に告白した経緯を藍衣に話すつもりでここに来たのに無理そうだ。祐の作ってくれたお弁当が多すぎる。

「藍衣、お願い手伝ってほしい」

「……このハンバーグいい?」

「うん、卵焼きもいいよ」

「まじであいつ天才。うま」

 それに本当はひとり占めしたかったし食べ切りたい。でも「昨日の残り物だから」と持たされたお弁当には新しいおかずしか入ってなくて、一つ一つが大きい。今すぐ祐に「嘘じゃん!」と電話したい。

「それで何が話題なの?」

 持たされた水筒から麦茶を飲んで、一息ついてから尋ねると、藍衣が生ぬるい視線を私に向けた。

「紗世が私服の男と手を繋いで駅構内を歩いていたって」

「え」

「しかも前に一緒に登校してたM高の男子だって」

「ああぁ! 待って藍衣、それ誰が」

「目撃情報はのべ三名」

 ウワァと頭を抱えた。事実だ、事実は事実だけど私はやめてって何度も言ったのに祐が!

「まぁ察するにあいつの独占欲が爆発した経緯があるはずだよね。昨日の今日で愛されすぎ」

「うぅ」

「さ、両想いになった気持ちを吐きなよ」

「恥ずかしい……もう駅を歩けない……」

 ウケる、と藍衣がきゃらきゃら笑ったとき、チャイムが鳴った。

 教室に入るのが気まず過ぎて「サボりたい」とぼやくと、「明日は教室でその愛妻弁当見せつけてやろうよ」と藍衣がニヤけて先に行ってしまったので、どうにか私も教室に戻った。帰ったら苦言を呈さなければと、決意した。


 それにしても今朝の祐はおかしかった。

「俺ら付き合うってことは、手は勝手に繋いでいいんだな?」

 お弁当と共に向けられた言葉のせいで味噌汁でむせそうになった。

「ご、合意はとってよ」

「あ? それって前と変わんねぇだろ」

「うぅ」

 じっと見下ろす祐はいたって真面目で誤魔化しが効かない表情をしていた。あれこれ反芻して寝不足の私は、なんとかそれらしい答えを導き出す。

「そうだけど、他の人とは絶対しないよ。ぜ、前提が違う……というか」

「前提」

 ぜんてい、と繰り返して祐は「なるほど」と肯いた。どうやら納得したらしい、笑っている。

「とっところで祐、なんで私服なの?」

「あぁ。俺、今日休む」

 ポカンとしてしまう。そんなに簡単に学校休んでいいの?

「駅までは一緒に行く」

 ぐしぐしと乱暴に頭を撫でられた。いつもTシャツにジャージ姿の祐は、黒いストレートのボトムに薄水色の綿シャツを着ていて爽やか。すごくかっこよく見えた。

 するりと頬もついでみたいに撫でられて、えへへと照れる。眉間に力を入れた祐の顔もちょっと赤くて、なんだか可愛い。思えば私も浮かれてたのかもしれない。


 一緒に外に出た祐は「繋ぐぞ」と言って私の手を引っ張った。玄関先からいつもの繋ぎ方になってしまっていて、私はさすがに「まだいいって言ってない! 恥ずかしいよ」と主張した。ご近所さんに見られたら噂になってしまうかもしれないし、いつか母さんや辰おじさんに伝わってしまう。

「だめ、やだ」

「合意してない!」

 でもそのわがままも結局は両想い補正で喜びに変換されて、私は大人しく手を繋がれたまま。ただバスの中でも誰が乗ってきても祐が手を離さないのには困った。

「ちょっと……! 本当に離して」

 小声で必死に頼みやっと離してもらった。「貸しだぞ」なんて怖いことを言ってたのは全力で無視。単語帳に頭を突っこんだ。

 さらにバスを降りれば強制恋人繋ぎスタイルに戻ってしまい、駅でも同じことになったという訳だ。

「で、帰りは海藤と一緒なの?」

「約束はしてない」

「そりゃよかった」

 今週は塾の授業も自習も休んで真っ直ぐ帰る予定。さすがに辰おじさんに迎えまでお願いできないから仕方ない。でも藍衣が「ちょっと話そう」と言って、バスを待つ間だけいつものベンチに腰掛けた。

「この前のことは話した?」

 カラオケの帰りの——あの子のことだ。

「ううん。はっきり聞かないことにした」

 ゲンキンなもので、あのとき胸に渦巻いていた気持ちはどこかに消えていた。告白をして、祐が態度で応えてくれたから。そういう意味では朝の恥ずかしい状況も、祐の気持ちを知れた出来事だった。『前提』が変わるのは私だけじゃなく祐も同じはずだから。

「それでいいの?」

「この前、藍衣も誤解だって言ってたじゃん」

 まぁそうだけど、と珍しく言葉を濁した藍衣は脚を組んだ。

「私、不安要素は消しておきたいタイプなんだよね。なんで一緒にいたかくらい聞いたら?」

「もう大丈夫。祐はその……優しい、し」

 キスのあと、なかなか客間に戻れなかった昨日の夜を思い出す。今日が月曜じゃなかったら、そのまま朝まで一緒にいたかもしれない、ずっと手を繋いでいたかもしれない。

「あー爆ぜるウザい。心配して損した」

 藍衣は半眼で笑って「じゃあ塾行こー」と立ち上がった。その棒読みっぷりにハメられたと知る。

「あおい、わざと言わせたでしょ!」

「ハーイ、また明日」

 手を振ると藍衣はあっさり自動ドアから出ていった。



 集落のバス停で降りると、むわっと雨の匂いが立ちこめていた。

 ウチの前を通りがかって、ポストからチラシがはみ出ているのを見た。中身は祐の家で確認すればいいと全部手に取る。その瞬間、ぽつりと顔に雨粒が落ちて、私は慌てて祐の家に急いだ。

「お、間に合ったな」

 本降りになる直前、門をくぐると玄関の軒下で祐がいた。息が切れて満足に返事ができない私にタオルを寄越す。それで偶然じゃなくて、私を待っていたんだと分かってくすぐったい気持ちになった。

 祐は朝の服を着替えてしまったようで、いつものジャージ姿。でもその見慣れた格好にホッとしながら、祐にすごく会いたかったんだと自覚した。つい数時間前に別れたばっかりなのに。

 祐の笑顔も優しい。

「こっから強く降るみたいだぞ」

「うん」

「早めにシャワー浴びちまえ」

 雨よりも汗まみれの私を見下ろして、祐はタオル越しに私の頭をぐいぐい撫でた。顔も雑に拭われて、まるで飼い犬の気分。

「それ、お前んちのか?」

 言われて気づいた、チラシは握りしめて走ってきたせいでぐちゃぐちゃになっていた。祐はひょいとそれを取り上げて何枚かめくり、「ピザ食いてぇな」と言うと丸めてしまった。そして私を玄関に引っ張った。途端、くるりと振り返った祐がガチャンと錠を下ろしたので、私たちはハグの距離になる。予感に違わず、ぎゅうと抱きしめられる。

「ちょっと、祐」

「……お前の匂いする、落ち着く」

「やめっ、汗臭いの間違いでしょ」

「まぁな」

 うがー! 全力で抜け出そうとする私をいなし、祐は少し体を離すと、

「ならシャワー浴びたあと、ずっと嗅ぐぞ」

 と真顔で言う。何それ。

「ぜ、絶対やだ! 変態!」

「ほっとけ」

 そのとき、茶の間の方からおじさんの足音が聞こえて、嘘みたいにパッと祐が離れた。サンダルを揃えもせずに家に上がると、「じゃあシャワー浴びたら飯だからな」とさっさといなくなった。

 一応「うん」と返事をしたけど、きっと聞こえなかっただろう。私は戸の奥に消えた祐を見送って、のろのろとタオルに顔を埋めた。「うぅ」と変な声が出た。

 好きな人に抱きしめられるって、こんな幸せな気持ちになるんだ——。

 口元が自然にニヤけるのを、しばらくタオルで隠した。そしてまた、おじさんの足音で我に返り慌ててローファーを脱いだ。でもついでに祐のサンダルを揃えたら、またニヤけてしまった。


 夕食は餃子で、私も餡を包むのを少しだけ手伝った。祐の包んだのに比べると不恰好だったけど、「焼いたら同じだ」と頭を撫でられたら納得してしまった。私ってチョロいな。

 辰おじさんは用事があるとかで出かけてしまい、ふたりでテレビを見ながら食べた。大皿に丸く並べて焼かれた餃子は多すぎると思ったけど、餃子、ご飯、漬物の順に箸を進めていたらいつの間にか無くなっていた。すごく美味しかった。

 「はー腹くっちい」普段はさっさと片付け始めるのに、今日の祐は食べ終わるとごろりと畳に転がった。私もそれを見ながらお腹をさする、同感すぎて笑える。

「祐、四十個くらい食べたんじゃない?」

「米も食いすぎた」

 眠そうに目を擦る祐が可愛いと見つめてしまい、勝手にひとりで恥ずかしい。わぁっと体温が上がったのを逃したくて立ち上がった。

「私、洗い物するよ。祐は寝てなよ」

「いや……俺がする……」

 そうは言うものの全然起き上がらないのが可笑しくて、私は勝手にやり始めた。お皿を全部運んだところで、祐が「ばあちゃん見てくる。……頼んでいいか」と台所に顔だけ出した。「いいよ」と返すと、「助かる」と言って顔を引っこめた。

 頼られたことが素直に嬉しくて、俄然やる気が出る。

「よし。明日の麦茶も作っちゃおう」

 私が洗い物を終えてお湯を沸かしてる間、祐はちらっと顔を出して「悪い、風呂入ってくる」とまたすぐいなくなった。


 そして明日の麦茶も万全にした私が客間に戻る途中、お風呂から上がった祐に捕まって、後ろから抱きしめられた。

「嗅ぐって言っただろ」

 言ったけれども————!

 しっとり濡れた髪から伝った雫が私の頬を冷やすから、少し震えてしまった。さすがに冗談だと思ってた。

「祐、私また汗かいたから」

「……後ろからだとイマイチだな」

「話聞いてる?」

 そのまま押されて客間に入ると、どかりと胡座をかいた祐に横抱きで閉じこめられた。

 小さな常夜灯が点いただけの部屋はほとんど真っ暗で、廊下の明かりも祐が壁になって私には届かない。顎の重みで無理に立ち上がることもできない。どきどきして心臓が口から出てきそうだった。右肩に祐の胸が当たっていて、熱と別の鼓動で呼吸が難しい。離れてほしいけど離れたくない、くっついてることが嬉しくて転がり出したい気持ちとがせめぎ合う。辛うじて「電気点けようよ」と言ってみる。

「……いい。めんどい」

「じゃあ私が」

 ぐっと締めつけが強くなって断念する。そのとき、遠くで雷鳴がした。

 ひくっと体が固まった。祐がなんでもなさそうに「こっちに来そうだな」と言った。

「ほら、一緒でよかっただろ」

「こじつけじゃん」

「いいんだよ、理由なんか何でも」

 そっか。私は縮こめていた両手で祐の腕に触れた。理由なんて何でも、なくたっていいのか。

 不思議なことに、告白する前は腑に落ちなかった強引さが今はしっくりきていた。好きだからなのかな。私もできるだけ一緒にいたいし、くっついていたい。

 もしかして祐は、ずっとこんな気持ちだったのかな。それってなんかすごく恥ずかしくない?

 じわじわ頬が火照る。確かな嬉しさが湧いたからだ。

「よかった、かも」

「ん」

それならこれからは、いくらでも抱きしめてほしい、かも。

 そう思った途端、ぐりっとつむじを押されてちょっと痛くて、私は祐の胸にわざともたれた。石鹸とシャンプー、それと祐の匂いが濃くなって長めに吸いこむ。でも、こめかみに祐の顎が擦れたと思ったら、交差していた腕が唐突に緩んで私を剥がした。

「……近い」

 ムッとした顔に私もつられる。

「何それ」

「いやまぁそうだけど、その」

 視線があからさまに泳いで言い淀む。

「お前がくっつくから……」

「は? 祐こそ」

「待てって、最後まで聞けよ」

 珍しく弱ったような声に、私は反論を飲みこんだ。何で私からはダメなの、私は応えてるだけで合意なく抱きしめるのはそっちじゃん。

 祐は「あー」と天井を見上げてから顔を戻して、私の目を覗きこんだ。

「……俺からすんのはいいけど、お前からされるとヤバい。この前の……キスとかも死ぬかと思った」

 そっと、また抱きしめられた。今度は真正面から。ちょっとぎこちなく、胸は離れたまま。

「俺まだ、お前と仲直り……ってか付き合ってるとか信じられてねぇし。実感はあるけど、ないっていうか」

 さっきよりも近くで遠雷が鳴った。

「どっか触ってたいからこうなってるけど、それも近すぎるとなんか、その」

 でも今は怖いとは思わなかった。祐と頬を繋げてるから。

「じゃあ私からはくっつかないように……する?」

 私は本気で気遣ったつもりだったけど、祐がわずかに背を丸めた。しょんぼりしたらしい。

「……お前がいいなら、それでいい」

 と言いつつ、ぎゅうと腕を強めるから、私はちょっと笑ってしまった。かわいい、祐が可愛い。

「可笑しいかよ」

「ううん別にぃ。じゃあ私からキスするのは五年後とか」

「五年て、お前」

 カッと部屋中に白が差した。さすがに怖くなって私は咄嗟に目を瞑った。祐の手が耳ごと髪を撫でた。轟きがくぐもって聞こえた。一瞬こわばった体から力が抜けた。

「なぁ」

「うん」

「やっぱさっきの、五年は長くね?」

「そうかな。……そうかも」

「別にされんのが嫌ってことじゃねぇから」

 ごにょごにょ。

 片耳を塞がれて、祐の声は骨を伝って聞こえてくすぐったい。でも普通に話すより祐が私のことを好きだって伝わってくる。嬉しすぎて胸が痛いくらい。

「本当は……おじさんのことわざと親父にチクったんだ。お前がまた、俺ん家に来ると思って」

「え」

「そしたらお前がまた、俺に」

 キスしてくれんじゃないかと思って。

 そのときまた稲光が私たちを照らした。でも私は祐の顔を自分の手で挟むのに忙して、すぐに鳴る雷のことなんて関係なくなった。ほとんど同時に口づけていた。

 さよ、と祐が言った。私も「たすく」と呼んだ。

 息が交わって力が抜けても、舌が絡んで仰向けにされても。家を揺らすほどの轟音に包まれても。

 ただ祐が好きで、息をするのが精一杯だったから。

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