29.あったかい

 ふぅと最後の深呼吸。時間になったのを待ち受けで確認する。

 胸から指の先まで全部ドキドキするのを感じながら、私は全力でスマホの連絡帳を開いて『海藤 祐』をタップしようとした。

 そのとき、

「紗世!」

 母さんが部屋に飛びこんできた。ただ事じゃない剣幕に手は止まった。

「どうし」

「父さんが倒れたって! 今、父さんの職場からでん……わ、が」

 どうしよう。母さんがカタカタと小さく震え出す。

 私はスマホを手放した。急いで駆け寄ろうとして、でも冷静にならなきゃとゆっくりベッドを降りた。

 私は落ち着かないと、ダメだ。

「なんで、倒れたの」

「よく分かんない! 今、検査してるって即入院だって!」

 どうしよう、やっぱりもう一回よく聞いた方が。母さんはスマホを握ったままやっぱり小さく震えていて、ゆっくり近づく私に縋るような視線を向けた。

「母さん落ち着いて。チケットは?」

「まだ……」

「じゃあ、まず取ろう」

 母さんの肩を押して、床に座るよう促した。

 この状況は二度目で、一度目は小火を起こしたとき。あのときは混乱して、とにかく急いでと母さんは飛行機で文字通り飛んでいった。何も相談しないまま、小火で引っ越しをするからと帰国が延びて、そのまま……。

「私しようか?」

「いい、母さんが」

 普段の三十分の一の速度でスマホを操作し始める母さんを見下ろして、私は台所に急いだ。冷蔵庫から麦茶を出してコップに注ぐ。藍衣に出してもらったお茶ですごく気持ちが落ち着いたのを思い出したから。考えて二つ。お盆に乗せて部屋に戻った。

 母さんは私のベッドに寄りかかって懸命にチケットを取っているようだった。空席がないのか、時々Fuckと罵るのを眺めて待つ。リロードしまくってるんだろう。顔がスマホにのめりこみそう。

 母さんに麦茶があると伝えると、五秒後に気がついてありがとうと言った。のろのろとコップを持ち上げるのを見つめる。スマホを見ると八時三十六分、祐の顔がよぎった。

 半分ほど飲んだところで、母さんは「ごめん」と呟いた。顔がしっかりしてきた。

「チケット取れたら行くよね?」

 私も麦茶を飲んだ。ごくんと変に大きく喉が鳴って、自分も少し動揺してると分かった。

「……あんたをひとりにしないって決めたでしょ。二、三時間で父さんの検査結果出るから、それから考えることにする」

「いいのに。緊急事態だよ」

「まだ分からないでしょ」

自分にいい聞かせるような口調で母さんは渋顔をした。

「だめよ、もうあんたを犠牲になんかしない。ハァ……娘が学校サボってショック受けてたら今度は父さんが倒れたなんて」

「ごめん。反省してるって」


 結局、検査の結果を待つことにする。あっちはお昼だから夕方までには電話が来るだろうと肯き合う。チケットのキャンセル待ちだけはしておくことになった。

 それから母さんは麦茶を飲みながらぽつぽつ父さんのことをしゃべった。

 最近見るからに顔もやつれてきていたことや、部屋でついに虫が出たこと。父さんのことだからデリバリーかホットドッグしか食べてないと心配してたこと。

「あんたもそうでしょ。食べ物に気を遣わないタイプ。部屋はきれいにしてるからいいけど」

 突然矛先が向いて口ごもる。図星だから。

「だって食べるの面倒くさいとき、ない?」

「ないわよ。作るのは面倒くさいけど」

「それ」

 母さんは苦笑いして本当に紗世は父さん似だわ、と俯いた。

「もし長くロスに行くことになったら、紗世も一緒に行かない?」

「え?」

「高校はともかく大学なんてどうにでもなる。それより母さん、今は家族で暮らしたい」

 私が返事をしないと、母さんは「考えといて」とお盆を持って部屋を出て行った。スマホの液晶は九時過ぎていた。



 ——眠れない。

 もう百回は寝返りを打ったような気がして、ベッドから起きた。インスタはますます寝られなくなりそう。触れてすぐ手を離した。理由は分かっていた。父さんのことと告白の不完全燃焼のせい、それに今日は色んなことがあったから。

 自分の中で折り合いがついたこと、まだのこと。新しく考えなきゃいけないこと。その全部が混ざり合って、きっと心も脳みそもキャパオーバーしかけてる。そんな気分だった。


 真夜中の静けさが重たくて、そっと北向きのカーテンを開けた。星とか月が出ていればいいなと思った。でも曇りで、灯りもないのに景色が薄ぼんやりと明るく見えた。そのまま首をめぐらした。

 裏の砂利道が見える、それも隣の家の植木が張り出していて数メートルだけ。今はただの暗闇にしか見えない。

 あれ? 誰か――。

 びっくりして窓を開けた。温い風がぶわりとカーテンを膨らませた。虫の音の合唱が部屋の中に入りこんだ。

「祐?」

 白いTシャツだけが暗がりに浮き上がって、まるでお化けが揺れたように見えた。でもそのお化けの模様には確かに見覚えがあって、私は手を振った。祐も気づいたのかこっちを見た。白シャツが近づいてきて、建物の影で見切れた。

 私は部屋を出て玄関に向かった。足音を忍ばせて框を下りてサンダルをつっかける。母さんに気づかれないようにゆっくりと錠を上げた。


 外はやっぱり温い風が吹いていて少し肌寒いくらい。灯辺りをぼんやり明るく照らしていた。

 聞き慣れた足音が家の前で止まった。

「……紗世か?」

 なんでこんな夜中にと、戸惑うような拗ねた声だった。私も道路に下りる。

「ちょっと眠れなくて……くっしゅ」

「お前、風邪治ってねぇんだろ。早く寝ろ」

 すごい速さで肩を強く掴まれて、思わずびくりする。その瞬間、祐も同じくらい驚いた顔で手を離した。

「わりぃ……肩、冷たいぞ。早く、」

 風邪は治ったと言いたいけど、鼻をすする私に説得力はない。なんて言おうか悩んでいるうちに祐が背を向けた。

「電話だけって言ったのにな。帰るわ」

「待って」

 Tシャツの裾を引っ張った。そっぽを向いた大きな背中が揺れた。

「私、話したいことある」

「それ……今じゃねぇとダメか」

「う、うん」

 ほらここ、と私は玄関先の段差に腰を下ろしてさらに引っ張った。でたらめな鼓動のせいでぎゅうっと。さっきまでは肌寒かったけどそんなのもう感じない、むしろ暑い。今しかない、告白するなら。

 祐はしばらく逡巡して「少しだけだぞ」と、座った。体が向こうのまま。

「なんだよ、早く言えよ」

「えと……その、今日……電話できなくてごめん。色々、あって」

 改めて変な一日だった。藍衣と話して母さんとも話して、今度は祐と座って話してる。祐でコンプリートだな、なんてバカなことを思うくらいには冷静じゃない。意気地なし過ぎる。

「色々って、なんかあったのか?」

「父さんが倒れたって」

 「は⁉︎」祐が勢いよくこっちを向いた。

「大丈夫なのかよ」

「まだ分かんない。病院に運ばれて……検査中だって」

 連絡待ってるとこなんだ。

 ずん、と急に頭が重くなった。自分の声がひどく小さくて夜が静かで、今さら『父さんが倒れた』ことを体が全部自覚したみたいになった。

「……なぁ」

 うん、と答えながら二の腕をさすった。さっきまで告白しようと思っていた気持ちが萎んで萎んでどこかに行ってしまった。

「今だけ、触ってもいいか?」

 私のつむじに祐の声が落ちた。

「もう触らないって言ったのに?」

 祐は黙った。私は我ながら冷たい言い方しちゃったと後悔した。でも藍衣が『また同じことする』と言ったのが現実になって少し拗ねたかったのもある。

「俺、こういうとき……なんて言っていいか分かんねぇ」

 視界で、長い脚に置かれた手がきつく拳を作った。

「俺は『大変だね』とか『大丈夫』とか言われても頭にくるだけだったし……助けもしねぇで口だけ出してくるのとか……嫌だった。だからってお前になんて言っていいかとか、全然分かんねぇ」

 だけど、と手が緩んだ。ぐーぱー開いて閉じて。

「お前が話聞いてくれたり、ひっついてもなんも言わないでいてくれたのは……すげぇ楽になった、から」

「いいよ」

「だからその、……あ?」

 いいよ、と私は祐の腕に頭を預けた。変なの、と思いながら。慰めてもらうのは私なのに許すのも私って。あべこべだ。

 でも祐が頭を撫でてくれるのを期待した。

「さよ」

 祐の手が私の頭を撫でた。私は嬉しくてふふと笑った。髪が無理に擦れて祐の腕から離れたと思ったら、すぐ額が祐のどこかにくっついた。背中に両腕が回って、私はすっぽり祐の内側に埋まった。

「あったかい」

「……お前、やっぱり冷えてんぞ」

 片手が私の腕をさすった。あやすように温める。

「祐はあったかいね」

 もっとくっつきたくて頬をつける。頭の先に祐の首が擦れた。くすぐってぇな。ぶっきらぼうが身じろぎして可笑しい。

「あったかいのはお前だよ」

 不意に強く抱きしめられる。辛うじて自由だった右手で私は必死にギブした。鼻も口も胸に塞がれて苦しい。

「……ごめん」

 はぁと大きく息をした私に祐が謝る。

「もう! あ、ちょっと」

「今度は俺の分な」

 再び祐に埋もれかけて私は非難の声を上げた。「私が慰めてもらってたんじゃないの」潰されてくぐもった声で言えば、祐が低く笑った。

「だって、次お前に会えるのいつか分かんねぇだろ。給油」

「ガソリンみたいに言わないで」

 あぁでもそうかもしれない。

 こうやって私と祐は、明日と明後日を頑張れればいいのかもしれない。

「なぁ」

「うん」

「おじさんのことがあるから無理ならいい。でも俺……やっぱお前に会いてぇ」

 私はそっと祐の背中に手を伸ばした、今度は両手で。返事の代わりに。

 電話来ねぇから心配した。

 うん。

 もう話もできねえのかって。

 ふふ。

 おい。

 ムッとしたらしく祐が体を離した。短い私の腕は重力に逆らえずするりと落ちる。

「お前、俺がどんだけ我慢」

 はたと見つめ合った。鼻先がすぐそこにあった。一ミリでも視線をずらせば全てがぼやけてしまうくらい、近く。

 息が、唇にかかった。

 くしゃりと祐の目が歪んで、ぐうと肩を強く掴まれる。離れる、離れてく。

 嫌だ、と思った。

「んっ」

 押しつけてどうしていいか分からなくなって離れた。

 ちゅ、と耳慣れない音がした。途端、体が折れるくらい引き寄せられて物理的に息が止まりかける。

「た、く」

「ばかやろう、くそ……クソッ」

 体がずり上がって、祐の肩から顔が出たのは良かった。でも祐は悪態を吐いて私の腰をぎゅうぎゅうにすることにしたらしい。

 あれ、私も順番間違えたかも。

 深く考える間もなく、見上げた我が家の茶の間の電気が点いた。「紗世」と母さんが呼んでいた。

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