30.どうする
父さんは栄養失調と過労だった。
「ノンくん! だからhousekeeper雇ってって言ったのに!」
一日入院して退院することになった。
「いやぁだって知らない人を家に入れるの苦手なんだもん」
その他に異常はなかったらしいけど、問題はそのあとまた倒れかねないってこと。
「そんなこと言ってられないでしょお‼︎」
久しぶりの父さんはひどい有様で、髭で覆われた頬なのにこけてると一目でわかるほど痩せていた。
「母さん落ち着いてよ。まずは無事で良かったじゃん」
「そうだよ
「父さんは黙ってて」
——翌日の金曜。父さんと話ができたのは昼過ぎで、母さんは私の前なのに父さんを昔の愛称で呼ぶほど取り乱して、いや怒っていた。ロスはもう夜で、点滴を刺したまま手を振る父さんの映像は暗くて不安になる色をしていたこともあったかもしれない。
長く話しても疲れるだろうと通話を切ったあと、母さんはぐったりとテーブルに突っ伏した。
「もう……なんなのあの子」
母さんは辰おじさんがよく言う姉さん女房で、五歳違い。話によれば大恋愛だったそうで、時々母さんは父さんを『あの子』と呼ぶ。これまでは気にしてなかったけど、今日はなぜか背筋がぞわっとして、私は早々に立ち上がった。母さんと父さんの恋愛とかちょっときつい。
冷蔵庫を開けて物色する。ホッとしたらお腹が減った。
カット野菜と豚のこま切れ肉を炒めることにする。油を引いて肉を焼いた音のせいか、母さんが顔を上げた。
「紗世、なに作るの?」
「んー野菜炒め」
「焼きそばにしない?」母さんも台所に入ってきて、冷蔵庫から焼きそばの袋を出した。電子レンジで温め始める。
「……紗世の方が手際がいいわ」
父さんのことだ。
「そう? でもずっと前に食べた父さんのビーフシチュー、美味しかったよね」
「手の込んだものしか作らないでしょ。普段から食べるようなのは面倒だって言ってしないのよ。パンも飽きるし、米は炊くのが面倒だって……」
「まぁ分かるけど」
六月くらいの自分を振り返るとあまり父さんを批判できない。
レンジが鳴って、母さんが麺袋を破いた。野菜炒めはもういい感じで四角い黄色い中華麺が野菜の上に乗っかった。
「多くない? 三袋も食べる?」
「だって一袋だけいつも残るから」
「……母さん、そんなに心配ならとりあえず行って来なよ。別に私、大丈夫だから」
つっけんどんになった。
行きたいくせに。私のせいだって責められてる気分。
母さんも無言でプライパンに水をかけた。じゅうじゅうとうるさいし、私も蒸されて暑い。私は苛々して菜箸でガチャガチャしながら麺をほぐした。
「あんたも心配だけど……宮子さんの件もあるのよ。施設が決まるまでは私がこっちに居なきゃ」
やっぱり私のせいじゃん、と言いかけてやめた。
「でもたぶん来春までには決まるとは思うのよ。だから紗世、こっちで卒業したらあっちに」
「……母さん、早くソース入れて」
ツンとした匂いが漂い始めてまた音がうるさくなる。母さんが何か言ったけどよく聞こえない。
「紗世、聞いてる?」
「聞いてるし、ちゃんと考えるから」
喚き散らさなかった自分を褒めたいと思った。
焼きそばはソースが多くてしょっぱかった。
『アメリカ、大学、受験』で検索する。全然内容が頭に入ってこない。やめた。
インスタにチャットが溜まってたけど、返信する気にならなくてスマホを手放す。
ずっと画面を見てたからか目が疲れていた。
最近壁にかけたカレンダーは九月中旬、あと三ヶ月ちょっとで共通テスト。
反対の壁には夏服。
いつ見ても長い。藍衣は気にしないと宣言してくれたけど、長いものは長い。
「早く卒業したかった、だけかも」
制服から逃げたかった。どこにでもいる大学生になりたかった。長いスカートを履いてても見咎められない、数百人の中のひとりになりたかった。
それで誰かと恋愛して就職して、いつの間にか膝丈が履けるようになるぼんやりした未来を思い描いてただけ。
藍衣のように熱望する将来像でも、ない。
大学なんて——。
「もうどこでもいいかな」
外国だってどこだって。ううん高卒で仕事って何があるんだろう、大卒と何が違うんだろう。でも仕事って何をすればいいんだろう。バイトとか?
ベッドに転がると、黒い塊が顔に触れた。祐に借りたTシャツ。
祐はどうするんだろう。留年が決まってる祐は——?
「バカだ……私」
制服を着なくなったら今より上手く行くような気がしていた。でもずっと続くんだ。一年後も三年後も十年後もその先も、私は今の私の延長線でしかないのに。
ロスに行くのは別にいい。でもそのあとは? 浪人して大学を受けるの? 受かるの?
努力でなんとかなる? ううん、きっとそんなに甘くない。ひと月勉強しなかっただけで取り残されてる。
『高卒は給料が』藍衣が叫ぶ。
『大学なんていつでも』母さんが呟く。
せっかく畳んだTシャツをぐしゃぐしゃにした。顔に押しつける、祐に頭を撫でて欲しい。
祐はどうするんだろう、どうするつもりなんだろう。
*
『今からカラオケ』
『9時まで』
『カレーの打ち上げ』
『さよも来て』
鳴り止まない通知にため息が漏れる。画面を開くと既読になるからホームに出てくるメッセージを眺めていた。藍衣には父さんの話はしてない。ただ家の用事で休むとだけ。
「紗世、あんたそれ大丈夫なの」
「……なんかみんなでカラオケしてるんだって」
「カラオケって駅前の?」
「うん、そこしかない」
「いいじゃない行ってきたら? 藍衣ちゃんも一緒なんでしょ?」
肯定しつつも、今からバスに乗って行くのは面倒すぎて嫌だった。かといって勉強もインスタも集中できずに『水戸黄門』をぼうっと見ていただけだったけど。
「母さんもちょっと出かけたいと思ってたから送ってくわよ。そうね……八時頃に近くまで迎えに行くのでどう?」
「ホント?」
よく見れば、母さんがハンカチを入れているのはよそ行きのバッグ。すでに化粧も完了していた。
「ま、待って」
インスタを急いで開いて『行けるかも』と返す。間を置かずに動画が送られてくる。クラスの男女五人、苦手な子はひとりもいない。藍衣も楽しそうにピースしている。
『母さんが送ってくれるって』
私は急いで、でも少し悩んで制服に着替えた。みんなは学校帰りだから合わせたかった。『着いたらチャット』を既読にしてローファーを履いた。
えーじゃん紗世おはよー!
マイク越しにテンション高めの挨拶を受けて、私はおはようと手を振りつつソファの端に座った。部屋は真っ暗にしてあってスナックの匂いで充満していた。プラスチックのグラスに緑やオレンジのジュースが乱雑に並んでるのを緊張しながら見回す。
「はい紗世、かんぱーい」
かちりと抜けた高い音を鳴らしてから、藍衣は私の隣で足を組んでカルピスっぽいジュースをストローで飲んだ。
「紗世はなに歌う? ってか一緒にカラオケ初めてだね」
「わ、私はいいや。聞いてるから」
マイクは男子に渡ってしっとりしたバラードが流れ始める。流行ってる曲で思わず注目する。結構うまい。
「歌苦手だっけ。じゃあこれ一緒に歌おう」
藍衣は検索機でタイトルを見せるとさっさと入れてしまう。
「今日は家? 何してた?」
「うーん特に何も……父さんが栄養失調になって入院して……連絡したり」
「栄養失調⁉︎」
藍衣が大きい声を出すからみんながこっちを向いた。なんでもないと曖昧に笑うとすぐに視線も散る。教室じゃなくて良かった、と息を吐く。
「……紗世は父親似だったんだ」
藍衣は深く納得したように何度か肯いた。反論は無視される。
「じゃあ清子さんまた行くの?」
「ううん、行かないって意地張ってる」
なるほど。
ぱちぱちと拍手が起こって私もそれに倣う。なかなかの熱唱で、あまりしゃべったことのない男子が囃されて笑っている。次は洋楽っぽい曲で意外な子がマイクを取った。
「あ、紗世はなんか食べる?」
向かいに座る女子がメニューを手渡してくれた。「うちらカレーでお腹いっぱいすぎてさー」と言われて、試作の打ち上げだったことを思い出す。
「……カレーどうだったの?」
いやそれが、と藍衣が話を引き取った。
「うまいし早いしで、大成功。余ったやつ職員室に消えてったもん」
ウケたよね、と二人が笑うのをホッとして見る。
「たこ焼きとか練習しろよって感じだったよね」
「まじで紗世のレシピのおかげ」
どうやら集まったのはカレーを作ったメンバーらしく、歌そっちのけで状況説明が始まった。
挽肉やすりおろし野菜を使ったのは大正解で、栄養管理士の資格を持つ家庭科の先生も味に太鼓判を押してくれたらしい。祐の言った通り、小分けにして外に運ぶ形で許可が出たそうだ。
「すりおろすの大変だったから男子にも声かけたんだよ」
「多田なんか『家で食う』とかって鍋借りて分けてたよな」
「鍋売りもありじゃね?」
かんぱーい! と、みんなでグラスを合わせて緩やかに歌に戻る。
藍衣が「今日の、いいメンバーでしょ」とこっそり耳打ちした通り、ドリンクバーを行き来する内にいつの間にか席が変わったのに誰が隣でも大丈夫だった。
ひとりでは無理でも誰かと一緒に歌ったり、いつもは食べない大きなパフェを食べたりした。
八時に母さんからLINEが来て、抜けるのがすごく残念に思うくらいだった。
「それで、紗世はどうしたいの」
一緒に抜けてくれた藍衣が駅に向かう途中で言った。カラオケでは聞かないでくれたことに心の中で感謝する。
「父さんは自分の世話ができない人だから……母さんが行った方がいいとは思う」
「でもそしたら今度は紗世が栄養失調になるんでしょ?」
「藍衣!」
うそうそ冗談。顔は真顔でそんなことを言う。
「私だけじゃなくて、おばあちゃんの施設のこともあるし」
あーそっちかぁ。コンビニの明かりに照らされて、藍衣の長い髪が歩調に揺れる。金曜の夜だからか、通りには高校生も大人も入り乱れて賑やかだ。真面目な話をしてるのは私たちだけみたいな雰囲気で、重い話も楽。カラオケのおかげで家でのモヤモヤも薄まっていた。
「はぁー久々に楽しかった」
「紗世、珍しく男子としゃべってたじゃん」
「私だって話すくらい」
小さな横断歩道の前で止まる。左折してきた車が過ぎるのを待つ。
「ってか、告白どうなったんだっけ」
「それがまだ……」
左右確認して渡る。立ち止まった集団の先頭、私と藍衣は、少し離れたコーヒーショップから出てきた制服のカップルにたぶん同時に気づいた。
藍衣が小さく「げっ」と言ったのを私は呆然と聞いた。
祐だ。
腕を絡めるのは、あの子。
私の脚は動くのを忘れてしまって、後ろの人が勢いよくぶつかった。膝をついて転んで、藍衣が「紗世!」と声を上げた。
膝が痛い。でもそんなことより——。
私は四つん這いのまま前を見た。見なきゃよかった。
確かに目が合ったのに、逸らされた。そう分かるまで時間がかかった。
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