27.寂しい

 風邪を引いた。

「紗世、祐くんから何か荷物……」

「わああぁぁ!」

「ちょっと、紗世あんた顔真っ赤……熱あるんじゃない!?」

 母さんが体温計を取りに行った隙に受け取った紙袋を部屋にぶん投げて、茶の間に戻ったときには私も不調を自覚した。熱は三十七度八分。

 学校を休むことになって心底嬉しかったのは、紙袋の中身を母さんに内緒で処理できたから。祐の家のタオルに包まれた湿ったままの下着を確認したときは、さすがに目を剥いて固まったけど、あの家のどこかに干されるよりはマシだったと自分に言い聞かせた。きっと祐も驚いたし、悩んでこうして隠してくれたと信じたい。柔軟剤の香りで洗い立てと分かったのも憎い。

 ってか、人の服を勝手に洗わないよう抗議しようと誓う。

「祐、いつ来たんだろ……」

 さっきまで祐から届いた紙袋という存在だけで、昨日のジェットコースターみたいな展開がまた断片的に私を襲って唸るしかない。

『でも俺はお前のこと好き』

「あーあーあー!」

 なんで勝手に思い出すの私!

 熱が出たのは雨に濡れたからじゃない気がしてくる。なんか心が現実を受け止めきれなくて体がバグったのかも。

 あのあと祐は壊れたロボットみたいに私に軽率に『好き』と言い続けた。普段はぶっきらぼうが服を着てるみたいなのに——。

「あーあーあーあー!」

 どうしよう。私、どうしたらいいの。

 藍衣から『付き合ったら』と言われても受け流してきたのは、祐の態度は恋愛じゃないと思ってたから。でも昨日、前提が崩れてしまった。

 待って……崩れたんだよね……? 祐って、本当に私のこと、好き?

 タオルケット越しに私を温めようとする腕の感覚がよみがえる。

「……次、どんな顔して会えばいいの」

 そこまで考えてはたと気づく。

『じゃあ明日からバスは別々な。勉強もなし』『でももし会ったら、話しかけていいか?』

 祐はきっと、まだ私が祐を『嫌い』だと思ってる。だから今日も祐は私に会わないようにしたのかもしれない。

「私、ちゃんと言わなきゃ。……もう怒ってないって。嫌いじゃないって」

 電話でもいい。とにかく誤解を解かなきゃ。



 ひと眠りして起きると、藍衣とのチャットにはいかに月曜欠席がずるいかが短文で綴られていた。昨日の雨が嘘みたいな快晴が窓から漏れている。

 熱で働かない頭で教室の中を想像する。藍衣は先生の目を盗んでチャットするのがうまい。小テストがあったとか多田がダルそうにしゃべってるのが目に浮かんでちょっと笑う。

『熱たかい?』

『八度はないよ』

『早く治して来てよ』

 断続的に送られてくるチャットにこんなに救われたことはなかった。本音か分からない心配の言葉とかテキトーなスタンプの比にならない。

 まだ昨日のことは消化しきれてないし、恥ずかしいことばかりしてしまったと脳内再生される度に心を乱す。微熱のままならない怠さに目を瞑ったり後悔したり。でも今日の私はひとりぼっちじゃなかった。


 会話の風向きが変わったのは昼休みだった。

『もしかして』『今頃あいつも風邪?』

 普段なら引っかからない藍衣の際どい冗談に引っかかってしまった。

『たぶん大丈夫』

『たぶん?』『ってことは一緒だったわけ』

 そこからは怒涛の質問ぜめと誘導。藍衣の攻めに私は屈した。

『ついに』『彼氏によろしく』

『告られただけ!』『別に何もおめでたくない』

『ま?』『付き合わないの?』

『うん』『なんかそういう話にはならなかった』

『理解不能』

 好きイコール付き合うがセオリーの世の中なのは私も知っている。でも昨日はそういう流れじゃなかったし、付き合うって両想い同士がすることで——。

 そこで、ごめん時間切れと返事が来た。藍衣の塾の時間だ。

『絶対くわしく聞くから』で三時間も続いたチャットは止まった。

 そっかもう夕方か。カーテンの隙間に目をやった。

 祐も、今頃バスかなぁ。もしそうならウチの前を通りかかるから、待ってれば会える?

 なんかストーカーみたいだと布団を引き上げた。熱はまだ下がってないみたいだ。

「もし……」

 もし私が好きって言ったら、付き合うことになるのかな。

 途端、二度目の乱暴なキスや諸々が思い出されてまた悶えた。布団をかぶったり顔だけ出したりをひとりで繰り返す。

 細く見える空の色にすら甘さを伴うのを自覚しながら、眠れずに夜を待っていた。



『だめだ、もう寝ろ』

 すごい勇気を出して私から電話をかけた。でも祐は『声おかしいぞ』と開口一番そう言って、私が風邪を引いたとすぐ見破ってしまった。

「お、お昼まで寝てたから大丈夫」

『声掠れてる。まだ熱あんだろ』

「でも私!……祐に言いたいこと、ある」

 語尾はもごもごになったけど、肝心なことは伝わったらしい。

『……今日やめとけ。治ってから、聞く』

 正直ムッとした。だって朝からなんて伝えようか考えていたのに。

「じゃあ……もう切る」

 ほんのちょっとだけ拗ねて聞こえたのかもしれない。すぐに返事がなくて、もう祐は切っちゃったのかなと思うくらいの静けさが続いた。

『お』

「お?」

『俺がしゃべる。眠くなったら言え』

「……うん」

 電話で良かった。輪をかけてぶっきらぼうに言われたのが嬉しい、優しいと思ってしまった。目の前にいたらきっと「赤い」とバカにされた。


 祐の話は小六のときの、運動会の話だった。小さな小学校だったからみんな係につかねばならず、祐は組頭で私は実行委員長。

『初めて別々に帰ったの、変な感じだった』

 そういつも一緒に帰るのが当たり前だった。集落で同じ学年は私たちだけで、心配する父さんから「くれぐれも」と言い含められていた。でも役割が別々になって、一緒に帰るにはわざわざ約束しないとだめだって知った。

『あの田んぼ道、暑すぎるよな』

 私はただ「うん」と返す。起きてるよの合図のつもり。

『ひとりだとキツいけど、お前とだから我慢できてた』

『あー漆はヤバかった』

『ばあちゃんとお前と、かき氷作るの楽しみだった』

 ——夏は、あの奥の間で毎年おばあちゃんのかき氷を食べた。ガラスの器、銀のギザギザスプーンと、冷たい緑に甘い白のコントラスト。

「私もメロン練乳が! あ」

 しゃべっちゃった、と慌てて口をつぐんだ。でも祐は、

『俺はいちごな。……やっぱお前と話せねぇと寂しいわ』

 と低く笑った。寂しいと言われて胸がぎゅうとなった。

『無理させると悪ぃから、もう切る』

「うん……」

『早く治せよ』

 じゃあおやすみ。おやすみ。

 まるでメトロノームが突然遅くなったみたいなテンポで挨拶し合う。でも、

『……お前切れよ』

「う、うん」

 なんでだろう切りたくない。

『……なぁ』

「……うん」

『治ったら花火な』

「うん」

 それからまた少し沈黙して、また「おやすみ」をして切った。長く通話したせいかスマホが熱を持ってて、ベッドに伏せた。耳の奥に祐の低い音が残ってる感覚がくすぐったくて私は布団の中で丸まった。

 早く、ちゃんと伝えよう。伝えたい。


 ——でも火曜も熱は下がらなくて、私は学校を休んだ。

 全快したのは木曜だった。



 ◇



 病み上がりで見る朝陽って、どうして痛く感じるんだろう。つんと眉間を刺すような眩暈を逃しつつ太陽から視線をはずす。

 バスに酔うといけないと母さんが送ってくれたので、藍衣と駅口で待ち合わせることになった。一番のバスより遅くていつもより早い時間。

 今朝は梅雨に似たじっとりとした曇りだ。真夏の息ができないような暑さではない、空気をたっぷり含んだ温度がじわりと汗を噴き出させる朝。

 でも珍しく気力は充分で、多少の湿気もへっちゃらに思えるのは祐のおかげだった。

 昨日の夜、祐がウチに来たらしい。「紗世に」とお粥を置いて。

 母さんが「あんたもあたしも、足向けて寝れないわ」などと言いつつ温め直してくれたそれは、初めて食べた祐の手料理。出汁の効いた中華粥。

 お腹も胸もほっこり温かい。頑張れと応援されたようで、もう一日休みたいとぐずついていた気持ちが晴れた。

  そろそろ合流時間。暇潰しに藍衣とのチャットを見返した。

 昨日は『カレー』の話題で、明日に控えた試作会の段取りを藍衣が知らせてきていた。私が休んでいる間に祐のレシピから計算した予算が立って、材料も購入済みらしい。

『紗世が休んでも大丈夫なように、要員も万全』。私は作らなくてもいいかも、と期待してしまう。

 新しく垂れてきた汗を拭うと、改札から人が下りてきた。『いまいく』と、通知も来た。休んでいる間に学校の時間は進んでいる。

 だからまずは藍衣に頼んで一限目のノートを写すのが先決と気合を入れる。


 実際、祐から「好き」と言われて三日経って、私の内側の興奮も落ち着いていた。電話のあとに八度を超えた発熱に母さんが出動してしまい、火曜と水曜の電話を控えたこともあって祐の立体感は少し薄れている。部屋に置きっぱなしの借りたTシャツとジャージの存在感には衝動的に丸まりたくなる瞬間もあったし、自分のこの状態を少しは客観的に考えられるようになってきていた。

 今日こそ、ちゃんと祐と話そう。付き合うかどうかは……まだ、結論出ないけど。

 藍衣にも話さなきゃ。改札に続く階段を見上げたときだった。

 M高の人と目が合った。

 あっと私は声を出した。相手も驚いたように目を瞠った。

 髪が茶色で長い、スカートの短い女子だ。祐の友だち。

 私はあからさまに目を逸らした。ドッと心臓が鳴る。

 動揺してスマホを無駄にスクロールした。どうしよう目が合ったことを変に思われたら。早く、早く藍衣に来てほしい。

「ねぇ」

 知らない声。

「ねぇ、あなたサヨでしょ」

「え」

 名前を呼ばれて振り返る。同じ視線の高さに彼女がいた。至近距離で指さされる。

「海藤の幼なじみ」

「あ……うん」

 地毛だ、と思った。彼女の茶髪はすごく自然な赤っぽさで、丁寧に梳かしてあるのが一目で分かった。

「あのさぁ」

 でも声は苛立ちを押し殺したような強さがあって私の心は萎縮した。

「海藤は」

「紗世?……誰、この子」

 詰め寄る女子が言葉を切って、藍衣を振り向いた。私も。

「知り合い?」

 私はなんて答えていいか分からなくてただ藍衣を見つめ返す。でも強い視線が私に再び注いで、私はのろのろと彼女に向き合った。

「祐の友だちですか?」

 ひらりと短いスカートが翻った。長い髪先を弾ませて彼女はいなくなった。

「なにあれ」

「分かんない」全然分からなかった。

 藍衣が大丈夫かと聞いた。でも私は彼女の消えた雑踏から目が離せなくてすぐ答えられなかった。

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