25.そういうのじゃない
——きっかり八時四十五分。
『はい、海藤です』
『もしもし』
『おう、風呂入ったか』
『まだ』
『なんだよ夜更かしすんなよ。それでカレーはどうなった?』
『んー前例がないから検討するってことになって……』
なんじゃそりゃ。祐はへそを曲げたような声を出した。
『次の委員会が来週で、そこで最終決定だって』
あんなにクラスで盛り上がった『カレー』は、昨日、学祭本部から一度却下されてしまった。調理中に食中毒の可能性が高いメニューは許可できないからってことらしい。
「藍衣が今さら許せないとか言って……生徒会長が知り合いだからって乗りこんで保留になったみたい」
『へぇ、あいつ意外にやるな』
「そうだよね」
『なら月曜は予定通りやるんだろ』
「それが金曜に延期になったんだけど」
延期はともかく
藍衣の一件で、他のメニューも衛生上問題ないか確認すべきだって声が挙がったらしく、食品を出すクラスは作って見せることになった。
「とりあえず土曜にウチで練習することにした」
『あいつも?』
「うん。私と藍衣、クラスの代表になっちゃったから……」
他の試作係の子たちは逃げた。いや本当は私も逃げたい。注目されそうな場所でそこまで得意じゃない料理をするなんて。
『なら俺も手伝う。俺ん家でもいいなら』
「いいの?」
『カレーなら親父がバカみたいに食うから。うちの分も分けてくれると助かる』
今日はもう木曜。あれから祐とは毎日電話していた。
火曜はなし、水曜は祐から。そして今日は報告もあって私から。
「むしろ私が助かる。……ありがとう、祐」
『おう。ってかお前、ピーラー使えるよな?』
「それくらいできる!」
『はは、あやしいな』
会話は日を追うごとに驚くほど弾んで、なかなか切れないから不思議。それに直接よりも少しだけ素直に言葉が出る。
『そういや今日クラスの奴が……』
用件が終わると、祐が話題を振ってくる。わざわざ話すにはどうでもいい、教室でだらだらしゃべるような世間話。でもどうしてかそれがちょっと楽しくて、私は最後まで話を聞いてしまう。祐が学校のことを話すこと自体珍しいのもあるのかもしれない。ひとつ話が終わると、沈黙。でもまた、祐が何か言う。私も答える、話が続く。
それで気づいたら九時十五分過ぎて、母さんが「紗世! お風呂入んなさい!」と怒る声がして二人で慌てる。昨日もそうだった。
『じゃあまた明日な』と祐が笑う。
『おやすみ』
「お、おやすみ……」
私は切れた途端、枕に顔を突っこんだ。
こそばゆい。
くすぐられたようなぞわぞわに、タオルケットが蹴りまくられてぐちゃぐちゃになる。母さんがドスドス足音で主張するのが聞こえて、私はやっと顔を上げることにした。
お風呂に入ったら少し勉強して寝る、そして祐と登校する――電話を始めてから、手を繋がれるとなぜか照れてしまう。祐は何も変わらないように見えるのが少し悔しい。
祐から提案されたのは豚ひき肉のキーマカレー風。他の具はトマト缶と玉ねぎとニンジン。
「すぐできるし大きな具がないからアレンジしやすい」
「確かに簡単そう。ルウは?」
「これ」
シンク下から出てきた、業務用と大きく書かれた銀色のパウチは迫力があって、私と藍衣は思わず「おー」と声を出した。
「デカい鍋で作って三等分にして、仕上げのスパイスの量を決めるといいだろ」
うんうん、と肯く藍衣。私もさすが段取りがいいなぁと感心する。
「紗世はニンジン剥いて」
藍衣は人の家の台所でも物怖じせず指示を出す。祐と材料の確認もテキパキして、いつのも藍衣とは少し違う。
私はというとピーラーも満足に使えてない。
苦戦する私に気づいた祐が「こいつはさ」と私の手の上からニンジンとピーラをそれぞれ支えると、ニンジンの角度を変えて一気に刃を滑らせた。しゅるりと皮は長く剥ける。
「刃が鈍いから強く押しつけねぇと。悪いな、道具が古くて」
そう言う間にも祐は私の手を操る。
「わ、私が」
少しガタガタだけど、今度はそれなりに長く剥けた。
「すぐ慣れる」
「うん」
「ちょっとそこ、いちゃつかないで」
藍衣のげんなりした声がして、祐がパッと離れた。私もハッとした。
「あんたたちの日常が垣間見えて、ちょっと引いた」
「ちが、今のは!」
ハイハイと、藍衣は釜を持ち上げた。
「米炊くんでちょっとお邪魔しまぁす」
「……お前、米炊けんのか」
祐がまな板ごと避けた。
「あんたホント無礼。小四から炊いてるわ、任せてよ」
「小学生って、すごい」
「まぁ兄弟多いからね、お小遣い稼ぎ」
藍衣の手つきを見れば、それが嘘じゃないことが分かった。
ニンニクと生姜。サラダ油の透明な中でしゅわしゅわと泡が弾けて、台所中にいい香りが立ちこめる。祐の刻んだ玉ねぎは均等で細かい。対して私のニンジンは不格好もいいとこだ。
フライパンで炒めたひき肉を鍋の中で合わせて、トマト缶と水を入れる。コンソメを何個か入れて蓋をした。おばあちゃんがよく使ってた、薄い金色の鍋は大きくて二十人分はできそう。
中が気になって側にいたら祐が、
「炒めてるから灰汁はあんま出ねぇぞ、少しほっとけよ」
と、見下ろした。私が突っ立ってる間に祐はすでに洗い物を終わらせたらしい。藍衣も炊飯器が鳴ったと同時にしゃもじでかき混ぜて、「お皿これとか使う?」と準備を進めている。
私はただ立ってるだけ。
「二人ともすごいよ」
するりと本音が口をついて出た。
藍衣がしゃもじの米を摘んで食べた。
「なにが?」
「なんか、要領がいい……?」
「確かにお前は要領よくないな」
祐が頭をポンとした。
「あんたははっきり言いすぎ。……まぁでも強く否定はできない」
藍衣の苦笑いに、やっぱりそうだよねと少し暗い気持ちになる。
祐が私の横からぱかっと蓋を持ち上げて、さっとお玉でかき混ぜた。玉ねぎとトマトの煮える匂いが前髪を温めた。
「でもお前は、そういうんじゃねぇから」
「え?」
「そうそう。紗世はそういうのはいいから」
「どういうこと?」
「おい、やっぱりとろみが足んねぇな」
わざとらしく祐がはぐらかした。
「じゃがいもすりおろすか」
「ねぇ、どういうこと」
藍衣も答える気はないのか祐に乗っかった。
「今から? じゃがいもどこよ?」
「足元」
食い下がれなかった。藍衣がじゃがいもを寄越したからと、大人しく洗う自分が情けない。
「このじゃがいもデカいね、どこで買ったの」
「病院とこのスーパー。野菜安い」
「へぇ」
ぼんやり話を聞きながら、意地悪な感じはしなかったからいいや、と諦めた。
それよりも野菜のすりおろしは意外に力が必要で、私はすぐにバテた。最後は祐が「お前らが作るカレーだろ」とブツブツ言いながらもやってくれた。
*
「ごしょうばーん!」
「美味そうじゃねぇか。どれが辛いんだ?」
母さんと辰おじさんが一緒に台所に入ってきて、賑やかな試食会が始まった。辰おじさんはかなりの辛党のようで、一番辛口のカレーにさらにスパイスを振って食べる。
母さんは中辛を食べて勝手に分析を始めた。
「あら美味しい! 丁度いい感じにもったりしてて食べやすそうね。ひき肉のカレーって水が多いとさらさらしちゃうじゃない? でもこれなら量も取れるし、具もニンジンだけだから露店向きかも」
「んーでもなんかニンジンもすりおろしてもいいかもね。ニンジン嫌いはダメかも」
藍衣が甘口をもぐつきながら母さんに応えた。
「藍衣ちゃん鋭い。ウチの父さんはたぶん食べられない。ね、紗世?」
父さんは自他ともに認めるニンジン嫌いだ。私も中辛にスパイスをひと振りしてみる。
「うん。絶対ニンジンだけ残すと思う」
大人なのに残すの。藍衣が笑って、母さんが「子どもみたいでしょ」とつられたように笑った。辰おじさんはもう二回もおかわりしている。
三回目のおかわりで私は立ち上がった。祐の皿だけ白いままなのだ。「ばあちゃんに飯食わせてくる」と行ったきり、祐は戻って来てない。
私は台所に水を汲みに行くフリをして、そっとそこを離れた。
祐はやっぱりおばあちゃんの部屋にいた。
「ばあちゃん。今日の、美味いだろ」
ほんの一口、ひと匙のお粥をゆっくりゆっくり口に運んでいた。
「カレーの匂いするだろ。紗世と作ったんだぞ」
私は半分開いた戸の隙間からそれを見ていた。初めてだった、ご飯を食べさせるのを見るのは。
上手に飲みこめないのか、おばあちゃんは何度もあぐあぐと喉を動かしていた。窓の障子がお昼の明るさに真っ白に光って、首の皺の一本一本まで鮮明。おばあちゃんの髪が寝乱れてぐちゃぐちゃだ。
「なんだ、どうした」
祐が私に気づいて、こっちを見た。
「祐の分、なくなりそうだから呼びに来たよ」
「俺のは何でもいい。それより親父に食われる前に、どの味にするかお前が食べとけよ」
そうだった。学祭の試作だった、食べなきゃ。
でも立ち去り難くて、祐も早く行けとは言わない。
「ばあちゃんもカレー好きだったんだ」
「うん」
「甘口溶かしたやつ、ちょっと混ぜた。ちゃんと食ってる」
「そっか」
「なぁばあちゃん、美味いだろ」
リクライニングで起き上がったはずのおばあちゃんは、ベッドに乗り上げた祐よりもすごく小さい。まだ遠くからしかそれを眺められない私には、その光景はあったかくて切なく見えた。ずっと見ていたいような、見ていられないような気持ちで見つめていた。
辰おじさんと相談があると、母さんはそのまま祐の家に残った。私と藍衣は先にウチに戻って待つことにした。
「あー食べすぎたー」と床に伸びる藍衣に同感しつつ、私もテーブルにぐったりを腕を投げ出した。
「それにしても、あいつガチ。うちの生徒のフリして作らせられないかな」
「バレるよ」
「だよね」
みんなが食べ終わった頃に戻ってきた祐は三種類を同じ量平らげて、「中辛だな」と宣言した。
「大盛りも出せ」「煮詰まると濃くてスパイスの味が沈むから、面倒でもこまめに運べ」「ニンジンは確かになくてもいいけど、甘みは欲しいからすりおろしてでも入れろ」「トッピングはいいけど、チーズはやめろ。映えを優先して食中毒出したら元も子もない」
祐の助言は私がスマホにメモした。藍衣はトッピングは諦めきれないようで口論になりかけてたけど。
「紗世ってさ、やっぱり県外?」
間延びした問いかけに私はスマホを見ながら答えた。
「え、うん。受かれば……だけど」
「あいつと離れるけど、いいの?」
そりゃ家から出るんだから当たり前。
笑い飛ばそうとした。
「予想以上に仲いいじゃん。一緒にいるとこ、ちゃんと見たの初めてだったからさ」
「そこまでじゃ」
「そこまでだよ」
断言され、もごもごしていた口が開かない。台所で揶揄ったのは冗談じゃなかったらしい。
「紗世、あいつと付き合ったら。宙ぶらりんは良くない」
藍衣が起き上がった。
「あんたら誰が見てもいちゃついてると思うよ」
「……そんなつもりない」
きれいにカールしたまつ毛が瞬いた。
「私、結構聞かれるよ。紗世の彼氏なのって」
「え! 嘘、そんなの誰からも」
まぁ聞きづらいんじゃない?
ついと逸らされた視線に、真実味が増す。
「一応聞くけどさ、紗世はあいつのことどう思ってんの?」
「どうって」
祐は料理が上手で強くて——。
「好きとか嫌いとかあるでしょ」
「その二択は……ずるい」
「ワンチャン引っかかるかと」
私が睨むと藍衣は「ごめん」と、またテーブルの下に寝転んだ。
「あのさ、私と祐は別に」
「紗世が泣かなきゃいい」
え、と聞き返した。大の字の藍衣は天井を仰いだままで答えた。
「あいつと付き合ったって合わなくたってどうでもいいよ。でも紗世が泣くのは見たくないから」
「うん……。ありがと」
まぁ受験生だし家も近いから焦んなくていいと思うけどさ。
藍衣はそう言って濁すとすぐに話題を変えた。
相づちを打ちながら、私は急に藍衣に全部話したくなった。
祐のこと、私のこと。
夏休み前と夏休みのこと。おばあちゃんのこと、祐が料理が上手な理由――。
夏までなんだよ、と言いたかった。今だけ好きなようにしてるだけで、私たちはあとひと月もしないで会わなくなる予定なんだよ、と。
やだ、今日からずっと雨だって。母さんがアイメイクをしながら天気予報に文句を言う。
日曜なのに慌ただしいと思ったら、おばあちゃんの施設候補見学に行くらしい。
「夕方に帰ると思うわ。お昼、冷蔵庫の物で食べてね。あ、紗世も出かけるんだっけ」
部屋着じゃない服に気づいたのか、鏡越しにこっちを見ている。
「祐と勉強する」
「紗世はともかく、祐くんて勉強進んでるの」
「……やってはいるっぽい」
本当のところは分からない。でも母さんにまさか『プリント一枚やったら抱きついてくる』とは言えない。
「辰くんの話だと、留年する気はなさそうなのよね。ってことは春から定時制とか通信に通うつもりなんだろうけど。あの親子、大事なことになると口下手になるし」
分かる。それで話してもケンカになるんだろうな。
「大学志望してる紗世とは気まずい話題かもしれないけど……祐くんも紗世にしか言えないこともあるだろうし、ちょっと話聞いてみてくれる?」
「なんで私が」
「だって心配なんだもの」
ハァとリップを塗りながら母さんが振り向いた。
「もし紗世が大学も家から通うなら話は別だけど、県外に行くなら母さんはまた父さんのところにちょくちょく行くと思うのよ。父さんの部屋見た? もうすごいことになってる」
「うん、荒れてきてたね。……心配なら行ってきていいのに」
「父さんは大人、あんたはまだ子ども。あたしは紗世がここに住んでる限り一緒にいるって決めたから」
アイラインの滲みを直すとメイク道具を片付け始める。
「でも祐くんは、辰くんとこの子だからね」
「うん……」
聞けたらでいいからね、と念を押して母さんは出かけていった。
情に厚い母さんが突き放したような言い方をしたのが引っかかって、私は約束の時間までぼんやりした。
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