28.サボる

 授業も休み時間も、私は必死にノートを写した。でも三限目からペンだこが痛んで文字を書くペースが落ちた。そこからは書くことも億劫で板書も写せなくなった。

「やっと話せるね、行こう」

 お昼になって藍衣と私は教室から出た。連れられた先は、特別棟の三階、教材室の中。鍵が開いてることが不思議で尋ねると、「さぁ? 私も先週知った」とそっけない返事。

 少し埃っぽい部屋の隅には二つ椅子が置いてあって、誰かが定期的に使ってる雰囲気がある。暑いけど北向きなので窓を開けるとそれなりに涼しかった。

「あいつの話しに来たけど」

 藍衣が保冷バッグからおにぎりを出して食べ始める。

「あの女子、なんだったの」

「さぁ」

 祐の友だちってことは知ってるのに、言いたくなかった。でも藍衣は物知り顔でパックのお茶を飲んだ。

「でもま、あいつ絡みだね」

「なんで分かるの?」

「あー……ほらだってM高の女子だったし」

 失言した、そんな気持ちが視線から伝わった。私からは疑いの気持ちが伝わったんだろう。藍衣は気まずそうに考えこむようなポーズをとって、パッと立ち上がった。

「よし。午後はサボろう」 

「サボる?」

「うん紗世の家か……それとも私ん家に来る?」


 藍衣の家はいつもの駅から二駅下って、歩きで十分先の古いアパートだった。「狭いからね」と念を押した通り、玄関にキッチンと二間続きの部屋。

「うち母子家庭で、兄ちゃんはもう働いて家出てるから何とか場所足りてるんだ」

 知らなかった。母子家庭だなんて一言も。家族の話は弟のノリくんのしか聞いたことがなかった。藍衣は「そこ座って」と綿の潰れた座布団を指すと、冷蔵庫を物色しに行ったようだった。

 狭くて古いけど清潔、生活感で賑やか。そんな印象の部屋。

 襖の奥は布団が三つ並んで畳んであって、白いカーテンを透かす真っ直ぐな陽が差しこんでいた。エアコンをつけてくれたけど、まだ外にいるみたいに暑い。

「やっぱ緑茶しかないわ。氷入れて飲む?」

「ううん、大丈夫」

 本当は喉が乾いていたけど、遠慮する。

 藍衣は私をじっと見たあと、じゃあ話そっかと腰を下ろした。ローテーブルは折りたたみ式で色こそ白だったけど、祐の家のちゃぶ台に似ていた。

「時系列で聞くね。まず土曜にカレー作ったでしょ。日曜は、なんであいつん家に行ったの?」

「勉強するから」

「それってぶっちゃけ勉強してたの?」

 学校を出て電車に乗る間から、私の頭の中は藍衣にどこまで話すかでいっぱいだった。そして初っ端から詰んだ。

 勉強にはなっていない。だって祐がくっついてくるから。くっついてくるのは……。


 話出しを決められない私に業を煮やしたか、藍衣が足を伸ばして寝転んだ。褪せたキャラクターもののクッションを引き寄せて頭に挟む。

「じゃあ、私の話するわ。私ね絶対高い給料のとこに就職したい」

 藍衣を見た。

「だって今、明らかにビンボーでしょ。兄さんはうちらのために高卒で就職したけど、給料少なすぎてホント可哀想」

「そうなの?」

 草取りをしたときの会話を思い出す。突然吐き出すように話し出した彼女の横顔。あのときと同じ、熱に浮かされた瞳の色。

「うんマジで高卒は足元見られてるっぽい。だから絶対大学は合格しなきゃ。私は兄さんみたいにはならない。私は私のためにお金を使いたい。そりゃもちろん余裕があれば仕送りとかできるといいなとは思うけど。ノリもまだ小さいし」

「ノリくんは小学生?」

「そう小六」

 藍衣は話を切った。畳の模様に魅入られてるみたいに黙った。そして顔を上げて宙を睨んだ。

「志望大のレベルは絶対下げない。塾も家計が厳しいのに絞り出してくれてるの分かってる。お金はないけど、人生のレールは自分で敷いてやる」

 こんなに意志のある声を聞いたことがなかった。「すごい」と呟いて、自分の語彙力の貧しさを恥ずかしく思う。

「すごくない。私は凡人だしそれ以外の道がないの」

「そんなことない。藍衣ならきっと実現するよ」

「それって同情?」

 ついと流された視線に、私はなんてつまらない人間なんだろうとがっかりする。言葉を尽くして励ますこともできない。せめて藍衣の自嘲的な問いに必死に首を振った。

「……ごめん、意地悪した。紗世が嘘ついてないのは分かる。でもさぁ、時々考えるんだ」

 藍衣はクッションに顔を伏せた。もっとお金持ちの家に生まれてたらとか、もっと頭がよく生まれてたらとか。叶わない「もっと」はくぐもって届く。

「うちの母親が紗世のお母さんみたいな人だったら、とか」

「あおい」

「つまりさ、私は家庭環境に問題を抱えてるタイプってこと」

 自虐的な言い方に眉が寄る。そんな風に言うのは嫌だった。

「ふふ。紗世のそういうとこ、嫌いじゃないよ」

 やっぱお茶淹れるね。立ち上がった。


 藍衣は——夏休み明けから接して知った彼女は、自分の弱みを曝け出すようなタイプじゃない。主張はしても人を傷つけたり、ましてやへりくだって物を言ったりしない。清廉で強くて、いつの間にかどこのグループにも属さずに私の隣にいてくれた。

「ホントにお構いなくだよ」

 私のためだ。話そう、私も。……でもどこから話す?

 そんなの、決まってるよ。

 だけど決意した途端に脚は震え始めた。

 怖い。

 やっとできた友だちに自分の一番弱くて汚いところを見せるのが。『重い』と言われるかもしれない。離れていってしまうかもしれない。『弱い』と軽蔑されてしまうかもしれない。でも——。

「座って、藍衣」

 あぁそっか、祐も同じだったのかな。『嫌われたくない』ってすごく苦しい言葉だったのかな。

 藍衣は元の場所に座り直してくれた。そして私の脚が震えているのに気づいた。気遣わしげな表情、一度開いて閉じた唇。

「ちょっと長くなるけど、話してもいい?」 

 私は懸命に微笑んだ。



 声が引き攣って、息が上手く出来なくて途切れ途切れの話。暗くて弱くて、面白くもない話を藍衣は時々肯きながら聞いてくれた。

 自分でも驚いたけど、あの日のことはすんなり話せた。脚を出せなくなったことも。でもおばあちゃんが認知症になったと知って、祐に助けられながら部屋に行ったときの話をするときは苦しかった。涙が滲んでしまって、両手を強く握って我慢した。

 よっぽど辛そうな顔をしていたからか、藍衣は私を抱きしめた。ポンポンと背中を優しく叩かれて、藍衣の肩に少し涙を落としてしまった。

「……私、引っかき回したんだね」

 五年前からようやく三日前まで語り終えると、藍衣は私に頭を下げた。

「ごめん紗世」

「そんなことない。藍衣と草取りできたから私、少しマシになったんだよ。おばあちゃんの部屋にもひとりで行けるようになってきたし」

 近くで聞いていた藍衣がそっと離れた。

「ありがとう。夏休み会いにきてくれて。そうでなかったら、私もう学校に行けなかったと思う」

「うん。なんか、そんな気がしてた」

 藍衣が貸してくれた青のハンカチに目を落とす。小さい子が持つような車の柄。気持ちが和んで手で絵をなぞる。まだ少し怖かった、本当はどう思われたんだろう、今日はよくても明日は来週は……。

 唇を噛む。

「紗世さ、スカート丈のこと気にしてるじゃん? でも逆に男子には人気なの知ってる?」

「え?」

 急に話題が変わって口が開く。

「清楚な感じ〜とか、儚さが〜とか。紗世、学校では超絶大人しいキャラだもんね。ツボってる男子結構いるよ」

 信じられない。でも藍衣は至って真面目な顔をしている。

「ま、基本雑音にアンテナ張らないようにしてたでしょ。うちらと仲良い女子もわざと控えてたとこあったしね」

 そうなの? 夏休み明けから疎遠になった女子たちの顔が浮かぶ。

「なんか事情を抱えてんのは察するでしょ。みんな上手くやりたいのは同じだよ」

 愕然とした。あぁ私って本当に自分のことばっかりだった。みんなに気を遣わせてたなんて。

「だからさ、スカートなんて気にしなくていいよ。気休めに聞こえるなら今はそれでいい。でも、それが紗世だって思ってるから」

 ——それが、私?

 藍衣は「やっぱお茶作る。私が飲みたい」とまた立ち上がった。

 私は処理が追いつかない。スカートを気にしなくていい? 頭がいっぱいになる。

「……いいの、かな」

「ん?」

 視界の中で、藍衣の足首が止まった。

「私、このままスカート履けなくても。ハーフパンツも怖くて体育も出られないのに」

「いいよ」

 言い切られる。立ったままの藍衣がこっちを向いて腕を組んだ。

「いい。私が許す」

「なに、それ」

 咄嗟に言い返した。我ながら弱々しく。

「はっきり言うけど、紗世が突然短いスカート履いてきても『ふぅん』で終わる自信ある。だってスカート丈が紗世の全てじゃないし、紗世は……そう、そういうのじゃないから」

 だからほら、泣かなくていいよ。紗世が泣くのは嫌だって言ったじゃん。あーなんかあいつの言葉借りちゃったの癪だ。

 藍衣が近づいて、私が握っていたハンカチを奪った。ごしごしと勝手に私の目を拭く、しかも結構強く。

「痛い……よぉ」

「せっかく拭いてるのに出さないでよ」

「うぅ」

「仕方ないなぁ。私の隠しおやつ持って来てあげる」

 藍衣はお盆に緑茶とポッキーを乗せてきた。それで私はまた藍衣を困らせた。



やっと本題にいこ。

ポキっと藍衣が棒ビスケットを鳴らした。

「そんであいつ、海藤のことはどうすんの」

事情を把握した藍衣の問いは、さらに切れ味が増して聞こえる。

「今日の夜、電話する。祐は祐で変に距離取ろうとしてるから」

私は少々どもりながら「嫌いじゃないって伝えるつもり」と白状した。

「えー未遂とはいえ乱暴したのは事実だよ。もっと徹底的に懲らしめたら?」

「それは……」

「だってまたつけ上がって同じことしそう、あの男」

 確かに。反論できない。


 久しぶりに食べたポッキーは美味しくて、甘さが舌で溶ける度に癒される。耳の痛い恋バナになりそうな気配にも、つい伸びる手が逸った。

 正直さ、と藍衣が口を曲げた。

「紗世には悪いけど、あいつとは受験が終わるまで会ってほしくない」

「どうして?」

「別にあいつが紗世を好きなことを否定はしない。紗世が海藤を大事に思ってることも理解できる」

 ポキッと間を取りながら、言葉を選んで伝えてくれる。

「あいつのために時間とるのは悪いことじゃない。でもそれで志望大落ちたら? 海藤は助けを求めていてそれが紗世にした埋められないんだとしても、入試を受けるのはあいつじゃなくて紗世だよ。それにあいつの留年が決定事項なら、紗世にできることはほとんどないと思う」

 正論でしかない。ぐうの音も出なくて、苦しい言い訳が漏れる。

「父さんからも同じこと言われた。私もそう納得して距離をとったりした」

「でもそれたった一週間で元に戻ったでしょ」

 さよ、と藍衣が姿勢を変えて、身を乗り出した。

「嘘つかないでよ。あいつのこと、どう思ってる?」

 前も聞かれたその質問を、考えなかった訳じゃない。ううん、毎日考えてた。時間はたっぷりあったから。

「私、」

「待って。おばあちゃんとか脚のこと抜きだよ。あいつだけのこと考えて」

「祐だけ?」

「紗世はさ、今ぐちゃぐちゃだよ。おばあちゃんとちゃんと仲直りできなかったことと、おばあちゃんが認知症になってあいつが苦労してるのは別の話。紗世が苦しんで、それであいつも苦しくて縋ってくることは別の話。私には、今のところ紗世がただほだされてるようにしか思えない。……優しいから」

 そこまで言って藍衣は口を引き結んだ。顔も自然と離れて、私はテーブルの白に目を落とす。


 そうなのかな別の話なのかな。祐の事情と私が力になりたいと思うことって。

 ごつん、と頭がぶつかって抱きしめられたときのドキドキは、『好き』と違うんだろうか。

 だって電話すると楽しいし嬉しい。話し続けていたい。声を聞いていたい。そんな風に誰かに思ったことはなかった。

なんて伝えたらいいんだろう。

「……私、みんながいつも彼氏とLINEとかチャットしてるのすごいなって思ってた。そんなにマメに連絡とって、飽きないのかなって。面倒くさくないのかなって」

探るような視線に「あっ藍衣とチャットするのは別! すごく楽しい」と取りなす。

「……友だち相手でもそんな風に思ったの、藍衣が初めてなんだけどね」

恐悦至極だわぁ。茶化さないでよ。

「でも今はね、祐がスマホ持ってないのが残念だなって」

それにふとした瞬間に祐に会いたいと思う。悲しい顔をさせたくないって思う。くっつかれすぎると辛いのかなって心配に————あれ?

「終わり? 立証するにはまだ弱い」

藍衣がポッキーを齧りながら煽る。私はぐっとお腹に力を入れた。

「それに会いたいし……その……祐に触られるのは、嫌じゃ……ない、から」

ぼんっと音を立てて私の顔は色を変えたと思う。だって、

「ハイ私の敗訴。もう私が爆ぜるからやめてー」

と、藍衣は両手を上げて冗談めかした。降参のポーズだ。

「予想以上で引く」

「なんで引くの!」

頑張って言ったのに。じとっと睨んでみたけど、藍衣は眉を上げただけ。

「んーやっぱ紗世は強いなぁって。要領悪いから拗れてるの草だけど」

「私、弱いよ。怖いものばっかりで、何にも頑張ってこなかった……教室でだってはっきり物も言えないもん」

「それはそう」

藍衣の空気がふっと緩んだ。私は安心して手にしていたポッキーを口に放りこんだ。



 いつの間にか布団に落ちる光は赤みを帯びていた。すっかり夕方。

「話しこんじゃった。……ありがとう」

 ありがとう以上のお礼の言葉が伝えられたらいいのにと思う。スカートのプリーツを撫でる。今の私ならこのスカートでどこへでも行ける、そんな気分だった。

「おかげで整理できた」

 良かったね、とクールな反応が返ってきて、私の頬も緩む。

「明日にはあいつも彼氏かー。やだなんか私にまで主張してきそう」

「そんなこと……」

「あるでしょ」

 揶揄うようなニヤつき顔に動揺してしまう。あわあわしてると藍衣はつまらなそうにスマホをスクロールする。

「あー私も絶対大学受かって彼氏作ろ。あんな口も目つきも悪い不憫属性じゃないイケメンね」

「ひどい」

「でも否定できない。ってかそう考えると紗世のシュミ悪」

「う、うるさーい」

 私たちは、声を上げて笑った。祐には悪いけど、テーブルを叩きながら涙が出るほど。そのうちノリくんが何も知らずに帰ってきて、笑い転げる私たちを見て後ずさった。それがまた可笑しくていつまでも笑っていた。


 ——家に帰ると「心配した多田先生から電話があった」と、母さんが仁王立ちで出迎えた。初めてのサボりはあっけなくバレて、来月はお小遣いを減らされることになる。

『さいあく』『ぜったい、多田のやつわざとだ』『許さない』

 お説教が終わって藍衣と報告し合うと八時過ぎていた。

 ——伝えよう、祐に。好きって。

 深呼吸する。どき、どき、と心臓が逸るのに合わせた。

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