20.嬉しい

 翌日、時間通り藍衣がウチに来て草取りを再開した。

「なんであんたもいんの」

「俺ん家だ、文句あるか」

 藍衣と祐の睨み合いをくぐって、私は「おはようございまーす」と祐の家にお邪魔した。さっさと客間に入りこんで荷物を置く。

「お邪魔します」と納得いってない藍衣の声がして、私は少し苦笑する。

 二人とも素直じゃないのが笑える。


「今さらだけど、なんでアイツんの草取りしてんの?」

 ウチでジャージに着替えながら藍衣は私に尋ねた。今思いついたような口調。

「あー……手伝いだよ。祐の家、みんな忙しいから」

「なんで紗世がするの? フツー事情があるなら大人がしない?」

 色んな言葉が巡った。

「私が手伝いたくて始めたから。……庭がきれいになるまでしたいんだ」

 学校で聞かれてたら笑って誤魔化したかもしれない。でもそう答えた。

 ふうん。

 薄い反応にひやりとする。キャラじゃないと思われたかも、事情をぼやかしたことを面白く思わなかったかも。

 でも、

「紗世って偉いよね」

 と藍衣が言った。サラサラの長い髪を束ねながら、私に首を傾げた。

「誰かを『手伝いたい』なんて偉くない? あんま思ったことない」

「そうかな」

「なんか理由があるってことでしょ?」

 藍衣の言葉は潔くてありがたかった。少し照れる。

「えと……祐も、藍衣に感謝してたよ。ありがとうって」

「ウッザ。私は紗世を手伝ってんのに」


 しっかり日焼け止めを塗っておばあちゃんの麦わら帽子をかぶってから、私たちは地面にへばりついた。分担は同じ。その甲斐あってかおとといよりも作業は捗った、どんどん土が広がっていく。祐も時々来て、抜いて山になった草を外に捨てに行ってくれた。

「手伝うなら、全部やればいいのに」

 藍衣が憎々しげに言うから笑ってしまう。

「祐も忙しいから」

 それに課題も増えちゃったし、大変だよね。


 根についた土を払いながら、昨日の祐を思う。

 聞いてはいたけど、本当に勉強してなかったと分かった。一年で習う公式を使えば簡単にできるはずの問いも、初めて解いた顔をしていた。

 あとどれくらい単位が足りないんだろう。どこまで遡って勉強しなきゃいけないんだろう。ただ行ってれば進級できると思っていた学校が突然、厳しい場所のように感じられる。

 来年の四月、進級した一つ下の生徒の中にひとり残る祐は——。


 教室でひとりぼっちの祐を想像してしまい、急に胸が詰まった。わざとよいしょと声を出す。イメージを振り払いたかった。朝は晴れてたのに今は少し曇ってきてじっとりと暑い。

「ねぇ。紗世ってさ、塾とか行かないの」

 地面から目を離さずに、藍衣が言った。私は庭の端に乾き始めた草を落としてまた戻る。

「判定やばいって言ってなかったっけ」

「うん。やばいけど……」

「私も。でもそれなりの大学行っておかないとロクな就職ないじゃん。志望大は下げる訳いかないし」

 思わず手が止まる。藍衣の薄い背中を見た。

「あと半年で自分の人生ほとんど決まるなんてクソ過ぎる」

 半年で人生?

「失敗したら一生消えないラベルが貼られてさ、嫌でもそれで足元見られる人生とか」

 さいあく。藍衣は吐き捨て黙った。

「藍衣? どうしたの」

 彼女の肩は怒りに震えてるように見えた。声も、いつもの気怠い冷静な色が塗りつぶされたみたいに強い。私の声も戸惑いで揺れた。

「……別になんでもない」

 ざく、と鎌の先が根を断ち切るように土に刺さるのを、私は何も言えないまま見ていた。


 そのあと、祐に「昼だぞ」と言われて草取りは自然に終わりになった。ウチに戻ってシャワーを浴びたところで母さんが帰ってきて、藍衣は駅まで送られて行った。

 何となく気まずいまま別れてしまったことが気になって、私はお昼も食べないで茶の間に寝転がっている。

 あと半年で人生決まる……って、受験のことだよね。

 藍衣がそこまで大学受験にこだわっているなんて知らなかった。学校での藍衣は小テストだって期末テストだって余裕そうで、焦って勉強している姿なんか見たことない。

『ごめんさよ』

『雰囲気わるくした』

『明日も手伝いたい』

 ありがとう、と返した。

 それで初めて、私が庭の草取りをしたいように、藍衣も私を手伝いたい理由があるのかなと思う。よく考えてみると、仲がいいからってこんなに手伝ってくれるのも変だ。

 ……もういいや、眠い。

 いつの間にか寝ていて、戻った母さんから呆れられてしまった。

 夕方には祐がまた来て一緒に勉強をした。終わると、また私の頭を撫でて帰っていった。



「あれ!?」

「えっ昨日より進んでない?」

 今朝は快晴。空には少しだけ秋っぽい雲が漂っていて、少しだけ涼しい気分だねなんて藍衣と話して——フル装備で庭に臨んだ私たちは顔を見合わせた。


 明らかに土の面積が広がっていた。地面の色もまだ掘り返したばかりのような濃い色をしている、間違いない。

「さぁちゃん! おはようさん」

 玄関口がガラリと開いて現れたのは辰おじさんだった。

「おぉあんたが藍衣ちゃんか! すまねぇなぁ人んちの庭の片付けなんてさせちまってよ!」

 おじさんは藍衣にぐいっと近づいて、満面の笑みで「俺ぁ、辰ってんだ。ありがとなぁ!」と頭を下げた。藍衣は大柄なおじさんの圧にちょっと引いてる。わかる、と目を逸らしつつ助け舟を出した。

「おじさん、今日は仕事お休みなんですか?」

「おう。午後から清子さんと施設に行ってみるってんでな。午前中は俺も手伝わしてくれや。ずっとそれどころじゃなかったから放りっぱなしにしちまったが……あんたらに全部させるのは、ばあに面目が立たねぇからな!」

 見れば辰おじさんはすでにゴム長靴を履いていてやる気満々。

 藍衣が大きな目を瞬かせておじさんを真っ直ぐに見上げた。

「じゃあおじさんが鎌で根を掘ってくれますか? 私たちで土を払うので」

「そりゃあ助かる。ちと腰が痛ぇと思ってたところだ」

「じゃあ決まりですね」

 おじさんは藍衣の仕切りに感心したように肯いてから、鎌を取りに場を離れた。

「あれって、あいつの父?」

「うん」

 藍衣が声を顰めた。

「なんていうか……声デカくね?」

「ちょっとね。でもいいおじさんだよ」

 まぁそれはなんとなく分かる、と呟き、藍衣は帽子をかぶり直した。祐は出てこないところをみると、きっと家のことをしてるんだろう。


 腰が入ってるってこういうことか。

 おじさんの掘りの力強さに、藍衣と私は口が開きっぱなしになった。見る見るうちに地面が浮いていく。

 でも二人で同時に我に返った。負けじと手を動かす。スピードが違いすぎるのはともかく、私たちももう素人じゃない。

 結果、辰おじさんを加えた私たちの草取りは凄まじい速さで捗った。


 ――背の高い雑草で隠れていた濡れ縁が見えた。

 庭の奥行きが広がって、忘れていた景色が色濃く思い出された。

 あぁそうだここに紫の花が咲いてた。ここには鈴蘭が。大きな石の隙間には、青い実がなる葉が茂ってた——。

 でもそこにあったはずの花や植物はもうどこにも見つからなかった。

 途中、おじさんが掘り返す中にないだろうかと探してみたけど、やっぱりなかった。世話する人がいなくなって枯れてしまったのかもしれないと気づいて、探すのはやめた。



 私たちはおじさんの勢いに乗って、一度の休憩もなく没頭した。それでも暑くて暑くて、下を向いている顔に熱が溜まってどうしようもなくなった頃、「昼飯食え」と祐が呼んだ。

 おじさんが腰を伸ばして「あーいてて」と声を上げた。

「もうそんな時間か。げっ小綺麗にしねぇと清子さんに叱られちまう。あんたらも家で飯食ってってくれ」

 おじさんの頭に巻いたタオルは絞れそうなほどに濡れていた。でも庭はもう、ほとんど掘り返すところがないくらいになっていた。

 手を挙げて家の中に入るおじさんに、思わず尊敬の眼差しを向けたのは私だけじゃなかったと思う。

「すごいね」

「もしかしたら今日で終わるかも」

 すごく疲れていた。でも、終わりが見えた喜びに、私も藍衣も笑った。祐がもう一度「飯!」と呼んだ。



 *



 客間に並んだおにぎりと豚じゃがと漬物に、藍衣は目を丸くした。

「私も……いいの?」

「足りねぇならまた米炊くぞ」

「は? あんたが作ったの⁉︎」

「卵焼きならすぐできる」

 微妙に噛み合ってない。

「祐のご飯、すごく美味しいよ。いただこうよ」

 くすぐったいような誇らしい気持ちで、私は藍衣の腕を引いた。本当は母さんが用意してくれたお昼もあった。でもこれは祐の感謝の気持ちだって分かったから、ありがたく食べるべきだと思った。それにとっても美味しそうだ。

 藍衣も出来立ての豚じゃがに目が釘付けになっている。出汁の香りの湯気を立てて、早く食べろと誘われてる。

「卵焼きも食うか?」とまだ言ってる祐に大丈夫と答え、さっさと小皿に豚じゃがを取り分けた。

 力なく座った藍衣は小さく「いただきます」と言って、まずはきれいに海苔の巻いてあるおにぎりを頬張った。顔を見れば美味しいと思ってるのが分かった。

 可笑しかったのは、結局すぐ祐が卵焼きも拵えて持ってきたことだ。ふかふかの卵の層から優しい甘さの出汁が口の中でいっぱいになって、私はまた笑ってしまった。藍衣も悔しげに、でも残さず食べた。

 下げ膳に来た祐は変に眉間に皺を寄せていたけど、私にはすごく嬉しそうに見えた。



 藍衣は帰る前、ウチで髪を乾かしながら顔を顰めた。

「あーせっかくなら最後までやりたかった」

「でも塾なんでしょ」

「……サボろっかな」

 その声が唐突に低くて、私はそっと振り返った。

 目が合った、私が振り返るのを知ってたみたいな表情。

 私は少し迷って、言った。

「いいんじゃない?」

「ハァー……。紗世は優しいよね」

 藍衣は目を伏せた。

「人の顔色気にしすぎてちょっとウザいって思ってたときもあったけど」

 湿った長い髪の水気で、彼女の肩がじわりと滲む。私は気づかれないように息を止めた。

「弱すぎるってさ。でもなんか、最近は逆に強いんだなって思うわ」

「私、……全然強くなんかない」

 藍衣の言う通りだ、学校では人の顔色を窺って脚を隠すことに必死になってる。

「でも紗世、逃げないじゃん。嫌なこと言われて黙って笑ってる。そんなん無理だよ」

「……私的には『逃げ』だと思ってたんだけど。私……藍衣みたいに話をフォローしたりズバッと突っ込んだり、できないし……」

「そっか」

 藍衣はタオルドライを再開して、小さく「ないものねだりってやつかな」と呟いた。

『紗世のシャンプーいい匂い』

『真似しよ』

 藍衣をバス停で見送ってすぐ、そんなチャットが来た。

 きっと藍衣は塾に行くし、明日も今日みたいに仲良くできる。そんな気持ちで笑ってるうさぎのスタンプを送った。

 そうして真っ直ぐ祐の家に戻った。最後まで終わらせたい、今日のうちに庭をきれいにしたい。無性にそう思った。



 ◇



「お、終わったぁ」

 全部抜いた。

 全部、土が見えていた。百日紅の足元まで岩の隙間まで、みんなきれいになった。

「お疲れさん」

 感動か疲れかでぼうっとしていると、祐が私の横に立った。少し前から、祐も一緒に作業していた。

 何となく涼しい風が吹いた。祐と私は玄関を背にして庭の真ん中に立っている。

 ぽつりと祐が言った。

「あそこに、秋になると桔梗が咲いてた」

 そっか、あれは桔梗だったんだ。紫の、おぼろげな記憶を辿る。

 同じことを思い出すんだなぁ。

「あの辺、春にはクロッカスが咲いてたよな。もしかしたら、毎年咲いてたのかもしれねぇけど」

「きっと咲くよ。あれって球根だよね? 掘り起こしてないと思うから」

「うん」

 そうして私たちは、ここには白があそこには黄色が、と答え合わせをしながら、ゆっくりのっぺらぼうの庭を歩き回った。嬉しくて、悲しい気持ち。何にもない庭が寂しい。

 不意に視界に長い腕が生えた。麦わらの縁がひしゃげたと同時、私は祐に抱きしめられていた。お互いの汗で濡れてしまうんじゃないかと思うくらい、背中から上は祐の胸とぴったりくっついていた。

「ありがとな」

 麦わら越しに声がした。

「ばあちゃん、すごく喜ぶと思う。俺もすげぇなんか、嬉しい」

 うん、と返すので精一杯だった。縋るような気配じゃなかったから。大型犬がじゃれついてる感じでも。触れてる部分が湿って熱くて、困った。

「今度さ、花火しねぇ?」

「え?」

「前はしてただろ。毎年」

「そう、だけど」

「スーパーに盆の売れ残りがあったから、次買ってくる」

 腕がまた強くなって、私は「たすく」と呼ぶ。

「暑い」

「うん。でももうちょい」

 もうちょいじゃないよ!

 とは言えず、尋常じゃない暑さにもうちょい耐える覚悟をしかけると、ちょうど五時の鐘が鳴った。するとあっけないほど簡単に腕が解けた。

「お前、もう帰れ。……明日、朝迎えに行くからな」

「うん」

 離れたあと、じっとりと濡れた感触だけ背中に残った。シャワーを浴びるまでずっと熱いままだった。

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