26.好きと嫌い

 薄曇りはみるみるうちに曇天へと変わった。

 ぽつりと肘に雨が当たったと思った瞬間には強く降り出した。ゲリラ豪雨だ。

 祐の家に向かっていた私は文字通りずぶ濡れになって、玄関先で雫を垂らした。インターホンを鳴らすと、

「お前」

 タイミング悪いとか間が悪いとか言いたかったらしい祐が眉を寄せた。ほれ、と投げられたタオルで全身を拭いてお邪魔する。

 ドタドタと祐が戻ってきて今度は着替えを投げつけた。

「投げないで」

「いいから早く着替えろ、貸してやる」

 客間はエアコンで冷やされていて寒いくらいだ。鳥肌の立った腕に、この前まであんなに暑かったのになぁと思う。

 残念なことに下着まで全部濡れてしまい、悩んだ末に上は借りたTシャツ一枚になった。黒くて厚めの生地だから祐にもう一枚借りればいいか。それより問題は下だ。

「どうしよう……」

 M高のハーフパンツ。男子のだけあって長いけど、と履けずに持ったまま見下ろした。いつもは見ないようにしている自分の太腿が黒シャツの裾から白くにゅっと出ていて、思わずズボンで隠した。

「おい紗世、ドライヤー使うかー?」

「い、いい大丈夫!」

 洗面所にいたらしい祐の声に我に返って、私は慌ててズボンを履いた。七分丈、ふくらはぎは出るけど怖いほどではない。ホッとする。

 腰回りの紐を一番短くして結ぶと、なんとか人心地ついた。



 急に、勉強する予定が掃除になった。

 着替え終わった私をじっと見た祐が、「丁度いいから」と言い出した。

「雨の日を待ってたんだよ。裏庭は蚊がすげぇから」

 祐は長ほうきを私に押しつけ、自分は掃除機を持って奥の部屋へと促す。


 この際、なんで手伝わされるのかは飲みこんだ。それよりも祐が掃除しようとしている場所が問題だった。

「祐、私……」

 ほうきの柄を握って、立ちすくむ。祐が襖に手をかけて、奥間の先が細く見えた。

 ——小さなちゃぶ台と暗くて涼しい庭。雨の匂い、ゲームの小さな画面。そして私の脚。

 遠く、脳みそのほんの一部だけが「あぁこの感じ久しぶり」と冷静だった。さっきハーフパンツを履くときだってこんな風にならなかった。

「寒いのか」

 首を振った。掃除機を下ろした祐が側に来た。

「怖いのか」

 肯くにも時間がかかった。脚が震えていた。

 白い、私の膝下はまるであの日のワンピースみたいに白い。どこからか雷鳴がした。

「座るぞ」

 ほうきが抜き取られ、私の両手はそれぞれ祐に包まれた。先に座った祐に支えられながら膝を畳につけた。祐の脚が私を囲んで、向かい合わせで手を深く繋ぎ直された。

 されるままではダメだと思っても、一度座ったらもう脚に力が入らなかった。胸の奥の方からごうごうと風が吹くみたいに私の全身を冷やした。汗が止まらない。

「なぁ」

 うん。

「俺、お前と電話すんの楽しい」

 耳の少し上、私の頭に顔を寄せて祐は言った。返事ができなくても、返事が聞こえるみたいに。

「なんか寝れる。安心すんのかな」

 俯いたままの私に構わず祐はおしゃべりする。

「ずっと要らねぇって思ってたけど、スマホ欲しくなった。家電だと親父がうるせぇから」

 うん。

「昨日のカレー美味かったな。あいつ、結構働くから見直した」

 うん。

「お前の切ったニンジン、ちゃんと柔らかくなってて甘かった。俺、学校以外で誰かと作ったのばあちゃんぶりだった」

 おばあちゃんと聞いて、体が飛び上がりそうになった。頭には昨日のお粥を食べるおばあちゃんが浮かんでるのに、怖いと思わないのに。

「……悪い。紗世、ごめん」

 手が離れたと思ったら抱きすくめられる。手が背に這って、Tシャツ一枚だったことを思い出した。サァっと血の気が引く感覚に上半身でもがく。

「たすく」

「お前、下着ぐらいつけろよ」

 ふっと胸から上が離れた。極限まで顰めた祐の眉間が視界にはいりこむ。

 安堵と混乱と熱と冷えが私の表面でせめぎ合った。でも次の瞬間には大きな手がTシャツの中に入りこんだ。肋骨を親指が骨を確かめるように撫でて、止まって、背の窪みを上った。

 私は反ったり丸まったりして、それから逃げようとした。でも気づいたら仰向けになっていて、祐の肩に押し潰されていた。

「お前、もっと食え」

 はぁと熱い息が無理やり皮膚にうずめられ、知らず高い呻き声が出る。返す呼吸を噛みつくみたいに封じられた。鼻も頬も唇もぐちゃぐちゃにくっついて息もできず、腰と背を往復する手に体はうねった。

「なぁ紗世」

「ぅあ……あ……」

 どうしてそんなところでしゃべるの。なんでなんで。涙がこめかみを流れていく。

「紗世、嫌って言え」

 鼓膜が直に震える。

「俺のことなんか嫌いだって……言えよ」

 ぽたりと頬に水溜りができた。

 言えよ。そうしたら俺。大きな手のひらが顔半分を撫でてまた、小さなキスが降った。


 *


 祐の家の天井だな、と寝返りを打ったところで完全に目が覚めた。

 寝てたんだ私。じゃああれ、夢じゃ……なかった!

 だって私はまだ借りた服を着ていて、客間に敷かれた布団に寝ていた。夏用のタオルケットに巻かれてまるで芋虫の形で。ノーブラで。すると、不意に撫でた手の凹凸を思い出してしまい滅茶苦茶に転がった。

 もう部屋は薄暗くて、夜まで秒読みの気配がする。かすかな雨音。


 とりあえずスマホを探したい。見当たらなくてもそもそと起き上がると、どこからか自分のじゃない匂いが立ち上がった。よく知ってるシャンプーの——。

「わぁあわぁあ!」

 ありとあらゆる暴言を内心で叫びながらタオルケットをかぶった。顔から火が出るってこういうことか、と丸まって表面積を小さくする。

 ひどい。もうしないって言ったのに。許したのに!

 このまま玄関から出て行きたい、帰りたい。でも祐の服では帰れない、絶対母さんに色々バレる。ハッとして手探りでテーブルの下に置いた着替えを探した。

 ない。タオルに挟んだ下着……また、祐に見られた……?

 ううと唸って手で顔を覆った。最悪だ、最低だと声に出す。

  

 それにしても静かだった。ゲリラ豪雨だと思ったけど違ったのか、それともまた別の雲から降り出したのか。

 あまりの放置に、やっぱりあれは夢だったのかもと一瞬期待してすぐ諦めた。耳の上、生え際のあたりがごわついていた。涙で髪が張りついた証拠だ。

 変にサラサラした肌を確かめて、きっと顔は祐が拭いてくれたんだと思った。それはそれですごく恥ずかしいことをされた気分。

 じわりと障子が青く暗く、格子は黒く沈んでいく。部屋全体も私も、深い谷に落ちていくみたいに。川の底で浮かんでるみたいに——。


 私の心は不思議と落ち着いてきて、さっきのことを思い返し始めた。

 よく眠れる、スマホが欲しいと囁いた祐は最後になんて言った?

『俺のことなんか嫌いだって、言えよ』

 私はタオルの中でそっと起き上がった。でも考えがまとまらなくてしばらく四つん這いになったまま考えこんだ。



 真っ暗な客間に静かな足音が入ってきて、私は息を潜めてタオルケットを握りしめる。

「……紗世? どこだ?」

「ここだよ!」

 わ! と祐のシルエットが文字通り飛んだ。暗闇に慣れた私の目には片足で着地したところまで見えた。と、唐突に電気が点いて目が灼けた。

「なんでお前、そんなとこに」

「別にどこにいてもいいでしょ」

 まだチカチカする視界を無視して、祐の方を睨みつけた。今の私はタオルケットをかぶって顔だけ出している。障子側では見つかってしまうと思ったので、襖側の隅に脚を抱えて座っていた。

「てっきりまだ寝てると……」

「五時半には起きてた」

「は? じゃあなんで起きて」

「どんな顔して『おはよう』って言えばいいか分からなかったから」

 祐の歯切れは最初から悪い。対して私は苛立った声を出している。

「祐、そこ座って」

 祐の歩幅で三歩の距離。充分離れていることを確認して私は指さした。無言で胡座をかいた祐は俯いた。口が尖った少しむくれた様子から、今日は誤魔化すつもりだったんだなと察する。それでまた明日の朝、いつも通りに振舞ってなかったことにするか、時間をずらして避けるつもりだったか。

 なんて卑怯。


「私、明日から一緒に登校しない」

 祐の顔がさらに下がった。

「勉強も、もう一緒にしない」

 うん、と頭が動いた。そのまま土下座になりそうなくらい畳に近くなっていく。

「勝手に触らないでよ。手も、体にも」

 さっきの記憶が掠めてちょっとどもった。祐はまた大人しく肯いた。

「あれって乱暴だよ。他の人にしたら警察に捕まるんだよ。わ、私にだって……ダメなん、だから……」

 話す途中で唇がわなわな震えて上手に言えなくなった。

「こわ、怖いよ。やだよ」

 今さら体が怖いと思ったのか、涙まで出てきた。

「嫌だった」

 そうだ、すごく嫌だった。祐を前にしたら分かった。大人がするような行為への興奮と余韻で私は平静じゃなくなってたと知った。

「さよ、」

 パッと祐が顔を上げて立ち上がりかけた。でも糸の切れた人形みたいに腰を落とした。伸ばしかけた手が力なく落ちて、畳の上で色を失っていた。

 そうだよね、勝手に触らないでって言ったから。嫌だって言ったから。

 タオルケットの中で私も手を握りしめた。

「祐のことなんか、嫌い」

 ぎりりと体中の血管が縮んだような痛みが走った。

「嫌い!」

「……分かった」

 座ったまま、祐は私に背を向けた。

「俺のこと許すなよ。ここにも、もう来んな」

 雨の音が大きいと錯覚するほど祐の声は小さかった。

「全部、忘れろよ。この家のこと全部」

「うん、忘れる」


 私はタオルを巻いたまま立った。びくっと祐の肩が上下した。

 一歩、裸足の足を出した。

「毎朝バスで手を繋いできたことも」

 一歩、

「祐が勝手にキスして触ったことも全部」

 一歩、祐を見下ろした。私の歩幅ではあと半分足りなかったけど、構わなかった。

「おばあちゃんにひどいこと言われてスカートが履けなくなったことも、夜とか昼とか勝手に抱きついてきたことも、煙草吸ってるのも本当はすごく苦しくて吸わずにいられないのも」

 祐のつむじに向かって吐き出した。

「勝手なことするけどすごく優しいことも、料理が上手で要領がよくて、勉強も本当は嫌いじゃないけどできなくなって辛いことも、みんな持ってるスマホが欲しいのに我慢してるのも」

 恐る恐る振り向く、私が染めた真っ黒な頭。

「算数が好きでゲームが好きで、本当はお祭りのじゃなくておばあちゃんの焼きそばが大好きで、おばあちゃんのお世話も頑張ってて……辛いのに、ちゃんとやってて……」

「さよ?」

「私、何にもできない。弱いし体力もないし、草取りだって藍衣に手伝ってもらわなかったら無理だった。勉強も、自分のことで精一杯だよ! 少しは力になりたいとか仲良くしようとか思うけど、なんで勝手に手とか繋ぐの。どうしていいか分かんないよ。無視したしバスも変えたし、塾も決めたり卑怯なことして離れたのにまた同じことになるし。夏までって言ったから許してたのに嫌われたくて乱暴するなんて最低、祐のことなんてもう全部、ぜんぶ……」

「紗世、ごめん。ごめんな」

 祐が両手を伸ばした。小さい子がお母さんに抱っこをせがむみたいに私に。

「知らない、もう祐のことなんか」

 でも小さい子なのは私。嘘をついてあとに引けなくなって喚くしかない。

「お前がいいって言わないと触れない」

「やだ、許すなって言ったじゃん!」


 本当は許そうと思ってた。でも私は勢いのままに客間を出て玄関でサンダルをつっかけた。タオルケットが脚に巻きついて上手くいかない。無理に外に出ると雨が顔に吹きつけた。

「……紗世、分かった。送ってくから待ってろ」

「待たない。これ、借りる」

 タオルケットをまとめて抱えようとしたら、端から引っ張られた。

「バカ、風邪引いたらどうする」

「離してよ」

「お前、いい加減に」

 しろよ、と言われる前にうるさいと叫ぼうと思っていた。

 カッ——! 稲光が祐を白く照らした。

 用意していた言葉は咄嗟に悲鳴になって、私はその場にしゃがんだ。タオルケットの端で頭を隠して腰から下が濡れて行くのを、ゴロゴロと雷鳴が遅れて響くのを聞いていた。

「紗世、家入るぞ」

「やだ……帰る」

 荒いため息とともに、祐はタオルケットで私をすっぽり包んだ。そしてその上から私を抱きしめた。

「寒いだろ、次の雷鳴ったら立つぞ」

「触んないって、言ったぁ」

「直接じゃねぇからセーフ」

「う、嘘つき……祐なんか」

「うん、嫌いでいい」

 後ろから腕を回す祐は、私の頭にごつんと頭をぶつけてきた。

「でも俺はお前のこと好き」

 ぎゅううと抱えられて引きずられる。框に物みたいに乗せられて、靴を脱いだらしい祐からまた同じようにハグされた。


「なぁお前さっき、焼きそばの話しただろ。よく覚えてたな」

「……」

「山で遭難しかけたときのこと思い出した。でも俺が好きなのはお祭りのだぞ」

「そんなの、見てれば分かるよ」

 蚊の鳴くような声になった。でも祐には聞こえたらしい。また耳の上にごつんと頭をぶつけてくる。

「だって祐の作る焼きそば、おばあちゃんのだから。豚肉じゃなくて魚肉ソーセージだから。……煮物も、炒め物も全部そうでしょ。あ、やめてぐりぐりしないで!」

「すげぇ好き」

「し、知らないよ!」

 どうしよう、永遠に顔出せない。聞き間違いじゃなかった。

 好きって、好き? 好きがゲシュタルト崩壊する。

「なぁ、まだ怖いか」

 それは雷、それとも祐? 尋ねられる訳もなく、私は大げさに肯いた。

「じゃあ雷行くまで、好きなもの数えるぞ。俺、焼きそばとチャーハンと紗世」

「ううぅ……!」


 雷はなかなか通過せず、私はしばらく祐といた。

 タオルケットを外したら、祐はちゃんと私から離れた。それから「じゃあ明日からバスは別々な。勉強もなし」と笑った。

「でももし会ったら、話しかけていいか?……悪ぃ、もう話したくもねぇよな」

 顔を見るのも恥ずかしくて視線を合わせられなかったせいか、祐は目に見えてしゅんとした。

「俺、お前に会う用事ないなら学校行かねぇかも」

「……バカじゃないの、行きなよ」

「まぁ、そうだな」

 ごく自然に、祐の手が私の頭に『ポン』をしかけた。もちろん着地はせず、私はなんだか寂しいと思ってしまった。

 だからそのとき私は、「電話ならいいよ」と言ってしまった。

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